執行終了
上野駅周辺でシンとナイアルラトホテップが「イタクァ」と死闘を繰り広げている頃、そこから少し離れた東上野の空域では、尖崎が別の地獄を味わっていた。
巨大な翼竜を思わせるその怪鳥は、まさに風そのものだった。重力を嘲笑うかのような挙動で、尖崎の手が届かない絶妙な高度を旋回する。物理法則を無視した加速で死角へと回り込むと、尖崎が迎撃の体勢を整えるより早く、その強靭な足爪が彼の背中を鷲掴みにした。
「――ッ! 頭に来る鳥だな……!」
尖崎の悪態も虚しく、怪鳥は獲物を吊り下げたまま、垂直に近い角度で上空へと急上昇を開始する。尖崎の能力は、対象に直接触れることで成立する。それを理解しているかのように、怪鳥は執拗に彼の腕が本体に触れないよう、極端に不自然な姿勢で彼を拘束していた。
だが、尖崎の瞳に諦めの色はなかった。
「……触れないなら、出せばいいだけだ。『ウヴハシュ』!」
尖崎が叫ぶと同時に、彼の体内から噴出した血液が空中で凝固し、巨大な血の球体へと変貌した。その球体は怪鳥の巨体を包み込むように膨れ上がり、次の瞬間、内側に向かって無数の鋭い棘となって突き刺さった。
これこそが、尖崎の宿す邪神、吸血の神『ウヴハシュ』の真髄。
駅の雑魚どもを爆砕させたのも、触れた箇所から相手の体内に急激に自身の血液を流し込み、許容量を超えた内圧で「体内爆発」を引き起こした結果だった。
血の棘に貫かれ、怪鳥の悲鳴が空に響く。しかし、この怪鳥もまた、一筋縄ではいかない。
傷口から溢れる血を風の刃へと変え、至近距離にいる尖崎の肉体を情け容赦なく切り刻んでいく。
「が……はっ、おいまて、どこまで行く気だよ……!?」
怪鳥は墜落するどころか、狂乱したようにさらに羽ばたきを加速させた。
雲を突き抜け、空の色が赤から漆黒へと塗り変わっていく。大気圏の境界を突破した瞬間、怪鳥の周囲に渦巻く風は音の壁を易々とぶち破り、その速度はマッハの領域へと達した。
希薄になる酸素、全身を襲う凄まじい衝撃波と摩擦熱。
尖崎を掴んだまま、怪鳥は成層圏を超え、星の海へと続く絶望的な高度まで彼を連れ去ろうとしていた。
大気圏外に近い、星すら見える静寂の高度。そこで怪鳥は、急激にその翼を広げて空気を掴み、物理法則を裏切るような唐突さで静止した。
その衝撃で、尖崎を掴んでいた足爪が無造作に放される。
「……っ、ハ、ア……ッ!」
重力に引かれ、尖崎の体は一転して地上へと向かって真っ逆さまに突き落とされた。摩擦熱で全身が焼かれるような苦痛。視界の端で、役目を終えたと言わんばかりに怪鳥がどこかへと飛び去っていくのが見えた。
落下速度は加速し続け、瞬く間に赤い空の下、上野のビル群が眼下に迫る。
尖崎は極限の集中力で体内の全血液を操作した。ビルの屋上が目視できる距離まで近づいた瞬間、身体から大量の血液を噴出させ、自らの体の下に巨大な「液体のクッション」を形成する。
そのままビルの側面に叩きつけられる寸前、血のマットが衝撃を殺し、彼は窓ガラスを派手にぶち破ってオフィスフロアへと滑り込んだ。
「ガハッ、ゴホッ……! ……クソ、死ぬかと思った……」
割れたガラスの破片を払い、尖崎が立ち上がろうとした、その時。
視界の端に、遠くからこちらへ向かってくる「巨大な影」を捉えた。
(――嘘だろ、あいつ、あのまま加速して……!)
