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「もっと自分で幸せになれ」と言われたので、その通りにしたら婚約者が焦り始めました  作者: 黒猫と珈琲


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中編

 ラーナが変わってから、三か月ほどが過ぎた。


 侯爵家の執務室。


 ジークヴァルトはいつものように書類へ目を通し、次々と決裁印を押していく。


「こちらは商会との契約書です」

「ああ」

「こちらは来月の視察予定です」

「問題ない」


 迷いのない返答。仕事は相変わらず完璧だった。


 向かいで書類を整理していたレオンは、内心で感心する。


 仕事だけは。


 その時だった。執務室の扉が軽く叩かれる。


「失礼いたします」


 侯爵家の使用人が一枚の手紙を運んできた。


「ラーナ様からでございます」


 ジークの表情がふっと柔らかくなる。


「ありがとう」


 封を開ける。そこには、いつもの丸みを帯びた文字が並んでいた。


『今日は刺繍教室でした。

 先生に褒められました。

 今度、ハンカチを作りますので楽しみにしていてください。


 明日は読書会です。

 明後日はお友達と街へ行きます。

 毎日、とても楽しいです』


 最後には、小さくこう書かれていた。


『ジーク様のおかげです』


 自然と笑みがこぼれる。


「ラーナ様、随分と楽しんでいるようですね」

「ああ」


 ジークは穏やかに頷いた。

「毎日を楽しめているようで安心した」


 その笑顔を見て、レオンも安心したように笑う。


「閣下の願いどおりになりましたね」

「ああ」


 そう。


 そのはずだった。



 数日後。


 ジークは久しぶりにラーナと昼食を共にしていた。


「ラーナ、最近はどう?」

「毎日すごく楽しいです!」


 その笑顔を見るだけで、充実した毎日を過ごしていることが分かった。


「今日は刺繍教室だったんです」

「そうか」

「明日は読書会です」

「そうか」

「明後日はお庭のお手入れをして、その次の日はお友達と買い物で、その翌日は……」


 予定が止まらない。


 ジークは思わず笑った。


「忙しいな」

「はい!」


 ラーナは嬉しそうに頷く。


「毎日があっという間なんです」


 それを聞いて、ジークも嬉しくなる。


 ……嬉しい、はずだった。


「来週は?」

「温泉旅行のお土産を渡しに友達と集まります!」

「再来週は?」

「街で季節のお花を見る約束です!」

「その次は?」

「読書会のみなさんとお茶会です!」


 ジークは何気ない調子で尋ねる。


「今日は誰と会うんだ?」

「サラとリリーです」

「……男性は?」


 ラーナはぱちぱちと瞬きをした。


「いませんよ?」

「そうか」


 ジークはほっと息をついた。


 その瞬間だった。


 ……いや。


 安心する話ではない。


 自分で自分に驚く。


 帰宅後。


 執務室で、レオンが紅茶を置いた。


「何かございましたか?」

「……今日はラーナに誰と会うんだ、と聞いてしまった」

「はい」

「男性はいるのか、とも」


 レオンは無言になる。


「女性だけだと聞いて安心した」

「はい」


 数秒の沈黙。


「閣下」

「何だ」

「それは嫉妬です」


 即答だった。


 ジークは真顔で首を振る。


「違う」

「では何です?」

「確認だ」

「何のです?」

「安全の」

「安全でしたか」

「……そうだ」


 レオンは肩を震わせた。


「笑うな」

「失礼しました」


 しかし、口元は完全に笑っている。


「仕事では完璧なのですが……」

「言うな」

「恋愛だけは壊滅的ですね」

「言うな」



 その翌日。


 ジークは王都の花屋へ立ち寄った。


「花束を一つ」

「贈り物ですか?」

「ああ」


 店主は慣れた手つきで花を選びながら微笑む。


「奥様がお好きそうなお花をお包みしますね」

「婚約者だ」

「あら、それは失礼いたしました」


 淡い青と白を基調にした花束を受け取り、ジークはそのままリンデ伯爵家へ向かった。


 ほどなくして応対に出た伯爵夫人が、穏やかに微笑む。


「ようこそ、ジーク様」

「伯爵夫人。ラーナはおりますか?」

