邂逅
京極は拝殿の床に腰を下ろして胡座をかくと、くわえタバコのまま安居院の言い方に不満げに眉間に皺を寄せた。
「……受肉させるって前から言ってるがよ、そもそも邪神ってのは俺たちの魂に宿ってるもんだろ。わざわざ肉体を与えるだの何だの、理屈がわからねぇ」
安居院は手の中の血晶を見つめながら、小さく息を吐いた。
「神覚者たちが『器』と称するそれ――今、君たちが邪神の力を宿している状態は、邪神にとってはただの『檻』に過ぎないんだ。私の言う受肉とは、本来の意味を持つ真の『器』へ、魂を完全にねじ込ませるということだ」
安居院は昏い笑みを浮かべ、夜の闇を指差した。
「鉄格子のない牢屋を想像してくれればいい。その差が、肉体の主導権を人間と邪神のどちらが握るかを左右させる。受肉した邪神は、もはや人間の精神に縛られることはない」
京極は煙を吐き出し、つまらなそうに呟いた。
「『新世界』を作るのに、随分と面倒な手間がいるんだな」
その言葉は、冷たい夜の空気にじわりと溶けて消えていった。
――その後日。
シンたちは朝から、例のファミレスで事件を起こした「火を使う男」――もとい、京極の足取りを追うため、調査を開始していた。
しかし、桼には本部から別の急を要する任務が入ったらしい。桼は資料をまとめながら、部屋の奥に向かって声をかけた。
「おい、入ってこい」
桼に呼ばれて部屋の奥から姿を現したのは、一人の黒髪の男だった。
「初めましてだよね??藍原シン君で合ってる?」
「あ、はい……」
男はシンの顔を見るなり、人当たりの良い笑みを浮かべてガシッと握手を求めてきた。桼が淡々と男を紹介する。
「こいつの名は『笹浪奏』。…こいつはまぁ、ある日いきなり邪神の力が使えなくなった男だ」
「は?どういうこと?」
シンの目が見開かれる。奏は苦笑いしながら、自分の頭を掻いた。
「いやぁ、使えないっていうかさ、邪神にどれだけ話しかけても、居留守を使われてるみたいに反応すらしなくなったんだよ。だから今は、こうして簡単なのやってるワケ」
シンはそれを聞き妙な親近感を覚えつつも、軽く自己紹介を済ませ、奏と共に京極の調査資料を漁り始めた。
しばらく黙々と書類をめくっていたが、ふとした拍子に奏が雑談を振ってきた。
「そういえばシン君って趣味とかある? 俺さ、映画鑑賞がめちゃくちゃ好きで、特に『大根伯爵』ってのに最近ハマっててさぁ!!」
「……だいこんはくしゃく?」
シンの頭の中に、マントを羽織った巨大な大根が虚しく佇む映像が浮かび上がった。あまりにもド直球なB級映画すぎるタイトルの破壊力に、シンは思わずその場でズッコケそうになった。
「あ、あはは……面白そうな映画だな先輩……」
「でしょ!? 今度DVD貸すから見てみ!」
どこか抜けたところのある新しい仲間、笹浪奏。そんな彼との奇妙な共同調査が進んでいく。
シンは山積みの資料の中からようやく決定的な情報を掴み取った。
「……先輩、これそうじゃね?『京極司』」
シンが書類を指差す。資料に並ぶ彼の過去は、ファミレスでの残虐な犯行を裏付けるかのように荒れ果てていた。学生時代はかなりの問題児で、売られた喧嘩は買うどころか、逆に執拗に挑発して相手を文字通りフルボッコにしていたという。過去には少年院への収監記録すら残されていた。
「よし、これでひとまず桼たちに報告できる。戻ろうか、シン君」
奏が資料をまとめて立ち上がり、二人がこの情報を持ち帰ろうとした――まさにその時だった。
窓の外を見た奏が、突然口をあんぐりと開けたまま、固まった。
「………うーわ、那雲じゃん……」
奏が震える指で窓の外を指差す。シンが視線を追うと、そこには雑踏の中を気怠げに歩く、特徴的な水色頭の男の姿があった。
