『Ensis』
――その日の夕方。
拠点には、重苦しい空気が立ち込めていた。
シンと桼が持ち帰ったファミレスの映像を共有し、火に関連する邪神を宿すあの男――『犯人』が敵なのか味方なのか、あるいは第三の勢力なのかについて、冥、サキ、尖崎、そして宵宮を交えた話し合いが行われていた。
腕を組んでモニターを見つめていた尖崎が、重々しく口を開く。
「……最近、『血晶』を集め回っている奴らの噂を聞いたばかりなんだ。もし、映像のこの男がその一味なんだとしたら、事態は一刻を争う。見つけ次第、すぐに処理しなきゃいけないかもしれない」
「ん、けっしょう……?」
聞き慣れない不穏な単語に、シンは思わず呟くように聞き返してしまった。
すると、隣の席にいた冥がふっと鼻で笑い、底意地の悪い視線をシンに向けて言い放つ。
「は? お前そんな基礎知識も知らないで、よくここまで生きてこられたね。終わってんなぁ、新人は……ぷっ」
「……っ」
シンの額に青筋がピキリと浮かぶ。言い返してやろうと拳を握りしめたが、正面に座る宵宮の視線に気づき、辛うじて理性を保って飲み込んだ。
宵宮は困ったように小さく苦笑すると、シンの無知を責めることなく、優しく説明を始めた。
「無理もないわ、シン君。血晶は一般の神格者が滅多に扱えるものではないから。……彼の言う『血晶』というのは、邪神の召喚、もしくは完全な復活に捧げるための、生贄の代替物となる最悪の結晶のこと。」
「生贄の、代わり……」
「ええ。位相の深部で、極めて稀に自然生成される物質。ただ、この血晶にはもう一つの用途があるの……もしそれを無理やり体内に取り込めば、己に宿る邪神の力を、短期間で爆発的に高めることができる」
そこまで言うと、宵宮は少しだけ表情を曇らせた。
「ただし、それはあまりに莫大で不純なエネルギーなの。体内に取り込んだ場合、大半の人間は肉体と精神がその拒絶反応に耐えきれず、見るも無惨に死に至る。決して安易に手を出していいモノではないのよ」
「力を強制的に引き上げる代わりに、ワンチャン死ぬ……」
シンの脳裏に、あのファミレスで高校生を一瞬で炭に変えた男の、異常な火力がよみがえる。
もし、あの男が「血晶」によって自らの邪神の力をブーストさせているのだとしたら――その脅威は、サキを追い詰めた羅刹をも凌駕しているかもしれない。
シンは静かに唾を飲み込み、迫り来るであろう新たな死闘の予感に、身を震わせた。
シンは二日前の記憶を手繰り寄せ、意を決して全員にその話を切り出した。
「あの……1つ気になってんだけどさ、ファミレスの件が起きる前くらいに…ハンバーガー食ってたら財布忘れて困ってた四人組に会ったんだよ」
シンは言葉を選びながら、あの時の光景を詳しく語った。強者の風格を漂わせる黒髪、何かと突っかかる水色の髪、とにかく騒がしい金髪の女、そして苦笑いする橙色の髪の男。
最後に、水色の髪の男から告げられた言葉。
『顔は覚えた、一回だけ助けてやる』
その言葉を口にした瞬間、それまで深刻な顔で議論していた部屋の空気が、まるで真空状態になったかのようにピタリと止まった。全員が顔を見合わせ、重苦しい沈黙が支配する。
やがて、一番に口を開いたのは桼だった。彼は呆れたように、深く長い溜息を吐く。
「……那雲じゃないのか、ソイツ。間違いないな」
「那雲……? 桼の知り合いなのかよ?」
シンが口をあんぐりと開けて聞き返すと、桼は短く首を横に振った。
「知り合いっていうか……俺たちAegisとはほぼ姉妹組織でありながら、常に競い合っているライバル組織。Ensisの構成員の一人だ。那雲は相当な戦闘狂だぞ」
桼は冷ややかな目で、天井を仰ぐ。
「……金髪の女はいなかったか?」
「ん……?」
シンは記憶の引き出しを勢いよく開く。
金髪の女。――いた。確実にいた。それどころか、会計をしてやった直後に背後で「ありがたや~~~!!!」と奇声を発して拝み倒してきて、死ぬほどウザかった記憶が鮮明に蘇る。
「……いた。むしろ、いっちばん覚えてる。なんかめっちゃ『ありがたやーー!!』とか言われて、耳が痛くなるくらい……」
