第二十話 国境に立つ影
天正十二年、早春。
相良氏の一件から二年余り、島津は肥後国人衆の従属を着実に進め、その勢力は肥後中央部にまで及んでいた。だが、その先には、もう一つの大きな壁が立ちはだかっていた。肥前の龍造寺隆信である。
「肥後北部の国人の多くが、すでに龍造寺方へ靡いております。これ以上の北進は、龍造寺との正面衝突を招きましょう」
義誠は、飯野からさらに前線に近い陣所で、義弘に報告していた。
「五州二島の太守、か。厄介な相手には違いない」
義弘は、絵図の上に置かれた肥前の文字を、指先でなぞった。
「はい。ただ——」
義誠は、そこで一度言葉を切った。
「隆信という男、これまでの敵とは、性質が違いまする。木崎原の伊東公、耳川の大友公、いずれも家中に綻びを抱えておりました。龍造寺は、隆信自身の武と、時に非情な粛清によって、家中を力ずくで押さえつけております。これを崩すには、これまでとは異なる手が要りましょう」
「異なる手、とは」
「隆信自身が、自らの強さを過信しておること。そこに、付け入る隙があるやもしれませぬ。木崎原でも耳川でも、大軍であるがゆえの油断が、勝機を生みました。隆信公もまた、これまで幾度となく勝ちを重ねてきた御方。それが、いずれ仇となりましょう」
義弘は、義誠の言葉に、静かに頷いた。
「お主のその見立て、今度は儂の耳だけでなく、義久公にも直に届けるべきかもしれぬな」
その頃、島原半島では、龍造寺方であった有馬晴信が、島津への鞍替えを決意していた。
龍造寺の圧迫に耐えかねた晴信は、龍造寺方の深江城を攻め、島津義久に加勢を求めてきた。これを知った隆信は、激しく怒り、自ら大軍を率いて島原へ向かう構えを見せているという。
「隆信公、二万五千とも言われる大軍を率い、有馬領へ攻め込む腹積もりとの由」
「島津本家としても、有馬殿を見捨てるわけにはいかぬ」
義久を中心とした軍議の場に、義誠も末席で連なっていた。義弘の弟、家久が、義久の前に進み出た。
「兄上、それがしに、島原への渡海をお命じいただきたい」
「家久、二万五千の大軍だ。生半可な兵では、太刀打ちできぬぞ」
「ゆえに、大軍で挑む愚は避けまする。地の利を頼み、寡兵で迎え撃つ策を考えておりまする」
義誠は、その言葉に、内心で息を呑んだ。
——史実の通りだ。沖田畷。島原の湿地帯に、龍造寺の大軍を誘い込み、釣り野伏せで討つ。木崎原、耳川に続く、島津の戦い方の、一つの到達点。
「その策、詳しく聞かせよ」
義久の言葉に、家久は絵図を広げた。義誠は、その絵図に描かれた沖田畷という土地の名を、前世の記憶の中の記述と、静かに重ね合わせていた。
軍議の後、義誠は家久に呼び止められた。
「有村殿の名は、儂の耳にも届いておる。木崎原、耳川、そして肥後の調略。此度の戦、何か助言があれば、聞いておきたい」
義誠は、しばし言葉を選んだ。
「隆信公は、これまでの戦で、幾度も勝ちを重ねてきた御方。それゆえに、己の大軍を過信する癖があるかと。もし、寡兵を侮って深追いしてくるようであれば、それこそが、勝機かと存じます」
「侮りを、利用するということか」
「はい。数の多さは、時に、己の目を曇らせる」
家久は、その言葉に、満足げに頷いた。
「肝に銘じておこう」
義誠は、陣を辞した後、一人、夜空を見上げた。
——沖田畷で、島津は勝つ。だが、この戦の後、九州はさらに大きく動く。龍造寺という壁を越えた先に、島津は九州随一の勢力となる。そして、その先には——
前世の記憶にある「豊臣秀吉」という名が、頭の中を過ぎった。九州統一の先に待つ、さらに大きな相手。だが、それを今、口にするわけにはいかない。
蔵人が、そんな義誠の元へ、そっと近づいてきた。
「また、遠くを見ておるな」
「……ああ。この戦の先に、何が待っているのか、少し考えていた」
「木崎原から始まって、ここまで来た。お主にとっても、長い道のりだったろう」
「まだ、途中だ。九州の統一すら、まだ成っておらぬ」
蔵人は、それに小さく笑った。
「気の長いことよ。だが、お主らしい」
——一歩ずつだ。今は、目の前の戦に、正しく立つ。
木崎原から始まったこの道のりは、いよいよ、九州の覇権を賭けた局面へと差しかかろうとしていた。
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あとがき
第二章の締めとして、龍造寺隆信との対立が決定的になる局面を描きました。有馬晴信の離反、島津家久の島原派遣という史実の流れの中に、義誠の分析と助言を絡めています。次話でいよいよ第三章「九州統一」の幕開けとして、沖田畷の戦いを描いていきます。
これまで木崎原、耳川と、義弘公の下で戦ってきた義誠が、今度は島津家久という、また違う気性の将と関わっていく——新しい局面への入り口として、この回を書きました。
第二章を通して、義誠は多くのものを積み重ねてきました。次章では、その積み重ねが、九州という舞台の大きさの中で、どう試されていくのかを描いていきたいと思います。
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