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「もっと自分で幸せになれ」と言われたので、その通りにしたら婚約者が焦り始めました  作者: 黒猫と珈琲


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前編



 休日の朝。


 ラーナ・リンデは鏡の前で最後に髪を整えると、小さく息を弾ませた。


「……今日はジーク様とお茶の日。ふふ」


 ミルクティーブラウンの髪に淡い青のリボンを結ぶと、侍女がくすりと笑った。


「とてもご機嫌ですね」

「はい!」


 ラーナは満面の笑みで頷く。


「だって、ジーク様に会えるの、ずーっと楽しみにしていたんですもの!」


 侍女は優しい表情を浮かべながらも、少しだけ困ったように笑った。


「お嬢様は、本当にジークヴァルト様がお好きなのですね」

「もちろんです!」


 即答だった。


「休日は全部ジーク様と過ごしたいですし、ジーク様がお仕事の日はお手紙を書いていますし……」


 ラーナは指を折りながら数え始める。


「来月のお祭りも、一緒に行く予定です。その次は湖へ行って、その次は――」

「お嬢様」


 侍女が苦笑する。


「最近、ご友人とはお会いになっていませんよね?」

「え?」


 ラーナはきょとんとした。


「読書会のお誘いも、お断りされていましたし」

「ああ、それは」


 ラーナは何でもないことのように笑う。


「その日はジーク様がお休みだったので」

「刺繍のお教室も」

「ジーク様と会えるかもしれない日だったので」

「ガーデニングは?」

「時間がもったいないですもの」


 侍女は思わず言葉を失った。


 ラーナはきょとんと首を傾げる。


「私はジーク様と一緒にいる時間が一番幸せなんです」


 その笑顔に嘘はなかった。



 侯爵家の庭園。


「ジーク様、お待たせしました!」


 ラーナが小走りで駆け寄ると、ベンチに座って本を読んでいたジークヴァルト・ファルクが顔を上げた。


 黒髪に紅茶色の瞳。仕事では若き侯爵家嫡男として多忙を極める青年だが、ラーナの前では穏やかに微笑む。


「そんなに急がなくてもいい」

「でも、お待たせしたくなくて」

「私は本を読んでいたから構わないよ」


 隣へ腰掛けるラーナは、それだけで嬉しそうだった。


 二人は紅茶を飲みながら、他愛ない話をする。領地の花。最近読んだ本。街で見つけた焼き菓子。どれも穏やかで、優しい時間だった。


 だが、その途中。


「そういえば」


 ジークが何気なく尋ねた。


「先日の読書会はどうだった?」


 ラーナは首を傾げる。


「行っていません」

「……断ったのか?」

「はい」

「理由は?」

「ジーク様がお休みだったので」


 さらりと言われた一言に、ジークの手が止まる。


「刺繍教室は?」

「あれも」

「友人との約束は?」

「また今度にしました」

「ガーデニングは?」

「最近してません」


 あまりにも自然だった。ラーナは何一つおかしいと思っていない。


 ジークは静かに紅茶を置いた。


「ラーナ」

「はい」

「君は、休日はいつも私と過ごしているな」

「はい!」

「楽しいか?」

「もちろんです!」


 ラーナは迷いなく笑う。


「私はジーク様といる時間が、一番幸せです」


 その笑顔を見た瞬間、ジークの胸が少しだけ痛んだ。


 嬉しい。


 だが、それだけではいけない気がした。


 この笑顔が、自分一人だけに向いていることが。


 帰り道。


 侯爵家の馬車で送ってもらう途中も、ラーナは楽しそうに今日の話を続けていた。


「来週もお会いできますよね?」

「ああ」

「再来週も?」

「ああ」

「よかったぁ」


 心から安心したように笑うラーナを横目に、ジークは窓の外へ目を向けた。


 この子は、もし私が長期出張になったら。もし病気で会えなくなったら。もし何かの事情で、一人になったら。


 どうするのだろう。


 そんな考えが頭をよぎる。


 数日後。


 侯爵家の書斎。


 仕事を終えたジークは書類を閉じると、小さく息をついた。部屋に入ってきた秘書のレオンが、その様子を見て首を傾げる。


「お疲れですか?」

「いや」

「ラーナ様のことで?」

「……なぜ分かった」

「分かりますよ」


 レオンは苦笑した。


「最近、考え込む時は大体そうです」


 ジークは椅子にもたれた。


「私は彼女を愛している」

「ええ」

「だからこそ、気になる」

「何がです?」

「彼女の世界が、私しかいない」


 レオンは静かに聞いていた。


「恋人が人生の中心になることはある」

「はい」

「だが、人生そのものになってはいけない」


 その言葉には迷いがなかった。


「友人も必要だ。趣味も必要だ。自分だけの楽しみも必要だ。そういうものがあってこそ、人は幸せになれる」


 レオンはゆっくり頷いた。


「……でしたら、お伝えになればよろしいのでは?」

「ああ」


 ジークも静かに頷く。


「彼女には、もっと自分で幸せになってほしい」



 翌週。


 庭園で紅茶を飲みながら、ジークは穏やかな声で切り出した。


「ラーナ」

「はい」

「一つお願いがある」

「何でしょう?」


 ジークは少しだけ間を置いた。


「もっと、自分で幸せになってほしい」


 ラーナは目を瞬かせた。


「え?」

「趣味を作ってもいい。友達と遊んでもいい。旅行へ行ってもいい。読書会へ行ってもいい」


 優しい声だった。


「君の人生は、君のものだ。私だけに使わなくていい」


 ラーナは黙って聞いていた。


「もちろん、一緒に過ごす時間はこれからも大切にしたい。だが、それ以外の時間も、君自身が楽しんでほしい。そのほうが、私は嬉しい」


 しばらく沈黙が流れる。


 やがてラーナは俯き、小さく肩を震わせた。


「私……」


 ぽろりと涙が落ちる。


「ジーク様に、ご迷惑をかけていたんですね……」

「違う」


 ジークは優しく首を振る。


「そういう意味ではない。君が笑っていてくれることが、一番嬉しい。だが、その笑顔を私だけに預けなくていい」


 ラーナは何度も涙を拭いた。


 そして大きく頷く。


「分かりました!頑張ります!」


 その返事は、いつものように真っ直ぐだった。



 それから数か月。


 ラーナは本当に変わった。刺繍教室へ通い始め、読書会にも参加した。ガーデニングを再開し、友達が増え、新しい焼き菓子のお店を巡るようになった。


 毎日が新鮮で、笑顔が増えていく。


 ジークはその様子を見て、心から安堵していた。


 ある日、ラーナが弾む声で言った。


「来週、お友達と温泉旅行へ行くことになりました!」

「そうか」

「お土産、楽しみにしていてくださいね!」


 満面の笑みで手を振るラーナを、ジークは門の前で見送る。馬車が小さくなっていく。


「……旅行?」


 その言葉を口にした瞬間。


 胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。


 その感情の正体を。


 まだ彼は知らなかった。





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