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島津悪鬼録 ~敵味方に恐れられた男、島津に天下を獲らせる~  作者: 春野ケイ
島津義弘配下

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第十四話 高城川原、雪崩れる

天正六年十一月十二日。


夜討ちで火をかけられた荷駄の混乱は、大友軍の中に、修復しがたい亀裂を広げていた。田北鎮周は、もはや軍議を待たず、自らの手勢を率いて、単独で城方の一角へ攻めかかった。


「田北殿が、抜け駆けをしたそうだ」


物見からの報せに、義誠は静かに頷いた。


——史実の通りだ。統率を失った将の一人が、我慢しきれずに動く。そして、それに釣られて、大友軍全体が、なし崩しに動き出す。


義誠は、高城川原を見渡せる丘の上に立っていた。すでに、島津の各隊は、あらかじめ定めた配置についている。木崎原よりも遥かに広い戦場に、遥かに大きな伏兵の網が張り巡らされていた。


「田北殿に釣られ、他の隊も次々と前に出ておるようです」


「よし。義久公の本隊が、まず正面で受け止める。崩れて退いたところを、両翼の伏兵で挟み込む」


義弘の下知が、諸隊に伝えられていく。義誠もまた、自らの手勢を率い、右翼の伏兵として、木々の陰に身を潜めた。


風が止み、鳥の声すら聞こえない静けさが、戦場全体を覆っていた。四万を超える大軍がすぐそこにいるとは思えぬほどの、不気味な静寂だった。傍らに控える若い兵の一人が、震える手で弓を握りしめているのが分かった。


「案ずるな。今日という日のために、この五年、積み上げてきたものがある」


義誠がそう声をかけると、若い兵は、僅かに頷いた。その顔から、幾らか強張りが解けたように見えた。



やがて、田北鎮周の隊を先頭に、大友軍の前衛が、なだれるように押し寄せてきた。島津義久率いる本隊は、これを真正面から受け止め、程よく崩れながら後退を始める。


——ここまでは、木崎原と同じ絵図だ。だが、この先は違う。


大友軍は、その後退を勝機と見て、統制のないまま、我先にと追撃に移った。数の多さが、かえって仇となる。前を行く者と、後を追う者との間に、大きな隙間が生まれていく。


「今だ、放て!」


義誠の合図で、右翼に伏せていた弓兵が、一斉に矢を放った。同時に、左翼からも矢の雨が降り注ぐ。追撃に浮き足立っていた大友軍の前衛は、瞬く間に混乱に陥った。


「かかれ!」


義誠は、自ら刀を抜き、崩れた敵陣へと斬り込んだ。前世の記憶にある、あらゆる戦術の理屈は、もはや頭の中にはなかった。ただ、目の前の一撃、一撃に、意識のすべてが向いていた。


敵味方の怒号、悲鳴、馬のいななき——高城川原は、瞬く間に、地獄のような様相を呈していった。



崩れた大友軍は、まとまりを完全に失っていた。前を行く田北鎮周の隊は壊滅し、後続の部隊も、次々と伏兵に飲み込まれていく。


義誠は、逃げ惑う敵兵の中に、深追いすべき相手と、そうでない相手を、瞬時に見極めながら動いていた。将らしき者、なお刃を構える者には、容赦なく刃を向ける。だが、武器を捨て、背を向けて逃げるだけの雑兵にまで、無理に追い縋ることはしなかった。


——必要な殺しだけを。それだけは、この乱戦の中でも、変えるつもりはない。


大友軍は、もはや軍としての体を成していなかった。散り散りになった兵たちは、我先にと北へ、耳川の方角へと逃げ始めた。



島津軍は、その敗走を、十数キロにわたって追撃した。


耳川に差し掛かった大友の敗残兵たちは、渡河の最中、次々と川に飲まれていった。折からの増水で、川は深く、流れも速い。逃げ場を失った兵たちが、重い甲冑のまま水に飛び込み、そのまま浮かび上がらぬ者も少なくなかった。


義誠は、川岸に立ち、その光景を、目を逸らさずに見つめていた。


——これが、耳川の戦いか。


前世で、ただの記録として読んでいた戦が、今、目の前で、これほどまでの重さを持って起こっている。討ち取った数ではなく、この川に沈んでいった名もなき兵たちの数の方が、義誠の胸には、ずっしりと響いていた。


大友宗麟は、この報せを受け、日向北部からも逃亡したという。九州最大の勢力を誇った大友家は、この一戦で、決定的に傾いていくことになる。


義誠は、川面に浮かぶ、名もなき骸の群れを、しばらくの間見つめていた。前世で読んだ歴史書には、こうした一人ひとりの死は、決して記されない。ただ「大友軍、多数溺死」という、数行の記述に収まってしまう。だが、この目で見た今は、その数字の裏に、確かな人の生涯があったことを、義誠は忘れずにいたいと思った。



戦の後、義誠は、川岸に横たわる、味方と敵、双方の骸を見て回った。


「大勝利だ、な」


蔵人が、そう言いながらも、どこか複雑な表情を浮かべていた。


「これほどの死者を前にして、素直に喜べぬのは、儂だけではないだろう」


「ああ。喜ぶための戦ではない。生き延びるため、そして、この先の道を切り開くための戦だ」


義誠は、遠く鹿児島の方角を見やった。


——これで、島津は九州随一の勢力になる。だが、天下統一への道は、まだ始まったばかりだ。


城下では、すでに新しい噂が広がり始めていた。


「あの義誠殿の献策で、四万の大友軍が壊滅したそうだ」

「木崎原に続き、此度も、味方の損を最小に抑えたという」

「敵味方の双方から、あれほど恐れられる男も、そうはおるまい」


有村義誠という名は、この一戦を経て、九州のあちこちで、確かな重みを持って語られるようになっていった。



────────────────────


あとがき


耳川の戦い、本戦を描きました。田北鎮周の抜け駆けに端を発する大友軍の崩壊、そして耳川での凄惨な敗走——史実に残る記録を踏まえながら、義誠の視点から、勝利の重さと、その裏にある夥しい死を、丁寧に描いたつもりです。


「必要な殺しだけを」という一貫した信条を、この大規模な乱戦の中でも守らせることに、今回はこだわりました。木崎原から続けてきた彼の在り方が、この最大の戦いでも変わらないことを、示したかったからです。


これで日向を巡る戦いは、一つの区切りを迎えます。次話以降、島津の九州統一に向けた新たな局面を描いていく予定です。楽しみにお待ちください。


感想、レビューお待ちしております。


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