執行開始
翌朝、シンは慣れないベッドから這い出し、真っ先に共有スペースへと向かった。
昨晩の「大失態」を思い出すと顔から火が出そうだったが、それ以上に、あの神秘的な女性――宵宮に頼み込んで、邪神やこの世界のことを記した書庫の本を見せてもらおうという下心……いや、向上心があったからだ。
だが、いくら待っても、書庫の前に彼女の姿はなかった。
「……なんだよ、まだ寝てんのか?」
所在なくソファに座り込んでいると、背後から足音が近づいてきた。現れたのは、桼だった。
「なんだ、宵宮ならここにはいないぞ?今は外だ。緊急の任務にあたってる」
「任務? ……あんな綺麗な人が、あの化け物と戦いに行ってんのかよ」
「綺麗かどうかは関係ない。宵宮は、この組織……いや、国内にいる『神格者』の中でも、一、二位を争う実力者だ。お前が心配するようなことじゃない」
シンは驚きで目を丸くした。あの優雅な微笑みを絶やさない女性が、組織のトップランカー。意外すぎる事実に呆気に取られていると、桼は教鞭を執るような口調で言葉を続けた。
「…あぁ、そうか、知らないか…いいか、藍原。授業の時間だ。お前のように魂に邪神を宿し、世界を守るためにその力を使う者を、俺たちは『神格者』と呼んでいる。選ばれた、秩序の守護者だ」
「神格者……。仰々しい名前だな。じゃあ、あんな化け物の力を使って、悪いことする奴もいるのか?」
「ああ。神の力をテロや虐殺、私利私欲のために悪用する輩もいる。連中は『陋格者』と呼ばれ、俺たちの排除対象だ。……ま、今の子供みたいなお前には、まだ先の話だと思うが…」
桼は淡々と組織の定義を説明したが、シンの耳には半分も入っていなかった。
「……そうか。いないのか、宵宮さん」
神格者だの、陋格者だのといった重要な説明よりも、「美人がいない」という事実の方が今のシンには重かった。
ソファに深く沈み込み、口を半開きにして天井を仰ぐ。昨夜の変身の余韻もあってか、彼の脳内は「宵宮ロス」で完全に停止していた。
「おい、聞いてるか?………おい?」
脱力しきって「ぽけ~~っ」と虚空を見つめるシンに、桼は心底呆れたような溜息を吐き、握りつぶした空き缶をゴミ箱へ放り込んだ。
「……いつまで魂抜けた面してるんだ。宵宮の代わりとまではいかないが、聞きたいことがあるなら俺が答えてやる」
桼が、彼なりに気を利かせたのか、あるいは単に教えるのが義務だと思っているのか。意外にも「優しく」言い放った。シンはその言葉に、ようやく現実へと意識を繋ぎ止める。
「……あ、ああ、悪い。ちょっと考え事してただけだ」
シンは頬を叩いて気合を入れ直すと、一番の疑問を口にした。
「じゃあ、教えてくれ。昨日からお前たちが言ってる『位相』ってのは、結局なんなんだ? 空が赤くなったり、街から人が消えたり……あそこは、別の世界だったり?」
桼はソファの背もたれに体を預け、静かに語り始めた。
「位相とは、俺たちがいる『表の世界』と、神々の住まう『深淵』……そのちょうど狭間にある境界領域のことだ」
桼の説明によれば、位相が発生する理由は様々だという。
昨日のツァトゥグァのように、腹を満たすための狩場として、人間を誘い込むために無意識に作り出す場合。あるいは、神の力を悪用する『陋格者』が、神格者との戦闘や、目星をつけた人間を強制的に勧誘するために意図的に展開する場合。
「俺たち神格者も同様だ。表の世界で邪神の力を使えば、一般人は発狂し、文明は崩壊する。だからこそ、戦う時は自ら位相を作り出し、その中に敵を隔離する必要があるんだよ」
「……隔離、か。じゃあ、あの中でいくら暴れても、表には影響しないってことか?」
「ああ。位相の中でどれだけビルをぶち壊そうが、大地を割ろうが、表の世界に戻れば何も起きていない。壊れた建造物も、死んだ一般人もな。……もっとも、位相の中で食われた奴は、表の世界でも『最初からいなかったこと』になるか、不自然な失踪者として処理されるだけだ」
