第十五話 名だけで落ちる城
耳川の戦いから、二月ほどが過ぎた。天正七年、正月。
大友軍を打ち破った島津は、日向北部に残る、伊東・大友双方に連なる小城の掃討にかかっていた。多くの城は、戦わずして降るか、僅かな抵抗の後に開城したが、中には、なお頑なに籠城を続ける城もあった。
田代城もその一つだった。城主は、大友方に与していた土豪の一人で、周囲の城が次々と降る中、なお徹底抗戦の構えを崩さずにいる。
「田代城の城主、聞けば、若い頃から武勇を誇ってきた男とか。降れば恥、と思い定めておるのやもしれませぬ」
義誠は、義弘の前で、そう報告した。
「力攻めにすれば、いかほどかかる」
「早くて十日、下手をすれば一月。攻める側の損も、少なからず出ましょう。城兵は多くはございませぬが、地の利を頼りに、なかなか手強いようです」
義弘は、しばし考え込んだ後、義誠に目を向けた。
「木崎原、耳川と、大きな戦が続いた。これ以上、無駄に兵を損なうのは避けたい。お主に、任せてよいか」
「御意」
義誠は一人、城へ向かう道すがら、これまでの戦を振り返っていた。大軍を相手にする策は、幾つも積み重ねてきた。だが、寡兵で意固地に籠る城を、いかに損なく落とすか——それもまた、新しい形の課題だった。
義誠は、田代城の周囲に兵を配し、まずは力攻めをせず、城を遠巻きに囲むだけに留めた。
「兵糧を断つ。城の中の水も、上流を押さえれば、じきに事欠くはずだ」
同時に、義誠は、城内へ向けて、別の手も打っていた。降伏を促す矢文を送るのではなく、あえて、城の周囲の村々に、噂を流させたのだ。
「あの田代城を囲んでおるのは、木崎原と耳川で、大友の大軍を二度までも打ち破った、有村義誠という将らしい」
「あの男に逆らった城は、必ず落ちるという。だが、降った者は、決して殺されぬとも聞く」
義誠は、直接手を下すことなく、ただ、すでにある己の評判を、静かに城の中へと届けさせた。
——刃を交える前に、人の心を揺らす。それも、これまで積み重ねてきた戦の理屈と、何ら変わらない。
囲みを始めて七日目、城内では、すでに動揺が広がっていた。
「本当に、あの義誠とやらが、この城を囲んでおるのか」
「木崎原でも耳川でも、あの男の策に敵った者はおらぬと聞く」
「このまま籠っておれば、いずれ兵糧が尽きる。だが、力攻めをかけられれば、皆殺しにされるのではないか」
不安は、城兵の間に、じわじわと広がっていった。城主だけが、なお強硬な構えを崩さずにいたが、その配下の多くは、すでに戦う気力を失いつつあった。
「殿は、意地を張っておられるが……我らまで、それに殉じねばならぬのか」
「妻子を城の外に逃がしておいてよかった。この分では、いつまで保つか分からぬ」
そうした声が、夜な夜な、城内の物陰で交わされるようになっていた。義誠は、それを城の外から直接聞くことはできなかったが、密かに城下へ入り込ませていた者からの報せで、城内の空気が、日を追うごとに緩んでいくのを、確かに感じ取っていた。
十日目の夜、城内から、一人の使者が、密かに義誠の陣を訪れた。
「城主様には内緒でございますが……我らは、もはや戦う気力もございませぬ。開城いたしますゆえ、どうか、城兵の命は……」
義誠は、その言葉に、静かに頷いた。
「城主を除き、抗わぬ者の命は取らぬ。それは、これまでも変えたことのない約定だ」
使者は、幾度も頭を下げ、陣を後にした。
翌朝、田代城の門は、静かに開かれた。城主は最後まで抗おうとしたが、すでに配下のほとんどが戦意を失っており、抗戦は成り立たなかった。城主自身は自刃し、残る城兵は、義誠の約定通り、命を助けられた。
——一戦も交えることなく、城が落ちた。
義誠は、開かれた城門を見つめながら、複雑な思いを抱いていた。刃を交えずに済んだことは、間違いなく良いことだ。だが、それを成し得たのは、これまで積み重ねてきた戦の中で流れた、数え切れぬ血のおかげでもある。
「お主の名を聞いただけで、城の中の兵が戦う気を失う……そんな話、儂は他に聞いたことがないぞ」
蔵人が、呆れたような、それでいてどこか誇らしげな声で言った。
「良いことなのか、悪いことなのか、儂には判じかねるがな」
「どちらでもいい。血を流さずに済んだのなら、それで十分だ」
この一件は、瞬く間に日向、そして薩摩にまで広まっていった。
「有村義誠の名を聞いただけで、城が戦わずして降ったそうだ」
「戦う前から、心を折られては、抗いようもあるまい」
「敵にとっては、これ以上恐ろしい男もおるまいよ」
義弘もまた、この顛末を聞き、義誠を呼び寄せた。
「一戦も交えず、城を落とすとはな。もはや、お主の名そのものが、一つの兵に等しい」
「買い被りにございます。ただ、これまでの戦の積み重ねがあってこそ、今回のことが叶ったまでのこと」
「謙遜も度が過ぎれば、嫌味に聞こえるぞ」
義弘は、そう言って、珍しく声を上げて笑った。義誠は、それに小さく頭を下げるだけで、多くを語らなかった。
有村義誠という名は、もはや戦場だけでなく、その名を聞くだけで人の心を動かす、一つの力を持ち始めていた。悪鬼と恐れられることが、いつしか、刃を交えずに勝つための、最も鋭い武器になっていた。
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あとがき
今回は、実際の合戦ではなく、「名前そのものが武器になる」という形で、義誠の恐れられぶりを描いてみました。木崎原と耳川という二つの大きな戦いを経て、彼の評判が、単なる噂話を超えて、実際に敵の戦意を削ぐほどの力を持ち始めている——そんな段階に来たことを示したかった回です。
兵糧攻めと心理戦を組み合わせる展開は、バイブルにある彼の戦術リストの中でも、まだあまり描けていなかった部分でした。刃を交えずに勝つことの功罪を、蔵人との会話でさらりと触れさせています。
次話以降も、こうした「恐れられる話」をところどころ挟みながら、九州統一への物語を進めていきます。
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