『Aegis』
カードに触れた瞬間、真っ白だったカードの表面に、異変が起きた。
端の方から、まるで水面に落とした墨がじわじわと広がっていくような「黒」が染み出していく。シンはその不気味な光景に、伸ばした指を引っ込めることすら忘れて見入っていた。
やがて、墨の紋様は明確な形を結び、一つの「絵」を完成させる。
それを見た瞬間、宵宮の美しい瞳が驚愕に大きく見開かれた。
カードに描かれていたのは、人型でありながら決定的に人間ではない何かだ。
全身は闇を固めたように黒く、腕は三本。二本は肩から生えているが、最後の一本は左足の付け根あたりから、節を無視して不自然に突き出している。そして頭部……顔と呼べるものはなく、そこからは静止画であるはずのカード越しでも、ぬらぬらとうねる感触が伝わってくるような触手が三、四本、天を突くように生え揃っていた。
絵が完全に定着すると、カードの上部に、流麗だがどこか尖った書体のアルファベットが浮き上がった。
『Nyarlathotep』
「……はは、なんだよこれ。ドッキリかよ」
シンは乾いた笑い声を上げた。
あまりに現実離れした造形。ついさっき見たカエル野郎と同じカテゴリーの化け物が、自分の内側に潜んでいるなんて、冗談でも笑えない。
「はは、これ仕込みだろ? テレビの企画かなんかかよ。俺がこんな気味の悪い化け物なわけねぇだろ」
シンは必死に否定しようと宵宮に詰め寄るが、彼女はカードから目を離さないまま、震える声で答えた。
「……いいえ。ドッキリなんて安いものじゃないわ。これは貴方の魂の深淵に刻まれた……紛れもない『真実』の姿よ」
シンの背中に、嫌な汗が伝う。
彼はもう一度カードを見つめた。そこに書かれた、一見しただけでは読み方も分からない奇妙な綴りの単語。
「ニャ、ニャルラント……? ニャルラ……なんだこれ、なんて読むんだよ」
シンが言葉を詰まらせ、その単語を読み解こうとした、その時だった。
「「ナイアルラトホテップ」」
桼と宵宮の声が、完璧に重なった。
その名前が発せられた瞬間、部屋の空気が一気に数度下がったような錯覚に陥る。
千の貌を持つ神。這い寄る混沌。
シンはまだ知らない。自分の内に宿るその名前が、この狂った世界の理を塗り替える、最も狡猾で最も忌まわしい神の名であることを。
「悪いが、藍原。あいにく今日は帰してやれそうにない」
桼のその一言に、シンの思考が停止した。
「は? ……おい、冗談だろ? 門限過ぎてんだって言っただろ。親父に殺されるんだよ!」
「親への連絡はこちらで処理する。……それよりも大事な話だ」
桼はシンの焦りを冷淡に切り捨て、その瞳に鋭い光を宿した。
「お前には選択肢がない。そのカードに『邪神』が映し出された以上、もう一般人としては生きられない。……俺たちの組織に入れ。これは命令に近い勧誘だ」
シンの脳内で、猛烈な勢いで算盤が弾かれ始めた。
(……組織? 勧誘? もし入れば、この綺麗な宵宮さんと毎日顔を合わせられるのか? いや、でも待てよ。あのカエル野郎みたいな化け物と毎日殺し合いか? 冗談じゃねぇ。第一、俺には学校がある。制服だって教科書だってあんだよ。それに、家を出て一人で食っていけるだけの金も、住む場所も……)
シンの唇が「やっぱり入らない」と拒絶の言葉を形作る。だが、その言葉が外に漏れる直前、桼が被せるようにして告げた。
「報酬は、三日ごとに最低五万から。功績次第では一回で百万円まで跳ね上がる。もちろん、衣食住はすべてこっちで無償提供だ。お前の生活は、国が保証する最高ランクのそれになるぞ」
隣で宵宮が、慈しむような微笑みを浮かべて深く頷く。
「……は?」
シンは言葉を失った。
三日で五万? 下手すれば百万円? 高校生のバイト代がゴミ屑に見えるような額だ。おまけに家賃も食費もタダ。
「……百、万? 」
さっきまでの「退屈」が、金と美女と未知の力という、とんでもない劇薬によって一気に書き換えられていく。
「学校はどうするんだよ……俺、まだ高二なんだぜ…大事な時期だろ」
「『特殊な研修』という名目で、出席扱いに調整できるわ。貴方の日常は、私たちが守ってあげる」
宵宮が甘い声で囁く。その香りが、シンの理性をじわじわと麻痺させていった。
「……マジか。……断る理由、ねぇじゃんかよ」
シンは、手に持っていた真っ白な…いや、今は黒い化け物が描かれたカードを強く握りしめた。
退屈な日常が死に、狂気と欲望が渦巻く「裏側」の住人になった瞬間だった。