シンの脳裏に、掲示板に貼られていた一年生たちの写真が浮かんだ。
「便利……と言っていいのか分かんねぇけど、とにかく派手にやり合っても、後腐れはないってわけか」
表の世界の平穏を保つための、血塗られた裏庭。
その仕組みを理解したことで、シンはこの組織『Aegis』が背負っている役割の重さを、改めて実感することになった。
位相についての説明を一通り終えた後、シンは少し得意げな笑みを浮かべて桼の前に立った。
「おい、桼。見ててくれよ。俺も一晩中寝てたわけじゃねぇからな」
桼がソファで足を組み直し、興味なさそうに視線を向ける。その瞬間、シンは脳内で宵宮の姿を強くイメージした。
全身が黒い泥のように一瞬だけ揺らぎ、次の瞬間には、そこに完璧な美貌を持つ「宵宮」が立っていた。
「……化身の形成か。ナイアルラトホテップの権能を、もうそこまで引き出したか…すごいな」
桼は感心したように目を細めた。だが、次の瞬間、その瞳に「同じ男」としての冷徹な光が宿る。
「……高校生という多感な時期を考慮して聞くぞ。お前、その姿で変なことはしてないよな?」
ギクリ。
心臓を冷たい指で突かれたような衝撃が走り、シンの表情が凍りつく。
「な、ななな……何言ってんだよ! んなわけねぇだろ!お、おお、 俺をなんだと思ってんだよ!?」
シンは猛烈な勢いで変身を解き、顔を真っ赤にしながら否定した。どもりすぎて説得力は皆無だったが、幸いにも、それを追求される時間は残されていなかった。
ガタン!!
玄関口の重厚な扉が、蹴破らんばかりの勢いで開け放たれた。
シンが飛び上がるように振り返ると、そこには異様な二人組が立っていた。
一人は、高級そうな酒の瓶を片手に持ち、足元をふらつかせている女。そしてもう一人は、赤髪の男だ。
桼は溜息をつきながら立ち上がり、二人の元へ歩み寄っていく。
「おい、作戦帰りに飲んでくるのは勝手だが、少しは静かにしろ。…それと、あそこにいるのは昨日言った新入りだ。藍原シン、17歳の高校生」
その「高校生」という単語が、廊下に響いた瞬間、しゃっくりを繰り返していた女の動きが、ぴたりと止まった。赤髪の男も、信じられないものを見るように目を点にしている。
爆速。
まさに残像が見えるほどの速度で、二人はシンの目と鼻の先まで詰め寄ってきた。
「……ねぇ、君。今コイツが言ったこと本当? 君、何歳?」
酒の臭いをプンプンさせながら、女が顔を近づけてくる。
シンは何が何だか分からず、後退りしながらも「あ、ああ……17歳。高二だけど……」と答えた。
刹那、女と男が互いの顔を見合わせた。
「「わっっっっっか!!!!」」
鼓膜が破裂しそうなほどの大声が、共用スペースに轟いた。
シンの耳はキーンと鳴り、あまりの勢いに呆然と立ち尽くすしかなかった。どうやらこの組織において、17歳という若さはそれだけで異常事態のようだった。
「――あ、あほん。失礼、淑女としてあるまじき姿を見せたね」
さっきまで千鳥足だったのが嘘のように、女はスッと背筋を伸ばした。そして、どこで練習したのか、不自然なほど艶っぽく作った「セクシーな声(自称)」で、シンの手を取らんばかりの勢いで自己紹介を始めた。
「私は浅葱サキ。この組織の『華』とでも思ってくれればいいよ。困ったことがあったら、このお姉さんに何でも相談してね……坊や?」
微笑み、ウインクまで決めてみせるサキ。だが、いくら声を作ろうが、美貌を取り繕おうが、吐息と共に漂ってくる強烈な酒の臭いだけは隠しきれていなかった。
(……華っつーか、飲み屋のねーちゃんだろ、これ)
シンが引きつった笑顔を浮かべていると、隣にいた赤髪の男も、負けじと顎に手を当ててキメ顔を作った。彼はわざとらしく一度咳払いをすると、サキに対抗するように、低く響かせた「作り物のイケボ」を絞り出す。
