第十二話 四万の敵、綻びの種
天正六年、春。
伊東義祐を頼った大友宗麟が、ついに動いた。豊後・肥後の両口から、三万とも四万とも言われる大軍が、日向へ向けて進軍を始めたという報せが、鹿児島の島津本家、そして飯野の義弘の元にも届いた。
「三万か、四万か……木崎原の比ではないな」
義弘の呟きに、義誠は静かに頷いた。
——史実の通りだ。大友宗麟は、この日向を、キリシタンの理想郷にしようとしている。その野心が、この大軍を動かしている。
義誠は、その先に何が起こるかを、すでに知っていた。だが、知っているだけでは、まだ何も終わらない。
大友軍は、まず北日向の土持親成を攻めた。松尾城に籠った土持勢は、奮戦の末に降伏したが、大友軍はその捕らえた城兵を、ことごとく斬り捨てたという。
その報せを聞いた時、義誠の中で、何かが冷たく凍りついた。
「降伏した者を、皆殺しにしたと」
「左様にございます。それも、宗麟公の教える神の名の下に、なされたことだとか」
義誠は、しばし言葉を失った。
——降った者は助命する。それは、義誠が誰よりも大切にしてきた一線だった。だがこの大友軍は、その一線を、いとも容易く踏み越えてくる。
「……この軍とは、いずれ正面から向き合わねばならぬ。だが、正面からぶつかるだけでは、勝ち目は薄い」
蔵人が、傍らで顔をしかめた。
「捕虜を皆殺しにするような輩に、情けをかける余地などあるのか。此度ばかりは、こちらも容赦せずともよいのではないか」
「気持ちは分かる。だが、こちらまで同じことをすれば、同じ穴の狢だ。降った者は助け、抗う者だけを討つ——それは、私自身の一線であって、相手の出方で変える筋のものではない」
「お主らしい言い分だな」
蔵人は、それ以上は何も言わなかった。ただ、その顔には、以前のような不信の色は、もうほとんど残っていなかった。
義誠は、密かに放っていた間者たちからの報せを、一つずつ拾い集めていた。
大友軍は、決して一枚岩ではなかった。宗麟の熱心な信仰は、家臣団の中にも、少なからぬ反発を生んでいた。侵略した地の寺社を打ち壊し、教会を建てるやり方に、心中穏やかならぬ将も多いという。
「田北鎮周殿をはじめ、宗麟公のやり方に不満を持つ将は、少なくないようにございます。表向きは従っていても、心の内までは、そうではない」
義誠は、義弘の前で、そう報告した。
「大軍というものは、数が多いほど、綻びも多くなる。まとまりを欠いた四万は、まとまった三千よりも、脆いことがある」
「木崎原と、同じ理屈だな」
「はい。ただ、此度はさらに規模が大きい分、綻びを見極める目が、より要りましょう」
——前世で言うなら、大所帯の組織ほど、末端の不満に気づかぬまま突き進むことがある。数の多さは、時に強さそのものより、脆さの温床になる。
義誠は、その理屈を、この乱世の言葉に置き換えて語った。誰も、それを不思議には思わなかった。
その裏付けは、間もなく形になって現れた。大友方から逃げてきたという足軽崩れの男が、義誠の陣に連れてこられたのだ。
「田北鎮周様の下におりましたが……もう、やっていられませぬ。寺を焼き、仏を打ち壊し、逆らう者は容赦なく斬る。神の教えとは名ばかりで、ただの略奪にしか見えませなんだ」
男は、憔悴した顔で、そう吐き捨てるように語った。
「田北殿は、宗麟公のやり方に、内心では相当な不満をお持ちのようです。表向きは従っておられますが……」
義誠は、その言葉を、静かに書き留めさせた。
——一人の兵の不満は、小さな綻びに過ぎない。だが、それが積み重なれば、いずれ全体を揺るがす。
「よく話してくれた。しばらくは、この地で身を休めるがいい」
男は、殺されるとばかり思っていたのか、その言葉に驚いた顔を見せ、深く頭を下げた。
大友軍は、北日向を席巻した後、島津方の拠点、高城へと迫っていた。城代の山田有信は、寡兵ながらも城に籠り、頑強に抵抗を続けているという。西と北と東の三方を断崖に守られたその城は、力攻めには容易く落ちぬ地勢を持っていた。大友軍は南蛮渡りの大筒まで持ち込んだというが、思うようには城を崩せずにいるらしい。
「高城が保つ間に、こちらも兵を整えねばならぬ」
義弘の言葉に、諸将が頷いた。義誠もまた、この戦の絵図を、頭の中で組み立て始めていた。
——木崎原と同じだ。大軍を、狭い地に誘い込み、綻びのできた場所を叩く。
だが、今度の相手は四万を超える。あの時の伊東軍よりも、遥かに大きい。それだけの敵を相手に、同じ理屈が通用するのか——義誠の中に、確かな緊張があった。
「義誠、此度も、お主の知恵を借りたい」
義弘の言葉に、義誠は深く頭を下げた。
「微力を尽くします」
胸の内では、前世の記憶にある「耳川」の二文字が、これまでのどの戦よりも重く響いていた。この戦が終わった時、九州の勢力図は、大きく塗り替わることになる。史実の通りなら、島津はこの一戦で、九州随一の勢力へと躍り出る。だが、その先には、まだ見えぬ多くの命の犠牲が待っているはずだった。
——変えるのではない。歴史の中に、正しく立つ。だが今度は、その一歩を、決して踏み外せない。
日向の空の下、大友の大軍は、なおも南へと進み続けていた。
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あとがき
いよいよ耳川の戦いへ向けた前哨戦を描き始めました。今回は、大友軍による捕虜の処刑という史実を踏まえ、義誠が大切にしてきた「降伏した者は助命する」という一線と、真っ向から対比させています。この対比が、この先の戦いにおける義誠の姿勢に、より重みを持たせてくれればと思います。
大軍であるがゆえの脆さ、という視点は、木崎原の頃から一貫した義誠の戦い方の核です。四万という、これまでにない規模の敵を前に、その理屈がどこまで通用するのか——次話以降、いよいよ高城の攻防、そして本戦へと物語を進めていきます。
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