前編
休日の朝。
ラーナ・リンデは鏡の前で最後に髪を整えると、小さく息を弾ませた。
「……今日はジーク様とお茶の日。ふふ」
ミルクティーブラウンの髪に淡い青のリボンを結ぶと、侍女がくすりと笑った。
「とてもご機嫌ですね」
「はい!」
ラーナは満面の笑みで頷く。
「だって、ジーク様に会えるの、ずーっと楽しみにしていたんですもの!」
侍女は優しい表情を浮かべながらも、少しだけ困ったように笑った。
「お嬢様は、本当にジークヴァルト様がお好きなのですね」
「もちろんです!」
即答だった。
「休日は全部ジーク様と過ごしたいですし、ジーク様がお仕事の日はお手紙を書いていますし……」
ラーナは指を折りながら数え始める。
「来月のお祭りも、一緒に行く予定です。その次は湖へ行って、その次は――」
「お嬢様」
侍女が苦笑する。
「最近、ご友人とはお会いになっていませんよね?」
「え?」
ラーナはきょとんとした。
「読書会のお誘いも、お断りされていましたし」
「ああ、それは」
ラーナは何でもないことのように笑う。
「その日はジーク様がお休みだったので」
「刺繍のお教室も」
「ジーク様と会えるかもしれない日だったので」
「ガーデニングは?」
「時間がもったいないですもの」
侍女は思わず言葉を失った。
ラーナはきょとんと首を傾げる。
「私はジーク様と一緒にいる時間が一番幸せなんです」
その笑顔に嘘はなかった。
◇
侯爵家の庭園。
「ジーク様、お待たせしました!」
ラーナが小走りで駆け寄ると、ベンチに座って本を読んでいたジークヴァルト・ファルクが顔を上げた。
黒髪に紅茶色の瞳。仕事では若き侯爵家嫡男として多忙を極める青年だが、ラーナの前では穏やかに微笑む。
「そんなに急がなくてもいい」
「でも、お待たせしたくなくて」
「私は本を読んでいたから構わないよ」
隣へ腰掛けるラーナは、それだけで嬉しそうだった。
二人は紅茶を飲みながら、他愛ない話をする。領地の花。最近読んだ本。街で見つけた焼き菓子。どれも穏やかで、優しい時間だった。
だが、その途中。
「そういえば」
ジークが何気なく尋ねた。
「先日の読書会はどうだった?」
ラーナは首を傾げる。
「行っていません」
「……断ったのか?」
「はい」
「理由は?」
「ジーク様がお休みだったので」
さらりと言われた一言に、ジークの手が止まる。
「刺繍教室は?」
「あれも」
「友人との約束は?」
「また今度にしました」
「ガーデニングは?」
「最近してません」
あまりにも自然だった。ラーナは何一つおかしいと思っていない。
ジークは静かに紅茶を置いた。
「ラーナ」
「はい」
「君は、休日はいつも私と過ごしているな」
「はい!」
「楽しいか?」
「もちろんです!」
ラーナは迷いなく笑う。
「私はジーク様といる時間が、一番幸せです」
その笑顔を見た瞬間、ジークの胸が少しだけ痛んだ。
嬉しい。
だが、それだけではいけない気がした。
この笑顔が、自分一人だけに向いていることが。
帰り道。
侯爵家の馬車で送ってもらう途中も、ラーナは楽しそうに今日の話を続けていた。
「来週もお会いできますよね?」
「ああ」
「再来週も?」
「ああ」
「よかったぁ」
心から安心したように笑うラーナを横目に、ジークは窓の外へ目を向けた。
この子は、もし私が長期出張になったら。もし病気で会えなくなったら。もし何かの事情で、一人になったら。
どうするのだろう。
そんな考えが頭をよぎる。
数日後。
侯爵家の書斎。
仕事を終えたジークは書類を閉じると、小さく息をついた。部屋に入ってきた秘書のレオンが、その様子を見て首を傾げる。
「お疲れですか?」
「いや」
「ラーナ様のことで?」
「……なぜ分かった」
「分かりますよ」
レオンは苦笑した。
「最近、考え込む時は大体そうです」
ジークは椅子にもたれた。
「私は彼女を愛している」
「ええ」
「だからこそ、気になる」
「何がです?」
「彼女の世界が、私しかいない」
レオンは静かに聞いていた。
「恋人が人生の中心になることはある」
「はい」
「だが、人生そのものになってはいけない」
その言葉には迷いがなかった。
「友人も必要だ。趣味も必要だ。自分だけの楽しみも必要だ。そういうものがあってこそ、人は幸せになれる」
レオンはゆっくり頷いた。
「……でしたら、お伝えになればよろしいのでは?」
「ああ」
ジークも静かに頷く。
「彼女には、もっと自分で幸せになってほしい」
◇
翌週。
庭園で紅茶を飲みながら、ジークは穏やかな声で切り出した。
「ラーナ」
「はい」
「一つお願いがある」
「何でしょう?」
ジークは少しだけ間を置いた。
「もっと、自分で幸せになってほしい」
ラーナは目を瞬かせた。
「え?」
「趣味を作ってもいい。友達と遊んでもいい。旅行へ行ってもいい。読書会へ行ってもいい」
優しい声だった。
「君の人生は、君のものだ。私だけに使わなくていい」
ラーナは黙って聞いていた。
「もちろん、一緒に過ごす時間はこれからも大切にしたい。だが、それ以外の時間も、君自身が楽しんでほしい。そのほうが、私は嬉しい」
しばらく沈黙が流れる。
やがてラーナは俯き、小さく肩を震わせた。
「私……」
ぽろりと涙が落ちる。
「ジーク様に、ご迷惑をかけていたんですね……」
「違う」
ジークは優しく首を振る。
「そういう意味ではない。君が笑っていてくれることが、一番嬉しい。だが、その笑顔を私だけに預けなくていい」
ラーナは何度も涙を拭いた。
そして大きく頷く。
「分かりました!頑張ります!」
その返事は、いつものように真っ直ぐだった。
◇
それから数か月。
ラーナは本当に変わった。刺繍教室へ通い始め、読書会にも参加した。ガーデニングを再開し、友達が増え、新しい焼き菓子のお店を巡るようになった。
毎日が新鮮で、笑顔が増えていく。
ジークはその様子を見て、心から安堵していた。
ある日、ラーナが弾む声で言った。
「来週、お友達と温泉旅行へ行くことになりました!」
「そうか」
「お土産、楽しみにしていてくださいね!」
満面の笑みで手を振るラーナを、ジークは門の前で見送る。馬車が小さくなっていく。
「……旅行?」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
その感情の正体を。
まだ彼は知らなかった。
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