「……フッ。俺は尖崎だ。よろしくな、若人」
名乗ったのは名字だけ。その低い声は、どう考えても無理をして喉を鳴らしているのが丸出しだった。
「……ちょっと尖崎。あんた、その声なに?ダサすぎ。普段のガサツな感じでいいじゃん」
サキが即座に冷ややかなツッコミを入れる。
一瞬で作り物のイケボが崩壊した尖崎は、「ダサ……」と呟かれた言葉が胸に突き刺さったのか、なんとも言えない、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでしまった。
「あー、もういい。藍原、この二人は放っておけ」
ソファに戻った桼が、こめかみを指で押さえながら呆れたように言った。
「見ての通り、酒浸りの女と、格好つけたがりの馬鹿だ。……だが、これでも『神格者』としての腕は確かだ。残念ながらだけどな…」
シンは、またしても増えた個性が強すぎる先輩たちを前に、「俺、本当にこの組織でやっていけるのか……?」という、昨日から何度目か分からない不安に襲われるのだった。
◇ ◇ ◇
「ねぇねぇ、シン君! 学校はどうなの? 好きな子とかいんの!? 告白したことある!? されたことは!?!?」
サキはもはや「お姉さん」の仮面を脱ぎ捨て、シンの両肩を掴んで激しく前後に揺さぶり始めた。彼女にとって、17歳の少年が語る甘酸っぱいエピソードは、どんな高級なカラスミよりも酒が進む「つまみ」らしい。グビグビと景気良く瓶を煽り、シンの返答も待たずにプライベートな領域へ土足で踏み込んでくる。
(……もういいや……)
シンは抗うのをやめた。抵抗すればするほど揺さぶりが激しくなることに気づいたのだ。彼は人形のように虚空を見つめ、表情を完全に消し、三半規管が悲鳴を上げるのをただひたすらに耐え忍んでいた。
一方、そんなシンの地獄をよそに、尖崎は桼と落ち着いた様子で話し込んでいた。
「――それで、あの子がそうなのか。例の『ナイアルラトホテップ』」
尖崎は、サキに揺さぶられて今にも中身をぶち撒けそうなシンを一瞥し、少しだけ表情を険しくした。
「ああ。間違いない。宵宮の鑑定も済んでいる」
「…え?あぁ…まぁ、『4番目』が他所に嗅ぎつけられる前に、こっちで囲い込めたのは良かった」
シンは、激しい揺れの中でその「4番目」という聞き捨てならない単語を拾い上げた。胃の奥からこみ上げてくる熱いものを必死に飲み込み、真っ青な顔で問いかける。
「……ハッ、ハァッ…………お、おい、4番目って、なん……だ、よ。俺は、番号札か……なにかかよ……」
問いかけられた尖崎は、少し意外そうにシンを見てから、腕を組んで答えた。
「ああ、そりゃあ『序列』の話だ。世界中に散らばっている邪神の適性者の中でも、あらゆる組織が喉から手が出るほど欲しがっている順位がある。その中に居るのがシンの『ナイアルラトホテップ』だ」
「序列……?」
「そう。実用性、殺傷能力、そしてその力がもたらす影響力。その全てにおいて、シンの力は最上位に位置している。……つまり、この世界の勢力図を塗り替えかねない『超高価な爆弾』なんだ。自覚はないだろうけど」
サキの揺さぶりが一瞬止まり、彼女はニヤリと笑ってシンの顔を覗き込んだ。
「そうそう。だから、変な虫がつかないように、お姉さんがしっかり『教育』してあげなきゃね〜〜!」
「……そういうのが、一番変な虫だって、気・づ・け・よ……!?」
シンは再び激しく揺さぶられ始め、意識が遠のく中で、自分の内に眠る「混沌」の価値が、想像以上に重いものであることを知るのだった。
それと同時に、限界がもう来ていた。シンの視界は千切れ雲のように歪み、胃の内容物が逆流の準備を整えている。
(……ダメだ、マジで出る……っ!)