ライバル組織『Ensis』の危険分子。今度はあの騒がしい仲間たちを引き連れておらず、完全に一人だった。シンは(あの時の貸しもある、情報を引き出すなら丁度いい)と判断し、すぐさま奏を促して外へと飛び出し、那雲の元へと近づいた。
「おい、ちょっと待ってくれ」
シンの声に、前を歩いていた那雲が足を止めて振り返る。
那雲はまず、シンの隣に立つ奏の顔を見て、心底嫌そうな、露骨に眉をひそめる表情を作った。それからシンに視線を移し、怪訝そうに首をかしげる。
二秒、三秒……。沈黙の後、那雲の目がわずかに見開かれた。
「あぁ……ハンバーガー屋の」
ようやく思い出したらしい那雲は、煩わしそうに深く大きな溜息をつくと、シンを睨みつけた。
「なんだよ。……あの時は一回だけ助けてやるって言っただろ。今すぐ使いたい用事でもあるのか?」
シンが口を開くより早く、隣の奏が那雲の着ている服の袖から覗く腕の傷に目を留め、呆れたように口を開いた。
「那雲さぁ……また新しい傷作ってんじゃん。さすがは戦闘で快楽を得てる狂人なだけあるよ。少しは自重すれば?」
思ったことをそのまま口に出した奏に対し、那雲は激昂する――のかと思いきや、そうではなかった。この二人、どうやら過去に何度もこうしたやり取りをしているらしく、那雲はキレるというよりも、完全に呆れ返った様子で鼻で笑った。
「はっ、相変わらず無能に成り下がったくせに口だけは回るんだな笹浪。強い奴と殺り合ってる時が一番生きてる実感が湧くんだから仕方ねぇだろ」
悪びれる様子もなく、むしろ堂々と開き直る那雲。その圧倒的な戦闘への執着と強者の風格を前に、シンは改めて、この水色頭の男が一筋縄ではいかない存在であることを肌で実感していた。
――一方、その頃。
組織の上層部との重苦しい定期会議を終えた宵宮は、私有車のドアを閉め、山奥にある薄暗い廃村へと足を踏み入れていた。
かつて人が暮らし、そして捨て去られた場所。人間の負の念や郷愁が色濃く残る土地ほど、邪神の類は好んで現れ、位相を歪ませる。実際、この廃村で異常なエネルギーが観測されたため、今回の彼女の任務先となるはずだった。
しかし、宵宮は周囲を見渡し、小さく眉をひそめる。
気配がない。この場所を侵食していたはずの邪神たちが、まるで塵一つ残さず「一掃」されているのだ。
――サク、と背後から微かな足音が響いた。
宵宮が静かに振り返る。そこに立っていたのは、ポケットに手を突っ込み、狂気を孕んだ瞳でこちらを見据える男――京極司だった。
彼はこの廃村で位相を展開し、血晶を探すついでに、もし『Aegis』の最高戦力である宵宮が釣れるなら一度手合わせしてやろうと、最初から待ち伏せていたのだ。
「……へぇ」
宵宮の姿を捉えた瞬間、京極は大きく目を見開き、恍惚とした笑みを浮かべて口角を釣り上げた。
「おいおい、最高にGREATじゃねぇか…」
宵宮は取り乱すこともなく、細い腰にそっと手を当てながら、冷徹な視線を投げかける。
「…シン君たちが言っていた、ファミレスで一般人を焼き殺した陋格者ね。……一応聞いておくけれど、あなたは私たちの『敵』? それとも『味方』? もし敵だと言うなら、今のうちにお家へ帰った方が身のためよ」
その余裕に満ちた言葉に、京極の脳裏に不快な火花が散る。京極は元より、宵宮の圧倒的な実力という「噂」など毛頭信じていなかった。どうせ弱者どもが勝手に恐怖し、過大評価で祭り上げただけの女だと見縊っていたのだ。
「帰る前に、1口くらい味見したっていいだろ?」
京極が爆発的な速度で間合いを詰める。至近距離。彼は一切の躊躇なく、宵宮の身体を包み込むように凄まじい業火を放った。
炎が宵宮を完全に燃やし尽くし、さらにその肉体を容赦ない前蹴りで蹴り飛ばす。京極の猛攻は止まらず、追撃として無数の火の弾丸を全方位から撃ち込んだ。
ドガガガガガ、と廃村の家屋が激しく炎上し、崩れ落ちていく。