それから数分後。シンは、建物の外観からは想像もつかないほど長く続く廊下を、桼に連れられて歩いていた。
(……おいおい、空間が歪んでんのか? 外から見た時より、明らかに広すぎるだろ)
困惑するシンを余所に、桼は淡々と案内を続ける。
「ここが空いている個室だ。後で好きなのを選べ。あっちが共用スペース。で、その突き当たりの重厚な扉が宵宮のみが出入りを許されている特装書庫だ。許可なく近づくなよ、命が惜しければな」
脅しとも取れる忠告を受けながら、二人は開けた共用スペースに辿り着いた。そこには高級ホテルのラウンジのような広々とした空間が広がっており、桼は慣れた様子で重厚な革張りのソファに腰を下ろした。
「座れ。……さて、最低限のことを教えてやる」
シンも緊張した面持ちで、向かいのソファに深く身体を沈める。
「この組織の名は『Aegis』。世界を侵食する異形共から、この『位相』を守るための盾だ。……現在、お前を除いた加入人数は11人。お前が加わって、ようやく12人目。少数精鋭、と言えば聞こえはいいが、要は適性のある人間がそれだけしかいねぇってことだ」
「12人……。たったそれだけで、あの化け物共とやり合ってんのかよ。正気の沙汰じゃないな」
シンが呆れたように溜息を吐いた、その時だった。
「――へぇ、その12人目が、こんなひょろっとした子なわけ?」
背後の闇から、不意に人影が音もなく現れた。
シンの背筋に、氷を流し込まれたような冷たい感覚が走る。いつからそこにいたのか、気配すら感じさせないその何者かに、シンは勢いよく振り返った。
振り返った先にいたのは、見るからに神経を逆撫でするような、薄ら笑いを浮かべた男だった。
整ってはいるが、どこか爬虫類を思わせる冷ややかな顔立ち。その口の両端には、かつて大きく裂けたものを強引に縫い合わせたような、生々しい傷跡が刻まれている。そして何より異様なのは、ポケットから出されたその手だった。指の第一関節や第二関節、至る所に細い糸で何度も縫い合わされたような「ツギハギ」の跡があり、まるでバラバラの死体から指だけを繋ぎ合わせたかのような不気味さを放っている。
「……なんだよ、その顔」
「おい、冥。新入りなんだから最初からからかうなと何度も言ってるはずだ」
桼が低く冷めた声で注意するが、その男――冥は、聞く耳を持たない。それどころか、わざとらしくシンの顔を覗き込み、逆鱗のすぐ横を指でなぞるような、独特の苛立ちを誘う表情でニヤニヤと笑い続けた。
(……あぁ、マジで……ぶん殴りたい顔してるぞコイツ…!!)
シンは拳を握りしめ、怒りでわずかに震える声を絞り出した。
「……あ? お前こそ、その性格の悪そうな面、どうにかしろよ。……ていうか、その前に名乗るのが礼儀だろ」
その問いに、男は肩をすくめ、嘲笑を含んだ声で応えた。
「……垣見冥だ。よろしくね、ヒヨっ子くん」
冥はそう言うと、勝手に近くの椅子を引き寄せて座り込んだ。
それから桼が、これまでの経緯をかいつまんで説明し始めた。シンが「位相」に迷い込んだこと、ツァトゥグァに襲われながらも正気を保っていたこと、そして宵宮の鑑定であのカードに黒い墨が広がったこと。
「……で、コイツの魂に張り付いてたのは『ナイアルラトホテップ』だ」
桼がその名を告げた瞬間、シンは冥が驚愕するか、あるいは怯えるのではないかと予想していた。桼や宵宮があれほど警戒していた、最も忌まわしき神の名前。
だが、冥の反応は拍子抜けするほど淡白なものだった。
「へぇ~……。よりによって、あのアホみたいに性格悪そうなやつか。ま、お似合いなんじゃないの? 扱いを間違えて、寝首をかかれないように気をつけなよ」
冥はそう言い放ち、再びその「ウザイ表情」でシンを煽るように笑った。
シンは言葉を失いながらも、この『Aegis』という組織には、目の前の男を含め、まともな感性の人間が一人もいないのではないかという予感に、目眩を覚えるのだった。
だが、シンはこの一触即発の空気こそが「仲良くなるチャンス」だと自分を無理やり納得させた。同じ屋根の下、同じバケモノの力を使って戦う仲間だ。共通の話題があれば、この不快な空気も少しはマシになるはず。
シンは頬の筋肉をプルプルと震わせながら、精一杯の「笑顔」を作って冥に問いかけた。
「……お、お前の、その、憑いてる『邪神』ってのも、やっぱ凄いのか?参考までに教えてくれよ、仲間のよしみみたいなやつで……っ」
一瞬、冥は目をぱちくりとさせて静止した。シンのあまりにも無理のある笑顔と、不器用な歩み寄りに毒気を抜かれた――かのように見えた。
