混沌再来
上野の街は、もはやシンの知る憩いの場ではなかった。
赤黒い空の下、路地裏やビルの陰から、濡れた雑巾のような音を立てて無数の異形たちが這い出してくる。それらは明確な意志など持たぬまま、ただ食欲と殺意に従って一斉にこちらへ牙を剥いた。
「相変わらず湧きすぎだ…」
桼がため息をつき、地面に手を当てると、アスファルトを突き破って数本の巨大な触手が出現した。それは逃げ惑う獲物を捕らえる蛇のようにしなり、襲いかかる異形たちを次々と叩き潰し、あるいは空中で引きちぎっていく。
「シン、お前は新人だ。尖崎の背中から離れるな、 こっちは俺がやる!」
「指示されなくても分かってるよ……ッ!」
シンは桼の背中を見送りながら、尖崎の邪魔にならないよう必死に立ち回る。手近にあった路上の消火器をひっ掴み、群がる無名の邪神たちの一団へ全力で投げつけた。
ドゴォッ! という鈍い衝撃音。怯んだ隙を逃さず、シンは拳を固めて一匹の顔面に殴りかかる。
(クソッ、殴っても殴っても減りやしねぇ……!)
後退りしながら必死に応戦するシンの耳に、先ほどから奇妙な音が届いていた。
「パン、パパンッ」と、乾いた破裂音のような、あるいは何かが弾けるような音だ。
不意に、背後から尖崎がシンの真横をすり抜けた。
彼は焦る様子もなく、シンが手こずっていた異形に「パシッ」と軽く掌で触れる。そのまま流れるような動作で、次々と周囲の雑魚共へ手を伸ばし、ただ優しく触れていった。
「……? おい、何してんだよ尖崎さん! 撫でてる場合じゃ――」
――パンッ!!!
シンの言葉は、凄まじい衝撃音にかき消された。
尖崎が触れた順に、異形たちの肉体が内側から爆発するように弾け飛んだのだ。
飛び散ったのは、邪神特有の紫色の血ではない。水のように透明で、それでいて粘り気のある未知の液体が周囲を濡らす。
(なんだよ、今の……。あいつの力か……? すげー、触るだけで爆弾みたいに…)
シンは驚愕に目を見開きながらも、立ち止まることは許されなかった。尖崎は既に次の獲物を求めて走り出している。
「おい、ボサッとするな! 地獄のダッシュの続きだぞ!」
「ハァ……ハァッ……分かってるよ、クソッ!」
シンは再び、肺が千切れるような全力疾走で尖崎の背中を追った。
「いいかシン!、雑魚を散らしながら、迷い込んだ一般人がいないか隅々まで目を光らせろ! それから、この位相の核となっている『主』の気配を探せ! そいつを叩かない限り、この地獄は終わらない!」
尖崎の声が、風を切る音と共に響く。
シンは真っ青な顔を上げ、赤い空を見つめた。
逃げ場のない戦場。だが、自分の内側にいる邪神が楽しげに喉を鳴らしているような気がして、シンは無意識に口端を歪めた。
上野駅の喧騒が嘘のように消え失せ、不気味な静寂が支配する自販機の前。そこで、腰を抜かして震えている男女の姿をシンは捉えた。
「おい、一般人だ! 二人いる!」
シンの叫びに応じ、尖崎が周囲に蠢く無名の雑魚どもを瞬時に爆砕させながら駆け寄る。
近づいたシンの目に飛び込んできたのは、もはや言葉を失い、白目を剥きかけている夫婦の惨状だった。二人の手は、まるで何かに取り憑かれたように自分の喉元へ伸び、皮膚を真っ赤に掻き毟っている。
(これか……桼が言ってたのは……!)
この位相の空気に触れただけで、一般人の精神は容易く瓦解する。このまま放置すれば、自分自身の爪で喉を掻っ切り、正気を失ったまま絶命する───
「シン、そいつらの両手を抑えろ、 喉を裂かせるな」
「くそっ、暴れるな! 落ち着けよ!」
シンは必死に二人の腕を組み伏せ、自傷行為を食い止める。その隙に、尖崎は周囲の空間を鋭い眼光で睨みつけ、この地獄からの出口――『位相の穴』を探り当てた。
「……あった、 動物園の入場口だ。あそこから表の世界へ叩き出すぞ!」
尖崎は手際よく男を背負い、シンは震える女の手を強く引いて、赤い空の下を全力で駆けた。
目的地は動物園の正門。その中央、現実世界へと繋がる漆黒の渦が、ポッカリと口を開けて待っていた。
(あと少し……あと数メートルで、この人たちは助かる……!)
