中編
ラーナが変わってから、三か月ほどが過ぎた。
侯爵家の執務室。
ジークヴァルトはいつものように書類へ目を通し、次々と決裁印を押していく。
「こちらは商会との契約書です」
「ああ」
「こちらは来月の視察予定です」
「問題ない」
迷いのない返答。仕事は相変わらず完璧だった。
向かいで書類を整理していたレオンは、内心で感心する。
仕事だけは。
その時だった。執務室の扉が軽く叩かれる。
「失礼いたします」
侯爵家の使用人が一枚の手紙を運んできた。
「ラーナ様からでございます」
ジークの表情がふっと柔らかくなる。
「ありがとう」
封を開ける。そこには、いつもの丸みを帯びた文字が並んでいた。
『今日は刺繍教室でした。
先生に褒められました。
今度、ハンカチを作りますので楽しみにしていてください。
明日は読書会です。
明後日はお友達と街へ行きます。
毎日、とても楽しいです』
最後には、小さくこう書かれていた。
『ジーク様のおかげです』
自然と笑みがこぼれる。
「ラーナ様、随分と楽しんでいるようですね」
「ああ」
ジークは穏やかに頷いた。
「毎日を楽しめているようで安心した」
その笑顔を見て、レオンも安心したように笑う。
「閣下の願いどおりになりましたね」
「ああ」
そう。
そのはずだった。
◇
数日後。
ジークは久しぶりにラーナと昼食を共にしていた。
「ラーナ、最近はどう?」
「毎日すごく楽しいです!」
その笑顔を見るだけで、充実した毎日を過ごしていることが分かった。
「今日は刺繍教室だったんです」
「そうか」
「明日は読書会です」
「そうか」
「明後日はお庭のお手入れをして、その次の日はお友達と買い物で、その翌日は……」
予定が止まらない。
ジークは思わず笑った。
「忙しいな」
「はい!」
ラーナは嬉しそうに頷く。
「毎日があっという間なんです」
それを聞いて、ジークも嬉しくなる。
……嬉しい、はずだった。
「来週は?」
「温泉旅行のお土産を渡しに友達と集まります!」
「再来週は?」
「街で季節のお花を見る約束です!」
「その次は?」
「読書会のみなさんとお茶会です!」
ジークは何気ない調子で尋ねる。
「今日は誰と会うんだ?」
「サラとリリーです」
「……男性は?」
ラーナはぱちぱちと瞬きをした。
「いませんよ?」
「そうか」
ジークはほっと息をついた。
その瞬間だった。
……いや。
安心する話ではない。
自分で自分に驚く。
帰宅後。
執務室で、レオンが紅茶を置いた。
「何かございましたか?」
「……今日はラーナに誰と会うんだ、と聞いてしまった」
「はい」
「男性はいるのか、とも」
レオンは無言になる。
「女性だけだと聞いて安心した」
「はい」
数秒の沈黙。
「閣下」
「何だ」
「それは嫉妬です」
即答だった。
ジークは真顔で首を振る。
「違う」
「では何です?」
「確認だ」
「何のです?」
「安全の」
「安全でしたか」
「……そうだ」
レオンは肩を震わせた。
「笑うな」
「失礼しました」
しかし、口元は完全に笑っている。
「仕事では完璧なのですが……」
「言うな」
「恋愛だけは壊滅的ですね」
「言うな」
◇
その翌日。
ジークは王都の花屋へ立ち寄った。
「花束を一つ」
「贈り物ですか?」
「ああ」
店主は慣れた手つきで花を選びながら微笑む。
「奥様がお好きそうなお花をお包みしますね」
「婚約者だ」
「あら、それは失礼いたしました」
淡い青と白を基調にした花束を受け取り、ジークはそのままリンデ伯爵家へ向かった。
ほどなくして応対に出た伯爵夫人が、穏やかに微笑む。
「ようこそ、ジーク様」
「伯爵夫人。ラーナはおりますか?」
「申し訳ありません。あの子なら、今日は読書会へ出掛けておりますの」
「……そうですか」
「夕方には戻ると思います。どうぞ応接室でお待ちになりますか?」
夫人の申し出に、ジークは小さく首を横に振った。
「いえ、今日は仕事の合間に立ち寄っただけです。また改めて伺います」
「そうでしたか」
夫人は残念そうにしながらも頷いた。
「では、お花は責任を持ってラーナへ渡しますね。きっと喜びますわ」
「よろしく頼みます」
花束を預け、伯爵家を後にする。
屋敷を振り返ることはなかった。
けれど馬車へ乗り込むと、腕の中から花束の重みが消えていることに気づく。
「……少しだけ、会いたかった」
◇
翌週。
「今日は夕食でもどうだ?」
ラーナは手帳を開く。
「あっ、ごめんなさい」
「予定が?」
「はい! 友達と新しくできたカフェへ行く約束なんです!」
笑顔だった。
「そうか」
「今度一緒に行きましょうね!」
「……ああ」
今度。
その今度が、なかなか来ない。
さらに数日後。
「迎えに来た」
「え?」
ラーナは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「ちょうど終わったところか?」
「いえ。まだです」
「……まだ?」
「今日はガーデニング教室なんです!」
ジークは門の前で一時間待った。
やがて戻ってきたラーナは、土で少し汚れた手を見せながら笑う。
「ジーク様、見てください! 花を植えられるようになりました!」
「そうか」
その笑顔は眩しかった。
だからこそ、少しだけ複雑だった。
◇
休日。
二人は久しぶりに公園を散歩していた。
穏やかな風が吹く。ベンチへ並んで座ると、ラーナは照れくさそうに笑った。
「最近、本当に楽しそうだな」
「はい! 毎日幸せなんです」
「そうか」
ラーナは少しだけ空を見上げる。
「昔は、全てがジーク様だけでした」
ジークは黙って聞く。
「朝起きても。お昼も。夜も。ジーク様のことばかり考えていました」
ラーナはくすっと笑う。
「でも今は違うんです。友達と笑って。本を読んで。お花を育てて。旅行へ行って。毎日、新しい発見があります」
その横顔は、以前よりずっと生き生きとしていた。
「もちろん」
ラーナは真っ直ぐジークを見る。
「ジーク様は今でも一番大切です」
その言葉に、胸が温かくなる。
けれど。
次の一言で、その胸は静かに揺れた。
「一日会えなくても、寂しくなくなりました」
にこりと笑う。
「前は一日中そわそわしていたんです。でも今は、『また会える』って思えるようになりました」
ジークは静かに目を閉じた。
そして、小さく笑う。
「全部……」
「え?」
「全部、俺が言ったことだった」
友達を作れ。
趣味を作れ。
人生を楽しめ。
その通りにしただけだ。
ラーナは何一つ間違っていない。
間違っているのは、胸の奥が少し苦しい自分だった。
帰り道。
レオンが馬車の扉を開ける。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
「ラーナ様はいかがでしたか?」
ジークは窓の外を見つめたまま、小さく息をつく。
「幸せそうだった」
「それは何よりです」
「ああ」
しばらく沈黙が続く。
やがてジークは、窓の外を見つめたままぽつりと呟いた。
「……ラーナに会いたい」
「はい?」
「明日も。明後日も。その次も、会いたい」
レオンは額を押さえた。
「閣下」
「何だ」
「それを世間では恋といいます」
「恋……?これが、恋……」
ジークは慄いた。
仕事なら、どんな難題にも答えを出せる。
だが恋だけは違う。
ラーナの幸せを願いながらも、誰よりそばにいたいと思ってしまう。
その想いこそが、自分の恋だったのだと気付いた。