辺りには、パチパチと火が爆ぜる音以外、何も聞こえなくなった。
「ハッ……所詮は噂か、萎えたぞ、心底。」
京極は完全に興が冷めたように深い溜息を吐くと、背を向けて歩き出そうとした。あまりにも呆気ない幕切れに、鼻で笑う。
――カタ、と崩れた瓦礫の奥から、静かな物音がした。
「……あ?」
京極が不審に思い、振り返る。
立ち込める黒煙を割って姿を現したのは、衣服の煤ひとつすらついていない――完全なる『無傷』の宵宮だった。
「な、に……っ!?」
京極が驚愕に目を見開く。その刹那、宵宮の瞳が彼を捉えた。
「その程度で勝てると思ってたの?」
宵宮が美しく細い指先を、真っ直ぐに京極へと向けた。
彼女の指先に、超高密度の「何か」が歪な球体となって収束していく。それが放たれた瞬間、周囲の空間そのものが、まるで叩き割られた鏡のようにバキバキと音を立ててひび割れた。
視覚で認識した頃には、その『空間の崩壊』は既に京極の目の前にまで迫っていた。
「しまっ――」
本能的な死の恐怖が京極の全身を駆け巡る。彼は咄嗟に両腕を交差させてガードの体勢を取ると同時に、自身の腕の筋肉を一部分だけ瞬時に焼き、その熱刺激によって肉体を極限まで硬化・凝縮させた。さらに、宿る邪神の力を一点に集中させ、全エネルギーを防御へと回す。
――耐えきれるはずがなかった。
着弾した瞬間、京極の巨体は弾丸のように激しく吹き飛んだ。廃村の敷地を突き抜け、道路のガードレールを紙切れのように引きちぎり、その遥か下にある崖の底へと真っ逆さまに落ちていった。
轟音を立てて崖底の岩場に叩きつけられた京極は、凄惨な呼吸を漏らしながら、自分の両腕を見て戦慄した。
あれだけの絶対的な防御を施したというのに――彼の両腕には痛々しい空洞の『穴』が開き、皮膚には空間のひび割れがそのまま転写されたかのような、悍ましい亀裂の跡が深く刻み込まれていた。
「が、はっ……! ……ハハ、マジのPERFECTじゃねぇか…!」
京極は血を吐きながら、暗い崖底から廃村の崖上を見上げる。そこには、追撃する価値すらないと言わんばかりに、冷然と見下ろす宵宮の影があった。力の絶対的な格の違いを、京極はその身をもって知ることとなった。
――タッ、と、衣服の擦れる軽やかな音。
宵宮は崖の上から重力を無視したような足取りで舞い降り、京極のすぐ近くの岩場へ着地した。その足元を中心に、世界が軋むような不気味な静寂が広がる。
「ねぇ、貴方――『並行世界』って知ってる?」
傷一つない美しい顔で、宵宮は淡々と問いかける。
「例えば今の攻撃。直撃して動けないあなたもいれば、辛うじて躱したあなたもいる。人間が選択をし、結果が生まれる度に、無限の可能性へ向かって枝分かれしていく別の時間軸……。そんな無数の並行世界の中で、唯一『すべてに共通している場所』があるの。それが、この『空間』よ」
宵宮が再び、すっと右手の指先を突き出す。
「もしもね。その無数に存在する並行世界を、この一点の空間に無理やり重ね合わせ続けて、空間そのものに過剰な負荷を与え続けたら、どうなると思う?」
――パキパキ、パキ、と。
彼女の指先に、先ほどよりもさらに禍々しく歪んだ『球体』が収束していく。それに呼応するように、周囲の空気、大気、ひいては存在している現実そのものが、硝子細工のように音を立てて白く割れ始めた。
「異なる結果を持つ世界が強制的に重なることで、そこには致命的な『矛盾』が生まれる。そして、世界はその矛盾を拒もうとするのよ」
宵宮の冷徹な宣告と共に、二発目の崩壊が放たれた。
「次は当たらねぇぞ、宵宮ぁ!!」
京極は死に物狂いで地を這い、直撃の軌道からギリギリで身体をねじ切るようにして躱した。しかし、掠めただけの空間の余波が彼の全身を侵食する。衝撃波すらない。ただ、世界が拒絶した矛盾の歪みが、京極の衣服を、そして露出した皮膚をバキバキと鏡のようにひび割れさせていった。
