第二十二話 畷に消えた太守
天正十二年三月二十四日、朝。
龍造寺隆信、自ら二万五千の大軍を率い、沖田畷へと進軍を開始した。
義誠は、退路を塞ぐ伏兵の一角を任され、木立の中に身を潜めていた。周りに控える兵たちの息遣いが、痛いほど近くに感じられる。傍らの若い兵が、幾度も柄を握り直しているのが分かった。
「怖いか」
義誠が小さく尋ねると、若い兵は、驚いたように顔を上げた。
「……正直に申せば、怖うございます。二万五千と聞けば」
「怖いのは、正しい。ただ、数だけを見て怯えるな。この畷では、数はむしろ、あちらの枷になる」
義誠は、それだけ告げて、再び畷の向こうへ目を戻した。
——史実の通りだ。隆信公は、この畷で、自らの大軍を過信し、身動きの取れぬ隘路へと踏み込んでくる。
物見からの合図が届いた。龍造寺の先鋒が、大木戸へと向かって進み始めたという。
「大軍を恐れて、鹿垣に籠っておるだけの弱兵ぞ。押し通れ!」
畷の向こうから、そんな怒号が聞こえてくる。義誠は、静かに息を整えた。
——数の多さが、判断を曇らせる。それは、木崎原でも、耳川でも、変わらぬ理屈だった。
龍造寺の大軍は、細い畷の道へと、次々に隊列を伸ばしていった。深田に足を取られ、隊列は乱れがちになる。それでも、後方から押し寄せる兵の勢いに、前方の兵は止まることを許されなかった。
「今だ!」
家久の号令と共に、柵の内側に伏せていた島津・有馬の兵が、一斉に矢玉を浴びせた。狭い畷の中、逃げ場を失った龍造寺の兵は、瞬く間に混乱に陥る。
義誠は、その頃合いを見計らい、退路の一角へと兵を進めた。
「退路を塞げ。だが、深追いはするな。崩れた敵を、この畷の中に押し留めるだけでよい」
義誠の下知に、兵たちが応じる。龍造寺の大軍は、進むも退くもできぬまま、狭い泥田の中で、次第に自らの数に押し潰されていった。
——大軍であることが、ここでは、そのまま枷になる。
義誠は、乱戦の中を駆けながら、必要な相手にだけ刃を向けた。降ろうとする者、すでに戦意を失った雑兵にまでは、深追いしなかった。だが、なお指揮を執ろうとする将らしき者には、容赦なく刃を振るった。
混乱の中、龍造寺隆信の本陣もまた、次第に追い詰められていった。輿に乗り、なお指揮を執ろうとしていた隆信だったが、周囲の兵が次々と崩れ、討たれていく中で、その輿もまた、島津方の兵に囲まれつつあった。
「敵将、討ち取ったり!」
やがて、そんな叫び声が、畷のどこかから上がった。島津方の川上忠堅という武士が、龍造寺隆信を討ち取ったのだという。
義誠は、その報せを、乱戦の只中で聞いた。
——史実の通り、隆信公は、この畷で果てる。
感慨に浸る間もなく、義誠は、なおも抗おうとする敵兵の相手を続けねばならなかった。大将を失った龍造寺軍は、それでもすぐには崩れきらず、混乱の中で、なお斬り合いが続いていた。
日が高くなる頃には、戦の趨勢は、完全に決していた。総大将を失った龍造寺軍は、算を乱して敗走を始めた。畷の泥田には、討ち死にした兵の骸が、幾重にも折り重なっていた。
義誠は、乱戦を終えた後、その光景を、静かに見渡した。
——木崎原、耳川、そして此度の沖田畷。三度、大軍を打ち破ってきた。だが、その度に、これほどまでの骸を目にすることに、慣れることはない。
蔵人が、傷ついた腕を押さえながら、義誠の傍らに立った。
「大将首を取ったのは、我らではなかったが……この勝ち、お主の絵図があってこそのものだ」
「川上殿の武功だ。私は、ただ、退路を塞いだだけに過ぎぬ」
「その退路を塞いだからこそ、隆信公は逃げ場を失った。功を譲るところは、案外律儀な男よ」
義誠は、それに答えず、遠く畷の向こうを見つめていた。泥に沈む骸の中には、龍造寺方の若い兵の姿も、幾つも見えた。先ほど怯えていた自軍の若い兵と、そう変わらぬ歳頃の者たちだった。
——数えきれぬほどの命が、この一戦で沈んだ。それでも、これ以上の犠牲を避けるための一戦だったのだと、義誠は自分に言い聞かせた。
大将を失った龍造寺氏は、この後、家臣の鍋島直茂と共に、島津への服属を選ぶことになる。北部九州の大部分が、島津の勢力下に入る——その大きな節目に、義誠は今、確かに立ち会っていた。
——九州統一まで、あと一歩。だが、それは同時に、これまでとは比べ物にならぬほど大きな相手が、いよいよ視界に入ってくるということでもある。
前世の記憶にある「豊臣秀吉」という名を、義誠は、静かに胸の内で繰り返した。
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あとがき
沖田畷の戦い、本戦を描きました。実際に龍造寺隆信を討ち取ったのは川上忠堅という武将で、義誠がその手柄を横取りしない形にしたのは、これまでの彼らしい在り方を守りたかったからです。功を誇らず、結果にだけ静かに向き合う——その一貫性を、大きな戦の中でも崩したくありませんでした。
これで龍造寺という大きな壁を、島津は乗り越えることになります。次話では、この戦後処理と、龍造寺氏の降伏を描いていく予定です。
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