第十七話 水俣に立つ旗
天正七年から九年にかけて、島津は肥後国、球磨郡の相良領へと、じわじわと圧力を強めていった。
相良家当主・相良義陽は、龍造寺との誼を頼りに、なお抵抗を続けていた。だが、島津方は葦北郡の要衝、水俣城を幾度となく攻め、その度に相良方の守りを、着実に削り取っていく。
「義陽殿は、龍造寺の後詰めを頼りにしておられるようですが、龍造寺は筑後・肥後の東側に手一杯。とても、こちらまで手を回す余裕はございますまい」
義誠は、密かに集めた報せを、義弘の前で並べ立てた。
義弘は、しばし絵図を見つめた。
「相良は、もとより島津に幾度も攻められ、疲弊しておる家だ。ここでとどめを刺すのではなく、退路を用意してやるのも、一つの手だろう」
「はい。降る道さえ示せば、無用な血を流さずとも、相良は靡きましょう」
義誠は、この方面の調略にも、深く関わっていた。
「相良家中にも、これ以上の抗戦は無益だと考える者が、増えてきておるようです。義陽殿ご自身も、龍造寺の後詰めが当てにならぬことは、すでに悟っておられるかと」
義誠の報告に、義弘は頷いた。
「城攻めの前に、まずは心を攻める。お主のいつものやり方だな」
「はい。この上で、水俣城を大軍で囲めば、義陽殿には、他に選ぶ道がなくなりましょう」
——史実の通りだ。相良義陽は、いずれ島津に降る。だが、その先に待つものを思うと、義誠の胸には、これまでとは違う、重い予感があった。
天正九年、島津義久自らが大軍を率い、水俣城を包囲した。義誠もまた、その本陣に加わっていた。
もはや抗う術のない相良義陽は、葦北郡の五城——水俣、湯浦、津奈木、佐敷、市野瀬——を島津へ割譲し、二人の息子を人質に差し出して、降伏を申し入れてきた。
「相良殿、此度の決断、賢明であったと存ずる」
義誠は、降伏の使者に、そう静かに告げた。使者は、複雑な表情を浮かべながらも、深く頭を下げた。
「我が主も、これ以上の戦を望んではおりませぬ。ただ、これから先、どのような扱いを受けるか……それだけが、気がかりにございます」
「降った者に、無体な扱いはせぬ。それは、これまでも変えたことのない、島津の——いや、私の約定だ」
使者は、その言葉に、幾らか安堵した様子を見せた。
だが、義誠の胸中には、まだ拭えぬ違和感があった。
——史実では、この後、義久公は義陽殿に、阿蘇氏攻めの先陣を命じる。
阿蘇家臣、甲斐宗運。相良義陽とは、互いに不可侵を誓い合った、盟友と呼べる間柄だという。その相手と、命じられるままに戦わねばならない立場に、義陽は追い込まれることになる。
——降した者を、道具のように使い潰す。それは、私が最も嫌ってきたやり方ではないか。
義誠は、義弘の前で、思わずそのことを口にした。
「義陽殿に、阿蘇攻めの先陣を命じるとのお話、耳にいたしました。義陽殿には、宗運殿という、誓いを結んだ相手がおるとの由。この上で先陣を命じれば、義陽殿を、進退窮まる立場に追い込むことになりはせぬかと」
義弘は、しばし義誠を見つめた。
「お主らしい懸念だな。だが、これは義久公のご意向だ。降った者には、それ相応の働きを求める。それもまた、乱世の理屈だ」
「……承知しております」
義誠は、それ以上は何も言わなかった。自分の裁量が及ばぬ領域があることを、義誠はこの数年で、幾度も思い知らされてきた。すべてを自分の思う通りに動かせるわけではない。それでも、何もできぬまま、ただ見ていることしかできない自分に、苛立ちに似た感情が募った。
降伏した水俣城に、島津の旗が立てられた日、義誠は一人、城壁の上から、遠く球磨の山並みを見渡していた。
——義陽殿は、この先、どんな決断を下すのだろうか。
前世の記憶にある通りなら、義陽は、盟友との誓いか、我が子の命かという、非情な二択を迫られることになる。そして、その果てに、討ち死にを選ぶことになる。
——変えられるのか、それとも、変えるべきではないのか。
義誠は、自らに問いかけた。だが、答えは出なかった。一つの家、一つの命運を、自分の一存で変えていいのか——それは、これまでの戦の中で、義誠が向き合ってこなかった種類の迷いだった。
蔵人が、隣に並んだ。
「珍しく、浮かぬ顔をしておるな」
「……勝つことと、正しいことは、必ずしも同じではないと、今更ながらに思っただけだ」
蔵人は、それ以上、深くは聞いてこなかった。ただ、しばらくの間、義誠と共に、同じ山並みを眺めていた。
肥後の空の下、島津の勢力は、確かに広がり続けていた。だが、その裏側にある、名もなき、あるいは名のある者たちの葛藤を、義誠は、これからも見届けていくことになる。
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あとがき
今回は、相良義陽の降伏という史実の局面を描きながら、義誠にとって初めて、「自分の裁量の外にある理不尽」に直面させる回にしました。これまでは、自らの信条を貫くことができていた義誠が、大きな家の論理の前で、無力さを感じる——そんな内面の揺れを、丁寧に描いたつもりです。
阿蘇攻めを命じられた義陽の、その先にある運命については、次話以降で描いていければと思います。史実の重さを、なるべく丁寧に扱いたい局面です。
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