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偽面葬送  作者: ぱぅむ
8/9

潮解-弐

 ――工場の薄暗い空間を埋め尽くしたのは、鼓膜を不快に震わせる無数の羽音だった。

 サキの影から湧き出したのは、サイズも形も多種多様な、数え切れないほどの量の「蟲」の群れ。肉厚な甲虫、悍ましい百足、空中を乱舞する羽蟲たちが、黒い津波となって羅刹へ殺到する。

「うわ、きっもちわり!」

 羅刹は鼻で笑いながら、身軽な動きで蟲の津波から距離を取る。彼が逃げる軌跡を追うように、工場の狭い廊下の壁がドロッと形を失って溶けていき、支えを失った天井が激しい音を立てて崩落した。

大量の瓦礫に押し潰される蟲たち。しかし、サキの猛攻は止まらない。瓦礫の隙間から、はたまたそのさらに後ろから、這い出してきた蟲たちが執念深く羅刹を追い続ける。

 不意に、あれほどいた蟲たちが一瞬で虚空へと消え去った。

 羅刹が怪訝に目を細めた、その瞬間。

「しまっ――」

横の壁を派手に突き破り、巨大な「蛇」の頭部が出現した。羅刹の巨体を丸呑みにせんと、顎を大きく裂いて襲いかかる。羅刹は咄嗟に両腕を交差させて蛇の牙をガードしたが、真の狙いはそこではなかった。

 ――蛇の、深く暗い喉奥から。

 蟲の主であるサキが、弾丸のような速度で飛び出してきたのだ。

「やっほ、さっきぶりッ!!」

 空中から羅刹の頭部を狙った、苛烈なハイキック。だが、羅刹は驚異的な反射速度で首を逸らし、これを間一髪で回避する。

「どこから出てきてんだよ、きっしょ!!」

 着地したサキと羅刹の間で、息もつかせぬ超近接戦闘が勃発した。

 拳と蹴りが火花を散らすように交錯し、互いの攻撃が空気を切り裂く。シラフのサキの体術は圧倒的だったが、羅刹の纏う「溶かす」気配が彼女の動きを制限していた。

 数秒の攻防の末、羅刹の鋭い前蹴りをサキが腕で受け流した隙――。

 空いたサキの胴体へ、羅刹の容赦ない拳が真っ直ぐに突き刺さった。

「がはっ……!?」

 強烈な衝撃波と共にサキの体が激しく吹き飛び、工場の大型機械へと背中から激突する。鉄を凹ませて崩れ落ちるサキを見下ろし、羅刹は一切の興味を失ったように背を向けた。

「はは、先輩サマは後回しだ。今はお前を─!」

 羅刹は狂気的な笑みを浮かべ、地面を爆破するように蹴って走り出した。

 その標的は、藍原シン。

「――っ、出ろ……出ろよ……ッ!!」

 迫り来る羅刹の狂気から逃れるように、シンは必死に工場の瓦礫を飛び越え、後退しながら体内の熱を弄った。

 あの日、上野駅でイタクァの腕を文字通り粉砕した、あの全能感。脳の芯が焼き切れるような、あの「感覚」を必死に手繰り寄せようとする。

 しかし――出ない。

 どれほど強く念じても、あの這い寄る混沌の気配は、シンの魂の底で冷たく沈んだままだ。桼の言葉が脳裏をよぎる。『こっちが顕現の合図を出しても、機嫌が悪けりゃ無視して出てこない』。