シンの指先に、出口から漏れ出す「現実」の冷たい風が触れた、その瞬間だった。
――ズズズ…
足元から、心臓を直接握りつぶされるような巨大な振動が突き上げた。
アスファルトが紙細工のように弾け飛び、地底から「何か」が凄まじい勢いで這い出す。
「しまっ……! シン、下がれッ!!」
尖崎の怒声と共に、二人は反射的に後方へと大きく跳躍した。
視界を土煙と瓦礫が覆い尽くす。着地と同時にシンが叫ぶ。
「おい、大丈夫か!?」
返事はない。煙が薄れ、そこに現れた光景に、シンの心臓は凍りついた。
さっきまで背負っていた男も、手を引いていたはずの女も、そこにはいなかった。
代わりにそこに鎮座していたのは、山のような巨躯を持つ、名状しがたき異形。
その姿は、雲の塊を無理やり繋ぎ合わせたかのように白くぼんやりとしており、輪郭は常に揺らめいている。だが、そこから伸びる二本の腕だけは、骨と皮ばかりの異常な細長さで地面を這っていた。脚は存在せず、巨体は重力を無視して地上数メートルに浮遊している。そして、その頭部と思わしき場所には、血のように真っ赤な巨大な眼が二つ、爛々と輝いていた。
「……あ……」
シンの声が漏れる。
その異形の巨大な両手には、さっきまで守っていたはずの夫婦が、まるで羽虫のように握られていた。
異形は、抵抗する力すら失った二人を、無造作にその「亀裂」のような口の中へと放り込んだ。
グチャリ、という、生々しい肉と骨が砕ける音が静寂に響く。
「……クソ」
尖崎がこれまでにない殺気を放つ。
だが、異形はそれを嘲笑うかのように、二人を飲み込むと同時に大きく胸を膨らませ、大きく息を吸い込んだ。
『――ギィィィィィィィィィィィィイイイイッ!!!!』
放たれたのは、音波というよりは「狂気」そのものの叫びだった。
黒板を爪で立てる音を数万倍に増幅し、そこに死者の怨嗟を混ぜたような、悍ましく不快な咆哮。
シンの脳を直接針で刺されるような激痛が走り、耳の奥から熱い液体が伝う。
それは、明確な戦闘の合図。
目の前の怪物は、単なる獲物を求めているのではない。自分たちの領域を侵す「神格者」を排除せんとする、この位相の『主』だった。
「……やりやがったな、この化け物が……!」
シンの瞳から、恐怖が消え、濁った怒りが立ち昇る。
同時に、腹の底で眠っていたナイアルラトホテップが、久しく見る「上質な絶望」に歓喜し、その影をドロリと長く伸ばした。
咆哮の余韻が消えぬ間に、巨体の背後で空気が歪み、暴力的な風が渦を巻き始めた。
尖崎はその光景を射抜くような視線で見据え、脳内のデータベースから瞬時にその正体を引きずり出した。
「……イタクァか!」
その名が呼ばれると同時に、ペタクァが細長い腕を振るった。渦巻く暴風が、意志を持った大蛇のように二人へと襲いかかる。
「シン、隠れろ!!」
尖崎がシンの腕を力任せに掴むと、近くのコンクリート製の遮蔽物へと放り投げた。その直後、シンが先ほどまで立っていた地面が、凄まじい音を立てて白く凍りついた。ただの冷気ではない。一瞬にして分子の運動を停止させるような、絶対零度の「呪い」。
だが、イタクァはシンに休息を与えるつもりなど微塵もなかった。
凍りついた地面から鋭い霜の結晶が弾け飛び、弾丸のような速度でシンを追撃する。
「くそっ、次から次へと……!」
一方、尖崎の前には風の中から巨大な翼竜のごとき怪鳥が出現していた。馬を遥かに凌ぐ巨躯を持つその鳥が、鋭い鉤爪を立てて尖崎を空中へと引きずり込もうと強襲する。
(アイツを尖崎さんが抑えてる間に、俺があの本体を……!)