それは、先ほど大気圏外で別れたはずの怪鳥だった。
奴は自由落下の速度をそのまま水平移動に変換し、マッハを超えた速度で「弾丸」となってこちらへ突っ込んでくる。
『バードストライク』。
本来は飛行機が鳥に衝突する事故を指すが、今のこれは、あの巨体が超音速で肉体に叩きつけられるという「一撃必殺の処刑」に他ならない。当たれば、骨の一片すら残らずミンチになるのは明白だった。
回避は不可能。警戒を怠った自らの慢心に、尖崎が死を覚悟したその瞬間――。
──闇の中から伸びた数本の触手が、尖崎の胴体を強引に絡め取った。
直後、彼は凄まじい速度で隣の建造物へと引きずり込まれる。
一瞬前まで彼がいたビルが、怪鳥の突撃を受けて爆発するように粉砕された。
「……フゥ、フゥ……助かっ、た……」
「……間一髪だったな。いつまで寝てる、尖崎」
顔を上げると、そこには不機嫌そうに触手を収める桼が立っていた。
尖崎は膝をついたまま、ビルを突き抜けて再び旋回を始めた鳥を睨みつける。
「……あの鳥イカれてる。……悪い、桼。助かった」
「礼はいい。それより、位相の主は見つかったか。状況を報告しろ」
桼の問いに、尖崎は荒い息を整えながら、先ほど別れた少年のことを思い出した。
「……ああ。上野駅の近くにイタクァが現れた。……今、シンが一人でそいつを止めてる」
「…………今なんて言ったんだ? 」
桼は自分の耳を疑うように、二度聞きした。
あのナイアルラトホテップを宿しているとはいえ、実戦経験ゼロの高校生に位相の主を一人で任せているという事実に、桼の額にはこれまでで最大級の青筋が浮かび上がった。
桼の声は、怒りを通り越して地を這うような冷徹さを孕んでいた。だが、今は説教よりも先に片付けるべき「掃除」がある。桼は視線を、再びこちらへ向かってくる超音速の怪鳥へと向けた。
「お前は本当に…」
桼の背後から、これまでとは比較にならない太さのハスターの触手が十数本、爆発的に噴出した。
突進してくる怪鳥を正面から受け止めるのではなく、その巨体を網のように絡め取る。凄まじい衝撃波が周囲を襲うが、桼は微動だにせず、そのまま触手を力任せに振り回した。
右のビルの壁に叩きつけ、休まず左の建造物へと叩き伏せる。往復する破壊の衝撃に、怪鳥の骨が砕ける音が響き渡る。仕上げと言わんばかりに、桼は触手を地面へと垂直に叩き落とした。
そこへ、尖崎が即座に追撃を加える。
尖崎が放出した血液が、地面と怪鳥の翼、そして足をガチガチに固める拘束具へと変貌した。さらに、血液を微細な刃として鳥の体内に潜り込ませ、内側から全神経を寸断して動きを止める。
逃げ場を失った怪鳥の頭上に、桼の腕が肥大化した「ハスターの槍」が振り下ろされた。
――グシャリ、と。
厚い頭蓋骨を容易く貫通し、脳髄を破壊する。
ピクピクと痙攣したあと、空中の支配者だったはずの怪鳥は、ただの肉塊へと成り果てた。
「ゲームセットだ……。おい尖崎、死ぬ気で走れ!藍原一人でどうにかなる事じゃないぞ!」
「はいはい、分かってるよ!」
桼は尖崎を怒鳴りつけながら、弾かれたように上野駅へと向かって駆け出した。
一方その頃、上野駅。
位相の主である「イタクァ」は、かつてない屈辱と混乱の中にいた。
目の前にいるのは、か弱き人の子のはずだった。だが、イタクァが巨大な拳を振り下ろしても凍らせても、そこにいるのは「シン」ではない。
殴りつけたはずの場所から、ドロリとナイアルラトホテップの異形が這い出し、圧倒的な破壊力を持つ触手で逆にイタクァの腕を粉砕する。
ならばと、イタクァは別の場所を走る少年の姿を、今度こそ本物だと断定して強風を叩きつけた。
だが、そのシンは衝撃を受けた瞬間に、パチンと水風船のように弾けて消え去った。