必死の思いで視線を送り、桼に助けを求める。桼はその惨状を見て、口角をわずかに引き攣らせて苦笑いを浮かべた。だが、彼は助けに入るどころか、尖崎と世間話を続けながら、流れるような動作で共用スペースの奥へと姿を消した。
「……っ、見捨てやがったあいつ……!?」
絶望がシンを包み込んだ、その時。
ぴたり、とサキの手が止まった。
シンの首を絞めかねない勢いだった彼女の瞳が、獲物を見つけた獣のようにカッと見開かれる。
「……っ! この潮風と熟成が混ざり合った、至高の香りは……ッ!」
シンには微塵も感じ取れなかったが、廊下の先から漂う微かな「スルメ」の匂いを、彼女の鼻は正確にキャッチしていた。
「ヒャッホォォォーーーウ!! 酒の相棒きたぁぁぁ!!」
サキは叫ぶなり、シンを放り出して脱兎のごとく廊下へ消えていった。入れ替わるように戻ってきた桼が、手に持ったスルメの袋をひらひらと振って見せる。
(……これが『貸し借り』ってやつか。やり口が汚ねぇけど助かった……)
シンにとって、その瞬間の桼は後光の差す救世主に他ならなかった。
だが、安堵の時間は長くは続かない。
壁に据え付けられた、今まで電源すら入っていなかった巨大な黒いモニターが、突如としてノイズ混じりの映像を映し出した。
「……仕事だぞ、藍原。立て」
モニターにはデジタル地図が表示され、一箇所だけ、心臓の鼓動のように不気味に明滅する「赤い点」があった。その座標は――東京都、上野。
桼と尖崎の顔から冗談めかした色が消え、一瞬で「神格者」の鋭利な表情へと切り替わる。
「シンの初任務だな」
尖崎が短く告げ、二人は風を切るような速さで動き出した。
「お、おい! 待てよ!」
シンは慌てて後を追う。自分は決して足が遅い方ではない。むしろクラスではリレーの選手に選ばれるくらいには自信があった。……それなのに、追いつけない。桼と尖崎の背中が、まるで物理法則を無視しているかのように遠ざかっていく。
(ふざけんな……っ、俺だって『Aegis』の一員なんだよ……!)
シンは歯を食いしばり、肺が焼けるような呼吸を繰り返しながら、負けず嫌いの根性だけで二人の背中に食らいついた。
移動の最中、前を走る尖崎の声が飛んでくる。
「いいか、よく聞けシン。現場には無名の雑魚がうじゃうじゃ湧いてる。そいつらは全部殺すんだ。ただ、迷い込んだ一般人がいれば救助が最優先……それから、明らかに雰囲気の違う個体がいたら、絶対に自分から近づかないこと。分かったか?」
「分かった……分かったから少しは速度落とせよ!」
やがて、上野駅の付近に到達した瞬間だった。
耳の奥に、重く冷たい水の中に飛び込んだような「チャプン」という音が響き渡る。
――世界の色が、反転した。
頭上に広がるのは、腐敗した林檎のようなおぞましい赤。
道行く人々は消え、代わりに異形の影が街角に蠢き始める。
シンは膝をつきそうになるのを堪え、自分の内側に潜む「混沌」の気配を呼び覚ました。
藍原シン、17歳。
世界を揺るがす『4番目』の初陣が、血塗られた空の下で幕を開けた。