シンは恐怖を殺し、駅舎の中へと滑り込んだ。柱や壁を遮蔽物にし、全速力でペタクァとの間合いを詰めにかかる。
背後からは絶え間なく霜の弾丸が飛来し、駅のタイルや鉄骨を粉砕していく。冷たい死の気配がすぐ後ろまで迫っている。
「――っ、いける!!」
柱の陰から飛び出し、一気に懐へ潜り込もうとした、その瞬間だった。
ペタクァの赤い眼が、標的を捉えて不気味に光る。
「……あ?」
次の瞬間、肺の中の空気が吸い出されるような猛烈な強風がシンを正面から叩いた。
抵抗する術などなかった。シンの体は木の葉のように宙に浮き、凄まじい衝撃と共に駅の壁を突き破った。
「が、はっ……!!」
背中からコンクリートの壁を粉砕し、シンは屋外へと叩き出された。
視界が火花を散らし、激痛が全身を走る。
再び赤い空の下へと転がり落ちたシンの前に、音もなく滞空するイタクァが、その巨大な三本指の腕をゆっくりと振り上げていた。
死の予感が、冷たい霜のように全身を駆け巡った。
振り上げられたイタクァの巨大な腕。それが振り下ろされれば、自分は間違いなく肉塊へと変わる。意識が遠のき、視界が赤く染まりかけたその刹那。
脳の最深部に、あの悍ましい不協和音が響き渡った。
『――クク、ク。まだ収穫には早すぎる』
直後、物理法則を無視した光景がシンの目の前で展開された。
イタクァのあの頑強な三本指の腕が、まるで見えない巨大な力で雑巾のように絞られたかのように、あり得ない方向へミシミシとねじ曲がったのだ。
『─ギィィィィィィィィィィッ!!??』
ペタクァの口から、先ほどまでの威圧感は消え失せ、純粋な激痛による悲鳴が上がる。
そして――シンの影が、生き物のようにドロリと立ち上がった。
ナイアルラトホテップ、顕現。
カードに描かれていたあの異形が、シンとイタクァの間に割り込むようにして受肉する。
シンが呆気にとられていると、ナイアルラトホテップの頭部の触手の一本がシンの胴体を乱暴に巻き取った。
「うおっ……!?」
そのまま、ゴミでも捨てるような無造作な動作で、シンは再び駅舎の奥へと放り投げられた。
「痛っ……! クソ、助けてくれたのか?それとも邪魔なだけかよ!」
シンが転がり込んだ先で体勢を立て直す間、外では文字通りの「神々の争い」が始まっていた。
自身の腕を折られたイタクァは狂乱し、周囲の気温をマイナス百度まで急降下させる。床からは鋭利な槍のような氷柱が次々と突き出し、強風で浮かせた瓦礫や車を、弾丸の如き速度でナイアルラトホテップへと叩きつけ続けた。
だが、その嵐の中を「シン」が走る。
イタクァの三本指が、執拗に逃げ回る「シン」の胴体を、ついに背後から深々と貫いた。
勝利を確信したイタクァが、自らの指に刺さった少年を、餌として自らの巨大な口元へと運ぶ。
だが、その瞬間。
「シン」の顔が、熱を持った蝋のようにドロドロと崩れ、溶け落ちた。
「……ッ!?」
イタクァの単眼が驚愕に揺れる。
口元に運ばれたのは、少年ではない。シンに成り代わっていたナイアルラトホテップの分身だった。
溶けた顔の下から、口がなくても分かるほど、ペタクァの顔面を至近距離で嘲笑う。
そして、影から本物のシンが飛び出した。
その手には、ナイアルラトホテップの一部が凝固して形成されたナイフが握られている。
シンは叫びと共に、イタクァのもう片方の腕に組み付いた。
刃をその細長い腕に突き立て、体重をかけて一気に引き裂く。
氷の結晶が舞い、異形の叫びが上野の空を震わせた。
混沌の神の悪意と、少年の怒りが混ざり合い、初陣は血塗られたクライマックスへと加速していった─




