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「もっと自分で幸せになれ」と言われたので、その通りにしたら婚約者が焦り始めました  作者: 黒猫と珈琲


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3/3

後編

 恋とは、こんなにも理屈が通じないものだったのか。


 ジークヴァルトは執務室の窓辺に立ち、庭を眺めながら小さく息をついた。


 以前なら、休日にラーナと会えない日があっても気にならなかった。仕事に集中すれば、それでよかった。だが今は違う。書類を読み終えても、昼食を済ませても、ふとした瞬間に思い浮かぶのはラーナの笑顔だった。


 今日は何をしているんだろう。


 今も笑っているのだろうか。


 そんなことばかり考えてしまう。


「閣下」


 レオンが紅茶を置いた。


「何だ」

「そんなに窓を見つめても、ラーナ様はいらっしゃいませんよ」

「……そんなに見ていたか?」

「十二回です」

「数えていたのか」

「ええ」


 レオンは真面目な顔で頷く。


「重症ですね」

「やめろ」

「仕事なら冷静なご判断をなさるのに」

「恋愛だけ別人格だな」

「自覚はあるんですね」


 ジークは苦笑するしかなかった。


 その日の夕方。


 ラーナから手紙が届いた。


『明日は刺繍教室です。

 そのあと、サラたちとお茶をします。


 でも明後日はジーク様にお会いできますね。

 とても楽しみです』


 最後に、小さな花の絵が添えられていた。


 ジークは思わず笑みをこぼす。


「……楽しみなのは、私も同じだ」


 二日後。


 待ち合わせは、初めて会った庭園だった。


「ジーク様!」


 ラーナが嬉しそうに駆け寄ってくる。以前と同じ笑顔。けれど以前とは違う。自分の毎日を大切にしている人の笑顔だった。


「お待たせしました!」

「いや、私も今来たところだ」


 二人は庭をゆっくり歩き始める。花壇には色とりどりの花が咲いていた。


「このお花、私が育てている花と同じなんです」


 ラーナはしゃがみ込み、小さく微笑む。


「前は名前も知らなかったのに、今では季節ごとに咲く花が楽しみになりました」

「そうか」

「読書会でも、お花のお話で盛り上がるんですよ」


 嬉しそうに話す姿を見ながら、ジークは静かに思う。


 本当に良かった。


 この笑顔を見たかった。だから、自分の言葉は間違っていなかった。間違っていたとは思わない。


 だからこそ――。


「ラーナ」

「はい?」


 足を止める。ラーナも不思議そうに見上げた。


「以前、君に言ったことを覚えているか」

「もちろんです」


 ラーナはにっこり笑う。


「もっと自分で幸せになれ、ですよね」

「ああ」

「ジーク様のおかげで、私、本当に毎日が楽しいです」


 その言葉に嘘はない。


 だからジークも笑った。


「君は、そのままでいてほしい」

「はい」

「友達も大切にしてほしい」

「はい」

「趣味も続けてほしい」

「はい」

「旅行にも行ってほしい」

「はい!」


 ラーナは元気よく返事をする。その笑顔を見て、ジークは肩の力を抜いた。


「私は、それをやめてほしいとは思わない」


 ラーナは首を傾げる。


「でも、一つだけ願いがある」

「何でしょう?」


 ジークは少しだけ照れたように笑った。


 仕事の交渉なら、どんな相手にも迷わず話せる。それなのに、この一言がひどく緊張する。


「君の人生は君のものだ」

「はい」

「そこには友達がいて、趣味があって、大切な時間がある」

「はい」

「だから――」


 ほんの少しだけ息を吸う。


「君の人生に、俺も入れてくれ」


 ラーナはぱちりと目を瞬かせた。


「……え?」


「以前の君は、人生の全てが私だった。今は違う。そのほうが、ずっといい」


 ジークは穏やかに笑う。


「でも、君の世界が広がった今だからこそ、その世界の中で一緒に歩いていきたい。恋人として、未来の夫として、君の隣にいたい」


 しばらく沈黙が流れる。ラーナはその言葉をゆっくり胸の中で受け止めるように目を伏せた。


 そして、満面の笑みを浮かべた。


「もちろんです!」


 あまりにも即答だった。


「ジーク様は、一番大切な人です! 友達も大好きです! お花も好きです! 本も好きです!でも――」


 ラーナは照れくさそうに笑う。


「その全部をジーク様にもお話ししたいんです」


 ジークは目を見開く。


「今日読んだ本も、昨日咲いた花も、旅行のお話も。

 全部、一番最初にお話ししたいのはジーク様なんです」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。


「……ありがとう」


 それしか言えなかった。



 数週間後。


「では行ってきます!」


 ラーナは門の前で手を振る。


「今日は女子会です!」

「ああ」

「夕方には帰ります!」

「楽しんでおいで」


 ジークは穏やかに微笑んだ。


「終わったら、一緒にケーキを食べよう」

「はい! 新しいお店で買ってきますね!」

「期待している」


 馬車がゆっくりと走り出す。


 以前のジークなら、不安になっていたかもしれない。誰と会うのか。いつ帰るのか。何をしているのか。きっと気になっていただろう。


 けれど今は違う。


 ラーナは自分の時間を楽しみ、自分はその帰りを楽しみに待つ。それだけで十分だった。


 レオンが隣で微笑む。


「閣下」

「何だ」

「少しは落ち着かれましたね」

「ああ」


 ジークは苦笑する。

「ラーナがいきいきと自分の人生を楽しんでいる姿を見てると、私まで嬉しくなるものだな」


 レオンが口元を緩める。

「ケーキを待つ時間だけは、相変わらず長く感じるのでしょうね」


「……それくらいは許してくれ」


 二人は思わず笑い合った。


 夕暮れ。門の向こうから、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


「ジーク様ー!」


 ラーナが両手で箱を抱えながら駆けてくる。


「お待たせしました!」

「おかえり」

「ただいまです!」


 自然に手をつなぐ。


 その手は、以前のように「離れたら何もなくなる」手ではない。友達もいる。趣味もある。自分だけの幸せもある。それでも帰ってきたい場所がある。その隣で、同じ景色を見ながら歩いていきたい人がいる。


 それは依存ではなく。


 互いの人生を大切にしながら隣を歩いていく恋だった。


 二人は笑いながら屋敷へ入っていく。


 温かな紅茶と甘いケーキが待つ、その未来へ。





【完】




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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