京極の瞳に狂犬のような意地が宿る。彼は激痛に叫びながら、宵宮の前後左右、退路を完全に断つ四方向から、同時に爆発的な火柱を立ち上がらせる。
廃村の崖底を昼間のように照らし出す、超高熱の紅蓮の檻。逃げ場などどこにもない。京極の放った最高火力の炎が、宵宮の身体を完全に包み込んだ。
しかし。
猛烈に燃え盛る爆炎のその内側から、鈴の鳴るような、酷く落ち着いた声が鼓膜へと響いてくる。
「今この瞬間にも、『それ』は生まれ続けているわ」
「何……っ!?」
「この炎に直撃して灰になった私。そして、――この炎に当たらなかった私。だったら、私は『後者の世界』を選択して、この現実に引き寄せればいいだけ」
ごうごうと渦巻く炎が、まるで最初から幻影であったかのように、彼女の輪郭を避けて霧散していく。
炎の渦から歩み出てきた宵宮は、髪の毛一筋すら焦げていない、完全なる『無傷』だった。
「……ハハッ…マジか、PERFECTどころじゃねぇぞ…」
その常軌を逸した力を前に、京極の口から乾いた笑いが漏れた。強者による過大評価? バカどもの噂話? 違う。目の前にいるのは、世界の理そのものを手玉に取る本物の化物だ。
「じゃあね、おやすみなさい」
三度目の、空間の崩壊が目の前まで迫る。
避ける猶予も、防ぐ術も、もう京極には残されていなかった。
世界が反転するような轟音と共に、崖底の森の奥深くが、空間ごと激しく抉り取られた。大気が爆ぜ、土煙と割れた世界の残滓が激しく舞い散る。
宵宮は京極がいたはずの森の深淵を一瞥すると、パッと両手を払い、衣服についた僅かな塵を落とした。
追撃の手を緩めたのではない。彼女にとって、これ以上の戦闘は時間を割く価値すらないと判断されただけだ。宵宮は静かに背を向けると、何事もなかったかのような足取りで、再び廃村の上へと戻っていった。
――そんなこんなで、半死半生となった京極は安居院によってどうにか回収され、隠れ家としている廃ビルの中に転がされていた。
安居院が施した処置のおかげか、時間経過によるものか、抉られた両腕と全身のひび割れを苛んでいた激痛が、ようやく引き始めていく。
床に背中を預けて荒い息を吐く京極の元へ、待ってましたと言わんばかりに羅刹がすり寄ってきた。羅刹は京極の爛れた肩をわざとらしくガシッと掴み、これ以上ないほど愉快そうに歪んだ笑みを浮かべる。
「あはは! いつもみたいに『BAD』とか言いなよ、ほら! あ、もしかして、今この状況のお前自身が一番BADだから、恥ずかしくて何も言えなかったりするわけ?ダッッセ」
「……チッ」
京極は鋭く睨みつけ、肩の羅刹の手を振り払おうとしたが、満足に力が入らない。
そんな二人の様子を冷ややかに見つめていた安居院が、呆れたように低く息を吐き、京極に向けて淡々と事実を告げた。
「京極。思い上がるのも大概にすることだ。彼女に宿る邪神は――『ヨグ=ソトース』。時空の制限を受けず、すべての並行世界を見通す万物の要だ。君のその程度の『炎』で、勝てる相手のわけがないだろう」
安居院から突きつけられた絶対的な邪神の格差に、京極はぐうの音も出なかった。
自分が手も足も出ずに敗北した理由が、単なる実力差ではなく、存在の前提からして違うバケモノだったという事実。圧倒的な悔しさと屈辱が胸の奥でドス黒く渦巻き、京極はただただ歯を食いしばってイライラと爪を立てるしかなかった。
「ねぇねぇ悔しい? どんな気持ち? 自分のほうがバカみたいでBADだったってやっと気づいてくれた?お〜〜い?」
そんな京極の心中など知る由もなく、羅刹はここぞとばかりにニヤニヤと顔を近づけ、ネチネチとした挑発をいつまでも楽しそうに続けていた。