「…………ぷっ、ははっ!」
直後、冥の顔は一気に醜悪な嘲笑へと戻った。
「なんだその面! 気持ち悪すぎるだろ! 鏡見てから喋れよクソガキ! あと、教えるかバーーカ!!」
冥は腹を抱え、涙を流さんばかりに爆笑しながら、震える指をシンの鼻先に突きつけた。
「…………ッ!!」
ブチリ、と。
シンの中で、理性の最後の一線が弾け飛んだ。
恐怖も、門限への焦りも、邪神への困惑も、すべてが「こいつをぶん殴る」という純粋な殺意へと昇華される。
「お前っ……ふざけんなっ!!!! 待てコラッ! そのの指全部引っこ抜いてやる!!」
シンはソファを蹴立てて立ち上がり、冥に向かって飛びかかった。だが、冥は身軽な動作でひらりとそれをかわすと、廊下の奥へと逃げ出す。
「おー怖い怖い! さすがナイアルラトホテップ様だねぇ、沸点が低すぎてマジ笑える!!! ほらほら、鬼さんこちら、手の鳴る方へ!!のろますぎるだろ青髪野郎!!」
「逃げんじゃねぇ!! ぶっ殺す!!」
怒声と足音が静かな『Aegis』の廊下に響き渡る。
それを、背後のソファに座ったまま見送る桼。その額には、隠しきれない青筋がピキピキと浮かび上がっていた。
「……どいつもこいつも、少しは静かにできねぇのか……」
桼の手の中で、空になったスポーツドリンクのペットボトルが、みしり、と不気味な音を立てて握りつぶされた。その隣では、いつの間にか顕現したハスターが桼をなだめるように、優しく背中を撫でていた。
結局、冥との追いかけっこは、業を煮やした桼が放った「ハスター」の重圧によって、二人が床に這いつくばる形で強制終了した。
シンは案内された空き部屋の中で、最も広い角部屋を選んだ。
扉を開けると、そこには生活に必要な最低限の家具が揃っており、埃一つ落ちていない。スイッチを入れれば明るい光が灯り、窓の外には――偽物か本物か判断もつかない――穏やかな夜の街並みが見える。
シンはベッドに腰を下ろし、別れ際に桼から告げられた言葉を反芻した。
『いいか、お前の中にいるのは単なる「才能」じゃない。この世の理から外れた「神」の断片だ。……まずは自分の邪神と向き合い、対話しろ。力を貸してもらえるところまで辿り着かなきゃ、次の「位相」で死ぬのはお前だぞ』
「向き合う、ねぇ……」
シンは立ち上がり、洗面所の鏡の前まで歩いた。
鏡の中には、髪を乱し、疲労と興奮で充血した瞳をした、どこにでもいる17歳の少年が映っている。
シンは自らの手を見つめ、深呼吸をした。そして、ようやく脳に定着したその忌まわしい名前を、静かに口にする。
「……ナイアルラトホテップ」
一度。
そして心の中で、何度もその名を繰り返す。
その瞬間、部屋の空気が凍り付いた。
視界がわずかに歪み、鏡の中の自分の背後にある闇が、不自然に濃くなったような気がした。
『――ク、クク……ハハ……』
それは、鼓膜を震わせる音ではなかった。
耳では到底理解できない、不快な金属音と泥を捏ねる音が混ざったような不協和音。だが、なぜか脳には直接、その「意味」が濁流のように流れ込んでくる。
『人の子よ。力が欲しいのか。私は、お前という卑小な人間が、苦しみ、もがき、絶望の底で指を噛み切る姿を……いずれ特等席で見せてくれると言うのなら、それでいい』
声――のような何かが、シンの脊髄を冷たく這い上がる。
『私に愉悦を見せてみろ。その代わり、我が興を削ぐような真似は禁ずる。……精々、壊れるその瞬間まで私を楽しませろ』
一瞬のことだった。
気づけば、部屋は元の静寂に戻っていた。鏡の中に映る自分の後ろにも、不自然な闇はない。
だが、シンの全身には、これまで経験したことのないような凄まじい鳥肌が立っていた。今の声は、幻聴などではない。自らの魂の最も深い場所に、確実に「何か」が居座っていることを理解させられた。
「ハッ、ハァッ、ハァッ……!」
恐怖。
そして、それと同じくらい強烈な、未知の力への高揚感。
ドクドクと、耳元で鳴り響くほどの心臓の鼓動。
シンは鏡の中の自分を見つめ返し、震える手で顔を覆った。
退屈だった日常は、もう完全に死んだのだ。
自らの内に潜む「混沌」が、今、確かに目を醒ました。
ドクドクと暴れる心臓をなだめるように、シンは深く息を吐いてベッドに倒れ込んだ。
(……一筋縄じゃいかねぇのは分かってたけど、あんなのが俺の中にいるのか…)
ナイアルラトホテップ。あの「這い寄る混沌」の能力とは一体何なのか。桼のように触手を操るのか…?
