後編
恋とは、こんなにも理屈が通じないものだったのか。
ジークヴァルトは執務室の窓辺に立ち、庭を眺めながら小さく息をついた。
以前なら、休日にラーナと会えない日があっても気にならなかった。仕事に集中すれば、それでよかった。だが今は違う。書類を読み終えても、昼食を済ませても、ふとした瞬間に思い浮かぶのはラーナの笑顔だった。
今日は何をしているんだろう。
今も笑っているのだろうか。
そんなことばかり考えてしまう。
「閣下」
レオンが紅茶を置いた。
「何だ」
「そんなに窓を見つめても、ラーナ様はいらっしゃいませんよ」
「……そんなに見ていたか?」
「十二回です」
「数えていたのか」
「ええ」
レオンは真面目な顔で頷く。
「重症ですね」
「やめろ」
「仕事なら冷静なご判断をなさるのに」
「恋愛だけ別人格だな」
「自覚はあるんですね」
ジークは苦笑するしかなかった。
その日の夕方。
ラーナから手紙が届いた。
『明日は刺繍教室です。
そのあと、サラたちとお茶をします。
でも明後日はジーク様にお会いできますね。
とても楽しみです』
最後に、小さな花の絵が添えられていた。
ジークは思わず笑みをこぼす。
「……楽しみなのは、私も同じだ」
二日後。
待ち合わせは、初めて会った庭園だった。
「ジーク様!」
ラーナが嬉しそうに駆け寄ってくる。以前と同じ笑顔。けれど以前とは違う。自分の毎日を大切にしている人の笑顔だった。
「お待たせしました!」
「いや、私も今来たところだ」
二人は庭をゆっくり歩き始める。花壇には色とりどりの花が咲いていた。
「このお花、私が育てている花と同じなんです」
ラーナはしゃがみ込み、小さく微笑む。
「前は名前も知らなかったのに、今では季節ごとに咲く花が楽しみになりました」
「そうか」
「読書会でも、お花のお話で盛り上がるんですよ」
嬉しそうに話す姿を見ながら、ジークは静かに思う。
本当に良かった。
この笑顔を見たかった。だから、自分の言葉は間違っていなかった。間違っていたとは思わない。
だからこそ――。
「ラーナ」
「はい?」
足を止める。ラーナも不思議そうに見上げた。
「以前、君に言ったことを覚えているか」
「もちろんです」
ラーナはにっこり笑う。
「もっと自分で幸せになれ、ですよね」
「ああ」
「ジーク様のおかげで、私、本当に毎日が楽しいです」
その言葉に嘘はない。
だからジークも笑った。
「君は、そのままでいてほしい」
「はい」
「友達も大切にしてほしい」
「はい」
「趣味も続けてほしい」
「はい」
「旅行にも行ってほしい」
「はい!」
ラーナは元気よく返事をする。その笑顔を見て、ジークは肩の力を抜いた。
「私は、それをやめてほしいとは思わない」
ラーナは首を傾げる。
「でも、一つだけ願いがある」
「何でしょう?」
ジークは少しだけ照れたように笑った。
仕事の交渉なら、どんな相手にも迷わず話せる。それなのに、この一言がひどく緊張する。
「君の人生は君のものだ」
「はい」
「そこには友達がいて、趣味があって、大切な時間がある」
「はい」
「だから――」
ほんの少しだけ息を吸う。
「君の人生に、俺も入れてくれ」
ラーナはぱちりと目を瞬かせた。
「……え?」
「以前の君は、人生の全てが私だった。今は違う。そのほうが、ずっといい」
ジークは穏やかに笑う。
「でも、君の世界が広がった今だからこそ、その世界の中で一緒に歩いていきたい。恋人として、未来の夫として、君の隣にいたい」
しばらく沈黙が流れる。ラーナはその言葉をゆっくり胸の中で受け止めるように目を伏せた。
そして、満面の笑みを浮かべた。
「もちろんです!」
あまりにも即答だった。
「ジーク様は、一番大切な人です! 友達も大好きです! お花も好きです! 本も好きです!でも――」
ラーナは照れくさそうに笑う。
「その全部をジーク様にもお話ししたいんです」
ジークは目を見開く。
「今日読んだ本も、昨日咲いた花も、旅行のお話も。
全部、一番最初にお話ししたいのはジーク様なんです」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
◇
数週間後。
「では行ってきます!」
ラーナは門の前で手を振る。
「今日は女子会です!」
「ああ」
「夕方には帰ります!」
「楽しんでおいで」
ジークは穏やかに微笑んだ。
「終わったら、一緒にケーキを食べよう」
「はい! 新しいお店で買ってきますね!」
「期待している」
馬車がゆっくりと走り出す。
以前のジークなら、不安になっていたかもしれない。誰と会うのか。いつ帰るのか。何をしているのか。きっと気になっていただろう。
けれど今は違う。
ラーナは自分の時間を楽しみ、自分はその帰りを楽しみに待つ。それだけで十分だった。
レオンが隣で微笑む。
「閣下」
「何だ」
「少しは落ち着かれましたね」
「ああ」
ジークは苦笑する。
「ラーナがいきいきと自分の人生を楽しんでいる姿を見てると、私まで嬉しくなるものだな」
レオンが口元を緩める。
「ケーキを待つ時間だけは、相変わらず長く感じるのでしょうね」
「……それくらいは許してくれ」
二人は思わず笑い合った。
夕暮れ。門の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「ジーク様ー!」
ラーナが両手で箱を抱えながら駆けてくる。
「お待たせしました!」
「おかえり」
「ただいまです!」
自然に手をつなぐ。
その手は、以前のように「離れたら何もなくなる」手ではない。友達もいる。趣味もある。自分だけの幸せもある。それでも帰ってきたい場所がある。その隣で、同じ景色を見ながら歩いていきたい人がいる。
それは依存ではなく。
互いの人生を大切にしながら隣を歩いていく恋だった。
二人は笑いながら屋敷へ入っていく。
温かな紅茶と甘いケーキが待つ、その未来へ。
【完】
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