イタクァの死角――その影から、いつの間にか「桼」の姿をした男が飛び出していた。
もちろん、それもシンが変身した姿だ。
シンは桼の能力を模倣するように、影から生み出した触手を鋭い刃へと変える。
迷いのない一閃。
鋭い切断音が響き、イタクァの残された細長い腕が、付け根からボトリと地面に落ちた。
「……ハッ、ハァッ、ハァッ!!」
変身と分身を繰り返し、脳が焼き切れそうな感覚を味わいながらも、シンの瞳には狂気じみた愉悦が宿り始めていた。
ナイアルラトホテップの力が、彼の負けず嫌いな性格と最悪の形で噛み合い、戦場を「千の貌」を持つ少年が支配する悪夢へと変えていた。
──桼と尖崎が現場に辿り着いた時、そこにあったのは勝利の余韻ではなく、静かな「終焉」だった。
位相の主であったイタクァは、まるで燃え尽きた炭に息を吹きかけたかのように、その巨体を灰色の塵へと変え、空気に溶けて消えていく。それと呼応するように、周囲を埋め尽くしていた異形も、ナイアルラトホテップの残滓も、そして世界を覆っていた禍々しい赤色も、ひび割れた鏡が砕けるようにして霧散した。
――次の瞬間、三人は上野駅前の「日常」へと放り出された。
「……っ、終わった、のか……?」
シンが荒い息を吐きながら立ち尽くす。
周囲には、先ほどまで消えていたはずの社会人や、遠足帰りらしき子供たちの喧騒が戻っていた。だが、平和な往来の中で、返り血と泥にまみれ、衣服をボロボロにした三人の姿はあまりに異様だった。
「見て、あの人たち……喧嘩? 警察呼んだほうがいいんじゃ……」
「やだ、血が出てるわよ。関わらないようにしましょう」
通行人たちの冷ややかな視線と囁き声が刺さる。桼は一瞬、シンの戦果に驚愕の眼差しを向けたが、すぐに深く溜息をつき、感情を押し殺した。
「……行くぞ。目立ちすぎる」
桼は周囲の視線を一顧だにせず、悠然と歩き出した。シンもまた、全身の筋肉が悲鳴を上げるのを感じながら、重い足取りでその背中を追った。
組織の拠点に帰り着くと、そこには相変わらずの光景が広がっていた。
「おかえりぃ~……。スルメ、もうなくなっちゃったぁ〜〜……」
共用スペースのソファでは、サキが未だに酒瓶を抱え、呂律の回らない声でくだを巻いている。尖崎は「死ぬかと思った……」とだけ言い残し、血生臭さを洗い流すために早々にシャワー室へと消えていった。
静かになった部屋で、桼がシンの前に立ち、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……藍原。正直に言えば、お前が死んでるか、良くて戦意喪失していると思ってた。戦闘経験ゼロの、ただの17歳の子供が、位相の主を単独で仕留めるなんて……『Aegis』の歴史でも滅多にない」
桼の言葉は、お世辞ではない「正当な評価」だった。
「ナイアルラトホテップ……あの『4番目』がそれだけ規格外ってことだろうが、それを使いこなしたのはお前の意地だ。……今回の件は、宵宮にそのまま報告しておく」
「……っ、マジで!? 宵宮さんに!?」
先ほどまでの疲労が嘘のように、シンの顔が輝いた。
(宵宮さんに報告……ってことは、『シン君、すごかったわね。ご褒美に、何か望みはあるかしら?』なんて言われちゃったりして……!?)
脳内に広がるのは、宵宮に優しく微笑まれ、頭を撫でられるという甘美すぎる妄想。
死線を潜り抜けたばかりの少年は、口角をだらしなく下げ、鏡の前で見せたあの「ぐへへ……」という、台無しな笑みを浮かべていた。
「……面に出すぎだぞ、クソガキ」
桼の冷めたツッコミさえ、今のシンには最高の祝福のように聞こえていた。
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