第十八話 響野原に届かぬ声
天正九年十一月。義久公より、相良義陽に、阿蘇氏家臣・甲斐宗運討伐の先陣が下された。
義誠は、その報せを聞いた夜、居ても立ってもいられなかった。灯りを落とした部屋の中で、何度も同じ絵図を思い返した。
——史実の通りだ。義陽殿は、宗運殿との誓いを裏切ることになる。そして、その果てに、討ち死にを選ぶ。
分かっていながら、何もせずにいることが、義誠にはできなかった。前世で読んだ歴史書の中では、ただの一行として片付けられていたその死が、今この時代では、確かな重みを持った、一人の人間の運命として、目の前にある。
翌朝、義誠は義弘の元へ赴いた。
「義陽殿と宗運殿、両名の間には、深い誓いがあるとの由。此度の先陣、いま一度、ご再考いただくことは叶いませぬか」
「義久公のご下命だ。今更、覆せるものではない」
「では、せめて——私に、義陽殿への使いをお許しいただけませぬか。何か、血を流さずに済む道が、まだあるやもしれませぬ」
義弘は、しばし義誠を見つめた。
「お主らしいと言えば、らしいが……分かった。行くがよい。ただし、義久公のご下命そのものを、覆すことはできぬと心得よ」
義誠は、深く頭を下げ、すぐさま馬を走らせた。
八代から御船へ向かう義陽の陣に追いつこうと、義誠は、僅かな供回りだけを連れ、間道を急いだ。
——間に合えば、まだ道はある。宗運殿に、密かに文を送り、戦の形だけを整えて、互いに大きな損を出さぬよう取り計らうことも、できるかもしれない。
だが、天は義誠に味方しなかった。師走に入り、山あいには濃い霧が立ち込め、馬の足取りは、思うように進まなかった。道を急ぐほどに、かえって遠回りを強いられる場面もあった。
十二月一日、義誠が響野原にほど近い村へたどり着いた頃、すでに義陽の本隊は、その地に陣を敷いていた。物見の話では、義陽は八百の兵を率い、堅志田城と甲佐城を攻め落とし、意気上がる様子だったという。だが、その本陣が構えられた場所は、守りには不向きな、開けた原野だった。
「なぜ、あのような地に陣を張られたのか……」
義誠が呟くと、案内の村人が、首を振った。
「わしらにも分かりませぬ。ただ、殿様は、どこか思い詰めたご様子だったとか」
——覚悟の上での布陣だったのかもしれない。義誠の胸に、そんな予感が過ぎった。
「義陽殿に、火急の用向きがある。取り次いでもらえぬか」
陣の外で、義誠はそう訴えたが、すでに日は落ち、陣は静まり返っていた。祝いの酒宴が張られていたという。緒戦の勝利——堅志田城、甲佐城を落としたことを、義陽の軍は祝っていたのだ。
「今宵は、殿もすでにお休みに。明朝、なんとかお取り次ぎいたします」
義誠は、その言葉に頷くしかなかった。夜通し歩き詰めた疲れが、体の芯に重くのしかかっていた。
——明日、朝一番に。それで、まだ間に合う。
そう自分に言い聞かせ、義誠は、陣のそばで、束の間の仮眠を取った。
だが、夜が明けきらぬうちに、それは起こった。
小雨と霧に紛れ、甲斐宗運率いる兵が、響野原の相良勢本陣を奇襲した。油断していた相良勢は、なす術もなく崩れ、銃声と怒号が、瞬く間に辺りを満たした。
義誠が駆けつけた時には、すでに戦は終わっていた。
響野原には、およそ三百に及ぶ骸が横たわっていた。その中央、ひときわ丁寧に扱われた骸が、相良義陽その人だと、義誠はすぐに悟った。
——間に合わなかった。
その事実が、鉛のように義誠の胸に沈んだ。あと半日、いや、数刻早ければ。義陽と直に言葉を交わせていれば、何かが変わったかもしれない。それとも、初めから、変えようのない結末だったのか——答えは、もう誰にも分からなかった。
近くにいた相良方の生き残りが、涙ながらに語った。
「殿は……覚悟の上での出陣にございました。宗運殿との誓いを破ることも、御子息を人質に取られた立場も、すべて分かった上で、この地を選ばれたのでございましょう」
義誠は、その言葉に、何も返せなかった。
その夜、義誠は、陣から少し離れた木立の中に、一人で座り込んでいた。
——私は、何のために、ここまで急いだのだ。
助けられなかった。変えられなかった。これまでの戦では、少ない犠牲で勝つ道を、幾度も描いてきた。だが今度は、そもそも描く機会すら、与えられなかった。
抑えていたものが、堰を切ったように溢れた。声を殺し、肩を震わせながら、義誠は、しばらくの間、泣いた。
前世の記憶を持ってこの世に生まれ、多くのことを知っていると、どこかで驕っていたのかもしれない。だが、知っているだけでは、届かないものがある。今日、それを思い知らされた。
——義陽殿。あなたの覚悟を、無駄にはしない。
涙が涸れる頃、義誠の中に、これまでとは違う重さの覚悟が、静かに根を張っていった。すべての命を救うことはできない。それでも、救える命があるならば、次こそは、間に合わせる。
夜明け前、義誠は目元を拭い、何事もなかったかのように、陣へと戻っていった。誰にも、この夜のことを語るつもりはなかった。
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あとがき
史実に残る、相良義陽の最期を、義誠の視点から描きました。今回は、これまで淡々と結果を積み重ねてきた義誠に、初めて「どうにもできなかった」という、無力感を味わわせています。
木立の中で一人泣く場面は、この物語で初めて、義誠が誰にも見せない感情を露わにする描写です。理念は語らず、行動で示す——その裏側に、こうした夜があったのだと、読者の方に感じていただければ幸いです。
この経験が、この先の義誠の在り方に、どう影響していくのか。次話以降も、丁寧に描いていきたいと思います。
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