「申し訳ありません。あの子なら、今日は読書会へ出掛けておりますの」

「……そうですか」

「夕方には戻ると思います。どうぞ応接室でお待ちになりますか?」


 夫人の申し出に、ジークは小さく首を横に振った。


「いえ、今日は仕事の合間に立ち寄っただけです。また改めて伺います」

「そうでしたか」


 夫人は残念そうにしながらも頷いた。


「では、お花は責任を持ってラーナへ渡しますね。きっと喜びますわ」

「よろしく頼みます」


 花束を預け、伯爵家を後にする。


 屋敷を振り返ることはなかった。


 けれど馬車へ乗り込むと、腕の中から花束の重みが消えていることに気づく。


「……少しだけ、会いたかった」



 翌週。


「今日は夕食でもどうだ?」


 ラーナは手帳を開く。


「あっ、ごめんなさい」

「予定が?」

「はい! 友達と新しくできたカフェへ行く約束なんです!」


 笑顔だった。


「そうか」

「今度一緒に行きましょうね!」

「……ああ」


 今度。


 その今度が、なかなか来ない。


 さらに数日後。


「迎えに来た」

「え?」


 ラーナは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます!」

「ちょうど終わったところか?」

「いえ。まだです」

「……まだ?」

「今日はガーデニング教室なんです!」


 ジークは門の前で一時間待った。


 やがて戻ってきたラーナは、土で少し汚れた手を見せながら笑う。


「ジーク様、見てください! 花を植えられるようになりました!」

「そうか」


 その笑顔は眩しかった。


 だからこそ、少しだけ複雑だった。



 休日。


 二人は久しぶりに公園を散歩していた。


 穏やかな風が吹く。ベンチへ並んで座ると、ラーナは照れくさそうに笑った。


「最近、本当に楽しそうだな」

「はい! 毎日幸せなんです」

「そうか」


 ラーナは少しだけ空を見上げる。


「昔は、全てがジーク様だけでした」


 ジークは黙って聞く。


「朝起きても。お昼も。夜も。ジーク様のことばかり考えていました」


 ラーナはくすっと笑う。


「でも今は違うんです。友達と笑って。本を読んで。お花を育てて。旅行へ行って。毎日、新しい発見があります」


 その横顔は、以前よりずっと生き生きとしていた。


「もちろん」


 ラーナは真っ直ぐジークを見る。


「ジーク様は今でも一番大切です」


 その言葉に、胸が温かくなる。


 けれど。


 次の一言で、その胸は静かに揺れた。


「一日会えなくても、寂しくなくなりました」


 にこりと笑う。


「前は一日中そわそわしていたんです。でも今は、『また会える』って思えるようになりました」


 ジークは静かに目を閉じた。


 そして、小さく笑う。


「全部……」

「え?」

「全部、俺が言ったことだった」


 友達を作れ。


 趣味を作れ。


 人生を楽しめ。


 その通りにしただけだ。


 ラーナは何一つ間違っていない。


 間違っているのは、胸の奥が少し苦しい自分だった。


 帰り道。


 レオンが馬車の扉を開ける。


「お帰りなさいませ」

「ああ」

「ラーナ様はいかがでしたか?」


 ジークは窓の外を見つめたまま、小さく息をつく。


「幸せそうだった」

「それは何よりです」

「ああ」


 しばらく沈黙が続く。


 やがてジークは、窓の外を見つめたままぽつりと呟いた。


「……ラーナに会いたい」

「はい?」

「明日も。明後日も。その次も、会いたい」


 レオンは額を押さえた。


「閣下」

「何だ」

「それを世間では恋といいます」

「恋……?これが、恋……」


 ジークは慄いた。


 仕事なら、どんな難題にも答えを出せる。


 だが恋だけは違う。


 ラーナの幸せを願いながらも、誰よりそばにいたいと思ってしまう。


 その想いこそが、自分の恋だったのだと気付いた。



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― 新着の感想 ―
……アポなしっぽいけど婚約者なのだし、外で待たせないで応接間に入れてもてなすくらいしてもいいのでは?
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