シンが答えると、桼は「確定だな」と短く吐き捨てた。
「那雲に、あの頭の悪い女まで……Ensisの連中がなぜそんなことをしていた……??しかも、よりによってお前と接触するなんてな」
ただの財布忘れの騒動だと思っていた四人組が、実は組織の枠組みをも揺るがすライバル組織の人間だったという事実。シンの背中に、先ほどとは別の意味で冷たい汗が流れた。
『一回だけ助けてやる』。あの水色の男が放った言葉の重みが、先程よりも何倍にも膨れ上がってシンにのしかかってくる。
「……嫌な予感しかしないわね。」
宵宮が静かに呟いたその言葉に、誰も反論できなかった。血晶、そしてEnsisとの接触。すべてのピースが、最悪のパズルへと組み上がろうとしていた気がした。
――同じ頃、とある寂れた神社の境内。
夜の静寂に包まれた拝殿の縁側で、羅刹はバキバキと大きな音を立てて背骨を鳴らし、目の前の人物に盛大な愚痴をこぼしていた。
「あーあ、マジで最悪。あの藍原シンってガキだけなら、確実に殺せてたんだよねぇ。なのにさぁ、横にいた女がめっちゃ毒だの蟲だの使ってきて、激キショだったわけ。思い出しただけでも鳥肌が立つ」
羅刹は自分の首筋をさすりながら、歪に口角を吊り上げる。
「……まぁでも、手応えはあったし。次に会ったらあの女も殺せる。いや、絶対に殺す。俺は生まれた時から運命に嫌われてるけど、その分、戦うたびに成長し続けてるからね」
その愚痴を静かに受け止めていたのは、暗がりに腰を下ろし、優雅に足を組んでいる男――安居院だった。
「ヘマだけはするなよ、羅刹。私も君には期待しているんだ」
安居院がそう告げた直後、彼の布越しの視線がふっと、闇に沈む赤黒い鳥居の下へと向けられた。
その古びた鳥居をくぐり、一人の男が足音も立てずに境内へと入ってくる。
「相変わらず、確信の持てない主観だけで喋ってんだな、羅刹。まぁ……お前のその『成長性』だけは、確かにGREATだがな」
男は退屈そうに大きな欠伸を噛み殺しながら、二人のいる拝殿へと近づいてきた。
羅刹はあからさまに片眉を下げ、心底うっとうしそうに深い溜息を吐き出す。
「……ハァ。俺は根拠より、自分の身体で感じた感覚的な事実を言ってるんだよ。いちいち突っかかる必要ある?京極?」
現れた男――京極司は、ファミレスを地獄に変えたあの冷酷な瞳で羅刹を一蹴した。
「それが凄くバカみたいで、BADだって言ってんだよ」
「なにそれ、俺とやりたいってこと?――」
一触即発の空気が流れた瞬間、足を組んだままの安居院が、静かに京極へ視線を移した。
「司。少なくとも私には、他人の価値や物事をいちいち評価して悦に浸っている君のその悪癖のほうが、よほどバカげているように見えるがね」
安居院の冷ややかな一言に、羅刹の顔が一瞬で勝ち誇ったような笑みに変わる。
「あはは! 言われてやがんの!」
「はぁ……」
京極は不機嫌そうに舌打ちをすると、懐から取り出したタバコに火をつけた。紫煙を夜空に吐き出しながら、もう片方の手をポケットに突っ込む。
そして、無造作に取り出されたのは――ドクン、ドクンと、不気味に脈を打つ赤黒い結晶だった。
「またすぐ味方されたからって調子に乗るなよ、羅刹」
京極は羅刹を睨みつけながら、その禍々しい結晶を安居院の前へと差し出した。
「例の『血晶』だ。神覚者共を殺した時に、ポケットから出てきた。」
「ふむ……素晴らしい」
受け取った血晶の輝きを見つめる安居院に対し、京極はタバコをくわえたまま、ふと核心を突く問いを投げかけた。
「で? じわじわ血晶なんて集め回って、一体何に使うつもりだ。ただでさえ劇薬だろ、これ」
安居院は血晶を親指の腹で撫でた。その口から漏れ出た計画は、この世界の破滅を意味するものだった。
「――『クトゥルフ』をこの世に迎え入れ、受肉させる。そして……収集した全ての血晶を、一度にすべて飲み込ませるんだ」
神に、さらなる神のエネルギーを強制的に注ぎ込み、絶対的な概念へと至らせる。
安居院の狂気に満ちたその言葉は、冷たい夜の空気に溶け、静かに世界を侵食し始めていた。