 その時だった。

 焦燥に駆られるシンの脳内に、彼にしか聞こえない、背筋が凍るような滑らかな声が直接響き渡った。

『――私はまだ、愉悦を見ていない』

「クソ邪神が……!!」

 神の気まぐれに弄ばれていることを察し、シンは小さく毒突いた。だが、呪っている暇など一秒も残されていない。

 眼前には、既に距離をゼロにした羅刹の、灰色の髪が揺れていた。超至近距離。避けるのは不可能。ならば、やるしかない。

 シンの体術は、決して素人仕込みの粗末なものではなかった。組織の訓練、そして死線で培った生存本能が、最速のストレートを突き出す。

 渾身の拳。手応えは、確かにあった。

 シンの右拳が、吸い込まれるように羅刹の腹を真っ直ぐに――貫いた。

 いや、違った。

「――は?」

 シンの拳が着弾するはずだった羅刹の腹部。その肉体が、衝突の直前にまるで熱したバターのように「丸く」溶けて空洞になり、シンの拳はただ虚空を切っていたのだ。

 羅刹は、相手の攻撃に合わせて、自らの肉体をその形状のまま瞬時に溶かして受け流した。

 空を切ったシンの体勢が大きく崩れる。

 空洞になった腹の肉をヌルリと元に戻しながら、羅刹は顔を近づけ、歪に口角を吊り上げた。

「ドッキリ大成功」

 ―─ドガッ。

「が、はっ……!?」

 至近距離から放たれた羅刹の容赦ない蹴りが、シンの脇腹を捉えた。

 凄まじい衝撃波と共にシンの体は軽々と宙を舞い、工場の固いコンクリートの床を何度もバウンドしながら、激しく蹴り飛ばされていった。

シンを蹴り飛ばした羅刹が、容赦のない追撃を仕掛けようと一歩を踏み出す。だが、それを許すほど「先輩」は甘くなかった。

―再び暗闇から沸き起こった、先ほどを遥かに凌駕する漆黒の蟲の津波。それが羅刹の全身を完全に飲み込み、凄まじい質量兵器となって、工場の頑丈なコンクリート壁ごと彼を建物の外へとぶち抜いて追い出した。

「……ッ、ペッ」

 サキは口内に溜まった血混じりの唾を床に吐き捨て、ふらつきながらもシンの元へと駆け寄る。その表情には、いつもの余裕は一切ない。

「大丈夫、シン君。…あいつ、そこらの陋格者とはワケが違う。かなり手強いよ」

「痛っ……てて、なんとか。あいつの体、攻撃する瞬間に溶けた…!」

 シンは脇腹の激痛に耐えながら立ち上がり、焦燥を滲ませて問いかけた。

 二人の前には、外からの侵入を防ぐように、大量の蟲たちがうごめく漆黒の砦を築いている。だが、その防壁を突き破って「何か」が猛スピードで飛来した。

それは、真っ赤に加熱され、形が歪んだ「溶けた鉄パイプ」。

 鉄パイプは蟲の砦を何百匹ともろとも貫き、工場の壁に激突した瞬間、まるで水風船が弾けたかのように液体となって急激に融解、周囲に飛び散った。その高熱の飛沫を浴びた蟲たちが、ジチチチ、と悲鳴のような鳴き声を上げながら、次々とドロドロの肉泥に変えられていく。

「はぁ……。だからさぁ」

 ぶち抜かれた壁の向こう、立ち込める煙を割って、羅刹が再び姿を現した。気だるげに首や肩を回しながら、心底不快そうに眉間に深い皺を寄せている。

「その蟲、本気でキショいから辞めてくんない? 精神衛生上よろしくないんだよね」

 怪物のような男の健在振りに、サキは奥歯を噛み締めた。そして、隣のシンを一瞬だけ見据え、覚悟を決めたように告げる。

「シン君、 ナイアルなんとかが出せるようになったら言って、時間稼ぐから」

「え、ちょ――!?」

 言い残すや否や、サキは一段高くなっていた床から、羅刹の元へと真っ直ぐに飛び降りた。

 蟲の目眩ましを掻い潜り、最短距離で肉薄する。羅刹がそれを迎え撃とうと腕を上げた瞬間、サキの細い手のひらが、羅刹の衣服の隙間――首元の肌へと鋭く触れた。

 パシッ、と小さな接触音。

「――っ!」

 触れた刹那、サキは即座に限界まで跳躍して後退した。

 残された羅刹は、触れられた首元を手で押さえながら、不敵な薄笑いを浮かべる。

「何今の?俺と鬼ごっこでもしたいってこと?」

 だが、羅刹の笑みはそこまでだった。唐突に、彼の顔から血の気が引く。

「……が、あ……ッ!?」

 羅刹の喉が異常に大きく鳴り、その口から、まるで蛇口をひねったかのように大量の鮮血が噴き出した。ドボドボと床を汚す血の海。羅刹は激しく咳き込み、膝をつきながらも、狂気的な笑みを崩さずにサキを睨みつける。

「……ゴホッ、ハハッ! ……なるほどね、毒、か……? 触れた相手を、内側から侵すタイプの……ッ!」

 彼が吐き出した黒赤い血溜まりの中には、ウジ虫のような悍ましい幼虫が3匹ほど、ウネウネと蠢いていた。サキの邪神が放つ、肉体を内側から貪る呪いの毒。

 しかし、羅刹は口の端に付いた血を手の甲で乱暴に拭い、何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がった。その瞳は、もはやお遊びの温度を完全に失い、底なしの暗黒に染まっている。