……そんな真面目な思考を巡らせようとしたはずが、ふと、脳裏にあの宵宮の顔が浮かんだ。
(……いや、それにしても宵宮さん、マジで綺麗だったな。あのサラサラな髪、それにあのいい匂い……。あんな美人と毎日会えるなら、この組織も悪くないんじゃ――)
「――って、何考えてんだ俺! 死にかけて頭沸いてんのか!!」
シンは慌てて首を振った。今はエロい妄想をしている場合ではない。
自らの力を確かめるべく、再び鏡の前へと歩み寄る。ハスターが触手なら、自分もまずはそこからだろう。背中に意識を集中させ、何かを「出そう」と踏ん張ってみる。
「……ん、んんっ……!」
だが、何も起きない。触手一本生えてこない。
おかしい。絶対におかしい。何かが噛み合っていない。
そう思って鏡を凝視した瞬間――シンの思考が凍りついた。
鏡の中に、青い髪の少年はいなかった。
そこに立っていたのは、薄緑色の長い髪を揺らし、驚愕に目を見開いた……宵宮だった。
「…………え?」
思わず漏れた声は、鈴を転がすような、艶のある女性の声。
シンは信じられない思いで自分の手を見下ろした。
そこにあるのは、ゴツゴツとした少年の手ではなく、白く、細く、指先までしなやかな「女の手」だった。
「うっ、嘘だろ……。これ、俺……なのか?」
鏡の前で恐る恐る体を動かす。鏡の中の美女も、全く同じ動作で自分を見つめ返してくる。
変身。
ナイアルラトホテップ――「千の貌を持つ神」の能力の片鱗。
驚愕が一段落すると、シンの心の中に、男子高校生特有の「邪悪な好奇心」がむくむくと鎌首をもたげた。
(……へへっ。中身は俺だけど、見た目はあの宵宮さんなんだよな?)
鏡の中の美貌が、絶対に本人はしないであろう、下卑た「ぐへへ……」という笑みを浮かべる。
目の前には、本物と同じ膨らみ。
(……ちょっとくらい、いいよな? 自分の体なんだし、減るもんじゃない……)
シンはゴクリと唾を飲み込み、震える指先をその胸元へと伸ばした。
あと数センチ。禁断の領域に触れようとした、その時――。
「……っ! 何やってんだ俺ぇぇぇ!! 情けねぇ、情けなさすぎるだろ!!!」
猛烈な自己嫌悪が襲いかかり、シンは叫びながら頭を抱えた。
その瞬間、体の感覚がぐにゃりと歪む。
宵宮の姿が、足元からドロドロと黒い泥のように溶け始めた。だが、それは不思議とベタベタすることもなければ、床を濡らすこともない。実体のない影が霧散していくように、液体一つ残さず消えていく。
気づけば、鏡の前には再び、顔を真っ赤にした青髪の少年が立っていた。
「……ハァ、ハァ……。能力の確認、だよな。そう、これは訓練だ。……決して、変な目的じゃない。断じて」
自分に言い聞かせるように呟いたシンの声は、情けなく震えていた。
初変身の代償は、神の力の片鱗を掴んだ達成感よりも、自尊心への深いダメージなのだった。




