第十六話 肥前の太守が聞いた名
肥前、佐嘉城。
耳川で大友が大敗して以来、龍造寺隆信は、その混乱に乗じて瞬く間に勢力を広げていた。筑前、筑後、肥後にまで手を伸ばし、「五州二島の太守」を自ら名乗るに至っている。
その居城の一室で、隆信は、家臣からの報告を受けていた。
「島津は、日向を平らげたのみならず、肥後の国人衆にまで、調略の手を伸ばしておるようにございます」
「調略、とな」
「はい。城親賢殿をはじめ、幾つかの国人が、すでに島津方へ通じておるとの由。中でも、有村義誠という将の名が、方々で聞かれまする。木崎原、耳川と、二度までも寡兵で大軍を破った男とか」
隆信は、しばし黙り込んだ。
「その名、儂も耳にしたことがある。刃を交えずとも、名を聞いただけで城が降ることもあるらしいな」
「左様にございます。田代城の一件は、肥前にまで伝わっておりまする」
「……厄介な男よ。島津がその気になれば、肥後の国人衆を、戦わずして切り崩されかねぬ」
隆信は、脇息に肘をつき、しばらく考え込んだ。これまで、隆信は力による威圧と、時に容赦のない粛清によって、肥前一国から九州北部にまで勢力を広げてきた男だった。だが、刃を交えずして人の心を動かす、という戦い方には、これまでの己のやり方とは異なる、得体の知れなさを感じていた。
「その義誠とやら、いずれ相まみえることになろう。目を離すな」
「御意」
家臣が下がった後も、隆信は、しばらく一人、暗い部屋の中で考えを巡らせていた。九州の覇権を巡る相手として、島津という家が、そして有村義誠という一人の男が、はっきりと意識され始めていた。
真幸院、飯野城。
義誠は、義弘の前で、肥後方面の報せを聞いていた。
「肥後の城親賢殿より、島津への従属を望む使いが参った。大友氏に叛いた後、その討伐を恐れておるとのこと」
「肥後は、我が領国から遠く、相良領を挟んでおりまする。容易くは援軍を送れませぬ」
義誠は、絵図を見つめながら言った。
「ですが、ここで城殿を見捨てれば、他の国人衆も、島津を頼りにならぬと見限りましょう。少数でも、まずは調略の手を伸ばすべきかと」
「相良氏は、いかがする」
「相良氏は、龍造寺方に近しい立場。此度の一件を機に、こちらへ靡かせられれば、なお良し。靡かぬのであれば、いずれ矛を交えることになりましょう」
義弘は、義誠の言葉に頷いた。
「相良領へも、探りを入れよ。お主のやり方で構わぬ」
「御意」
義誠は、密かに相良領へ人を送り、家中の不満や、龍造寺への従属に対する反発を、これまで通り拾い集めさせた。
「相良家中にも、龍造寺への従属を快く思わぬ者は、少なからずおるようです。ただ、相良家当主自身は、まだ旗幟を鮮明にしておりませぬ」
「時が来れば、動くだろう。焦る必要はない」
義誠は、そう自分に言い聞かせるように呟いた。五年をかけて伊東家を崩した時と、同じ辛抱強さが、ここでも要る。
——大友を退け、次は龍造寺か。
前世の記憶にある「九州統一」への道筋が、少しずつ、現実の絵図と重なり始めていた。だが、龍造寺隆信という男は、これまでの敵とは、また違う性質を持っている。大友のように、信仰に拘泥して足元を崩す相手ではない。純粋な武力と、時に冷徹な粛清で、勢力を広げてきた男だった。
「肥前の太守か……手強い相手になろうな」
義誠は、そう独りごとを呟いた。喜びよりも、静かな緊張が、胸の奥に満ちていた。
木崎原、耳川と、これまで積み重ねてきた戦の理屈が、この先も通用するとは限らない。だが、通用させなければならない。それが、義誠が自らに課した、変わらぬ道筋だった。
「有村殿の名、近頃は肥後の国人衆の間でも、静かに囁かれておるようです」
蔵人が、そう伝えてきた。
「恐れられているのか、頼られているのか」
「その両方であろうな。まったく、器用なことよ。儂も、木崎原の頃には、お主をこれほど信じることになるとは、思いもしなかったが」
「今更、何を言い出す」
「いや、ふと思っただけだ。あの頃のお主を疑っていた自分が、今となっては、ずいぶんと遠く感じる」
義誠は、それに小さく笑みを返した。悪鬼と呼ばれることも、頼りにされることも、義誠にとっては、同じ一つの現実の、表と裏に過ぎなかった。
九州の勢力図は、今、大きく塗り替わろうとしていた。島津、龍造寺、そして衰えてなお完全には滅びぬ大友——三つ巴の争いの中で、義誠の名は、敵にも味方にも、確かな重みを持って刻まれ始めていた。
────────────────────
あとがき
今回は、龍造寺隆信という新たな敵の視点を通して、義誠の評判が肥前にまで届いている様子を描きました。史実にある「五州二島の太守」という異名や、肥後の城親賢が島津に従属した経緯を踏まえつつ、そこに義誠の調略を絡めています。
大友とはまた違う性質を持つ龍造寺隆信という存在を通して、これまでの成功体験がそのまま通用するとは限らない、という緊張感を、義誠自身の内面に持たせたいと思って書きました。
次話以降、いよいよ九州統一へ向けた新たな局面——肥後、そして龍造寺との対決を見据えた物語を進めていきます。
感想、レビューお待ちしております。