「いいね、最高。……決めた、お前はじっくり、つま先から順番に溶かしてやるよ」

 羅刹が腰を落とし、地を這うような構えを取る。彼の周囲の空気が、放たれる熱量と殺気で陽炎のように歪み始めた。

羅刹が爆音と共に地面を蹴り、サキへと一瞬で肉迫する。

「─ッ!」

 サキは即座に後退して距離を取ろうとした。しかし、後ろへ下がるべく足元に体重をかけた、その瞬間――床のコンクリートがぐにゃりと不自然に形を失い、泥のように溶けた。

 羅刹は走る一瞬の隙に、サキの着地狩りとして足元をタイミングよく融解させたのだ。

 予期せぬ地面の崩壊に、サキの完璧なバランスが大きく崩れる。その致命的な隙を、狂気の怪物が逃すはずもなかった。

「引っかかってやんの!!」

 無防備になったサキの肉体に、羅刹の目にも留まらぬ苛烈な3連撃の拳が叩き込まれる。

 ドガッ、ドゴッ、 と鈍い音が響き、サキの身体が激しく揺らぐ。仕留めにかかる最後の一撃に対し、サキは辛うじて右腕を突き出して防御したが――。

「マジ……?」

 かすった。ただそれだけだった。

 だが、羅刹の拳が触れたサキの右腕の皮膚は、熱せられたプラスチックのようにジュクジュクと音を立てて白く溶け始めていた。サキは後方へ飛び退きながら、若干溶けて肉の爛れた自分の腕を見つめ、苦痛に顔をしかめた。

 その光景を遠くから見ていたシンは、圧倒的な戦力差を前に、背中に冷たいものを感じていた。サキがやられる。次は自分だ。

 死のイメージが脳裏をよぎり、奥歯を噛み締めたその瞬間――。

 頭蓋の奥で、あの忌々しくも禍々しい『4番目』の声が、酷く愉しげに響き渡った。

『――1分だ。それ以上は禁ずる。』

 声が止んだ刹那、シンの脳内に電流のような感覚が走った。

 言葉ではなく、本能で理解する。――今なら、あの能力ちからが使える。

「…こっちだよ!!」

 シンは叫びながら、工場の巨大な機械と機械の間を縫うように、猛スピードで走り出した。その手に握られていたのは、先ほどサキから渡された証拠用のデジタルカメラだ。

 シンは走り込みの勢いのまま、羅刹の顔面に向けてカメラを全力で投げつけた。

「あはは! 追い詰められて石投げ? 遊びじゃねぇん―」

 羅刹が飛来するカメラを鼻で笑い、無視してシンの本体へ踏み込もうとした、その瞬間。

 空中で、カメラの形状がぐにゃりと歪み、衣服を纏った「人間の形」へと膨れ上がった。

それと同時に、さっきまで機械の影を走っていたはずのシンの本体が、コロコロ……と音を立てて床に転がり、ただの『デジタルカメラ』へと姿を変えていた。

 羅刹が「シンの本体」だと思って目で追っていたものは、最初から投げつけられたカメラが見せていた幻影。本物のシンは、カメラそのものになって羅刹の頭上へと肉迫していたのだ。

「なっ――!?」

 空中でカメラから人間の姿へと戻ったシンは、無防備な羅刹の後頭部へ向けて、全体重を乗せた拳を叩き込んだ。

「がっ!?」

 意表を突かれた羅刹の身体が大きくよろめく。

 シンが作ったその決定的な好機を、歴戦の先輩が見逃すはずがなかった。

工場の床から出現した巨大な蛇が、羅刹の胴体へ狂暴に喰らいついた。蛇は羅刹を咥えたまま、凄まじい勢いで這い上がり、そのまま工場の高々とそびえる天井の鉄骨へと羅刹の身体を激しく叩きつけた。

鉄骨がひしゃげ、天井から大量の火花と塵が舞い散る。

 役割を終えた大蛇が霧のように消え去ると、天井から羅刹の身体が力なく床へと落下した。

 ドサリ、と叩きつけられた羅刹は、先ほどサキの毒を喰らった時とは比べ物にならないほどの大量の血を口から吐き出した。内臓を破壊され、骨が折れる音が響く。

 しかし――これほどのダメージを負いながらも、彼の灰色の瞳から光は消えていなかった。それどころか、血塗れの顔で、なおも愉快そうに口角を釣り上げて笑った。

「ハハッ………ここは戦略的撤退がベストか?」

 羅刹がそう呟いた直後、彼の肉体が意思を持った液体のように、衣服ごと床へ向かってドロッと崩れ落ちた。

「次は必ず殺してやるよ〜」

溶けた彼は、驚くべき速度で床を這い、近くにあった小さな排水溝の隙間へと滑り込んでいく。

「待てっ……!」

 シンが慌てて駆け寄り、息を切らしながら排水溝の鉄格子の中を覗き込んだ。

 だが、暗い管の奥には、濁った水すら残されていない。そこにはただ、嫌な熱気と静寂だけが虚しく広がっているだけだった。

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