第十九話 迷わぬ刃
相良義陽の死から、半月ほどが過ぎた。
家督は、まだ幼さの残る嫡男・相良忠房が継いだが、当主が急死した混乱は、球磨・葦北の地に、目に見えぬ波紋を広げていた。
「相良の旧臣の中に、この機に乗じ、島津への従属を反故にせんとする一派がおるようです」
義誠に、そう報せをもたらしたのは、蔵人だった。
「忠房様はまだ幼く、家中をまとめきれておらぬ。その隙を突き、龍造寺と通じ、兵を挙げようとしておる者どもがおると」
義誠は、報せを聞き終えると、すぐに絵図を広げた。
——響野原で、私は動くのが遅すぎた。使いを立て、許しを得てから動いた結果、間に合わなかった。
その悔いは、まだ義誠の中に、生々しく残っていた。
「首謀者は」
「元相良家臣、深水某という者が中心と見られます。すでに、球磨郡内の幾つかの土豪へ、密かに使いを送っておる様子」
「日にちは、どれほど猶予がある」
「早ければ、十日のうちに事を起こすかと」
義誠は、しばし黙考した。頭の中では、響野原での光景が、繰り返し浮かんでいた。半日、いや数刻の遅れが、三百余の命を奪った。今度もまた、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「深水の館までは、いかほどか」
「馬を急がせれば、二日とかかりませぬ」
「ならば、今日のうちに発つ」
義誠は、蔵人にはっきりと告げた。
「義弘公への報告は、後でよい。今すぐ、深水の元へ向かう」
「許しを得ずに、か」
「許しを待つ間に、また間に合わなくなる。今度こそ、それは繰り返さぬ」
蔵人は、その目に宿る、これまでとは違う色に、僅かに息を呑んだ。
深水の館へ、義誠は僅か五人だけを連れて向かった。正面から兵を挙げれば、深水は察して逃げるか、あるいは龍造寺方への合流を急ぐだけだ。それでは、事態を長引かせるだけになる。
——今度は、確実に、早く。
館に着くと、義誠は案内も待たず、深水の前に立った。
「島津の有村義誠と申す。単刀直入に申そう。龍造寺への内通、すでに知れておる」
深水の顔から、血の気が引いた。
「な……何のことか、身に覚えは……」
「言い逃れは、命を縮めるだけだ。忠房様はまだ幼い。だが、それは謀反の理由にはならぬ。相良の家を、この乱れた時に、さらに乱すつもりか」
義誠の声は、これまでのどの戦の場面よりも、静かで、冷たかった。感情の温度が、そこにはほとんど感じられなかった。
「……お、お待ちを。我らとて、好んで謀反を企てたわけでは……ただ、島津の下では、いずれ相良の家そのものが、消え去るのではという不安が」
「その不安、理解できぬわけではない。だが、不安を理由に、多くの家臣や領民を、無用な戦に巻き込むことは許さぬ」
義誠は、深水を見据えたまま、続けた。
「首謀者であるお主が、この場で腹を切るなら、他の者は問わぬ。だが、拒めば、お主だけでなく、名を連ねた者すべてを、容赦なく討つ」
かつての義誠であれば、もう少し猶予を与え、翻意を促す道を探ったかもしれない。だが今の義誠には、迷っている時間の重さが、痛いほど分かっていた。
深水は、しばらく震えていたが、やがて観念したように、その場に膝をついた。
「……分かり申した」
深水は、その日のうちに自刃した。事は、これ以上広がることなく、静かに収まった。相良家中に動揺が走る前に、火種は摘み取られた。
義誠は、深水の骸に、短く頭を下げた後、すぐに踵を返した。感傷に浸る時間は、もう自分には許されていない気がした。
飯野へ戻った義誠を、義弘は咎めなかった。
「許しを得ずに動いたことは、詫びよ」
「申し訳ございませぬ」
「だが、結果は良かった。此度のように、時が命取りになる場面もある。次からは、事後でよい。すぐに報告せよ」
義誠は、深く頭を下げた。
——響野原で泣いたあの夜から、私は変わった。迷う前に動く。必要とあらば、情けを挟まず刃を振るう。それが、これから先、より多くの者を救う道になるのなら。
その夜、義誠は久方ぶりに、静かに眠ることができた。誰かを救えなかった悔いの代わりに、誰かを救えたという確かな手応えが、少しだけ、胸のつかえを軽くしていた。
蔵人は、その日の義誠の背中を見ながら、静かに呟いた。
「あの男、また一段、恐ろしくなったな」
その声には、恐れと、確かな信頼が、同じだけ滲んでいた。
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あとがき
前話の悲劇を受けて、義誠の中に生まれた変化を、具体的な行動として描いた回です。「許しを待たず動く」「情けの猶予を減らす」——これまでの義誠よりも一段冷徹な判断を、迷いなく下す姿を意識しました。それでも、無関係な者まで巻き込まない、という一線だけは変えていません。
蔵人の最後の一言に、恐れと信頼が同居する、この物語らしい評判の在り方を込めたつもりです。
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