三章 3
3
けたたましい音を立てて皿が砕けた。
(……やば)
青い小花模様の皿は母のお気に入りだ。器と揃いのもので、皿だけ割れてしまったら数が合わなくなる。
「――…」
少し迷ってから、エルトは皿の破片を集めた。
「痛て」
顔を顰め、破片で切ってしまった指先を咥えながら破片を積み上げて、無事な方の手で破片に触れて術式を展開する。まだ繕理術は習っていないが、父の仕事をいつも見ているので真似事のようなことはできる。
破片は時が戻ったかのように皿の形に戻り、繋ぎ合わさった。さすがに完璧とは行かずうっすら傷跡が残っている箇所があるが、目を凝らさなければ気付かないだろうと、そっと棚に戻そうとしたとき、
「エルトくん? 何か割れた音がしたけど大丈夫?」
「あ……リリアねえちゃん」
食堂で配膳をしていた女性が顔を出し、エルトは直した皿を咄嗟に背中に隠した。それを見て眉を寄せたリリアが、つかつかと近付いて来て、後退りして壁際に逃げようとするエルトから皿を取り上げてしまった。
「いや、これは、その」
取り戻そうと背伸びするエルトが届かない場所に皿を掲げ、リリアは子細にそれを眺めた。割れた様子がないのが不思議なのか頻りに首を捻っていたが、傷痕を見付けたらしく息を飲んで瞠目した。何度か確かめるように傷痕をなぞってから、リリアはエルトを見下ろした。
「……直したの?」
「えっと……」
「繕理術、だね」
もう誤魔化すのは無理だと思い、エルトは上目遣いにリリアを見上げた。
「……母さんには内緒にして」
リリアは皿をエルトに返しながらかぶりを振る。
「駄目。ちゃんと正直に言うこと」
「ええー」
「アイリーンさんは、失敗は怒らないよ。下手な嘘つくほうが怒られると思うな」
「そうかなあ……こないだの洗濯紐の時は物凄く怒られたけど」
「あれは悪戯だからでしょう? あんな複雑に結ばれたら、アイリーンさんでなくたって怒るよ」
「父さんは芸術的だって褒めてくれたのに」
「ああ、だから先生も一緒に怒られてたのか。――とにかく、きちんと謝るんだよ」
「はぁい」
エルトが素直に返事をすると、リリアは頷いて表情を和らげ、エルトの手を取った。破片で切った指先を、治癒術で治してくれる。
「ありがと」
「どうしたしまして。本当はこれくらいなら、魔法使わない方がいいんだけどね」
「そうなの?」
「わたしが使えるのは、怪我をした本人の力を使って治す術だから――」
リリアは幼いエルトにもわかるように言葉を選びながら、治癒術の仕組みを説明してくれた。
「そっか、あんまりほいほい使わない方がいいんだ。まあ、おれは魔法あんま使えないけど」
「でも、繕理術は使えるじゃない。見事に直ってる」
皿を棚に戻し、リリアはぽつりと呟いた。
「……やっぱり、血なのかな」
「え?」
リリアはぱっとエルトを見て、誤魔化すような笑みを浮かべた。言うつもりはなかった言葉が、思いがけず転がり出てしまったとでも言うように。
「なんでもない。――さ、アイリーンさんに謝りに行こう。一緒にね」
「……うん」
リリアが独立して塔を出て行ったのは、この半年後のことだった。
夜中にふと目を覚ますと、寝台の傍らの椅子に腰掛け、本を読んでいる人影が視界に入った。覚醒しきらない頭で、エルトはぼんやりと名を呼ぶ。
「……アねえちゃん……?」
呂律も怪しい呟きが聞こえたか、人影が動いて覗き込んできた。
「目が覚めたか」
囁かれた声は記憶にあるものとはまったく別で、エルトは一気に覚醒した。
(……俺、今なんつった?)
鎧戸の隙間から入ってくる月明かり以外には光源のない薄闇の中、エルトには相手の輪郭しか認識できないが、相手にはエルトが見えているらしい。伸びてきた手は的確に額に触れ、やんわりと前髪を撫でつけた。
「大分下がったようだが、まだ熱いな。痛むところはないか? フラムを呼ぼうか」
額から手が離れたので、エルトは小さく首を左右に振った。乾いて張り付いたようになっている喉から、苦労して声を出す。
「いい……寝てるだろ。痛いとこはないよ」
「それならいいが。夜明けまで時間があるから、もう少し眠るといい」
眠気など吹っ飛んでしまったエルトは、目を閉じることはせずに呟いた。
「……灯り」
「うん?」
「灯り、点けて。あんたは見えるかも知れないけど、俺は見えない」
「だが……」
「水が欲しい」
ルインは少々迷ったようだったが、やがて枕元に淡い光が点った。見下ろしてくる双眸は、僅かな光を吸収して鮮やかに赤い。枕元でごそごそと動く気配があって、吸い飲みが差し出される。こんなもの、うちにあっただろうかと思いながら、エルトはそれを受け取って少しだけ口唇を潤した。
自分は一体どうしたのだったかと、記憶を辿って眉を顰める。どんなに思い返しても、村の中で唐突に途切れている。
「俺……、どんくらい眠ってたんだ?」
「三日と半分くらいだな」
「そんなに……?」
エルトは以前、十二時間連続で睡眠を取ったことがあるが、それはいろいろなことが重なって丸二日ほど眠れなかった後のことだ。三日以上一度も目を覚まさないなどあり得るのだなと、エルトは妙なことを感心した。
「フラムが、骨は接いであるから、くっつくまで絶対安静にと」
「……骨?」
「左手首と右膝、あとは肋が何本か。胸骨は放っておくと危険だから治癒術で治したと言っていたな。……特に膝は、大事にしないと後遺症の恐れがあると」
「あー……それは困る」
「きちんと治すためにも、大人しく寝てくれ」
「わかった」
眠れる気はしなかったが、右足が元に戻らないのは困るのでエルトは大人しく目を閉じた。しかし、しばらくじっとしていても眠気は訪れない。
(やっぱ無理だよな……一回思いっきり目ぇ覚ましちまったし。三日も寝てたってんだから、これ以上は無理だろ)
よくよく感覚を辿ってみれば、身体の至る所に包帯が巻かれ、左手首と右足はしっかりと固定されているようだった。薬か魔法のおかげか、痛みはないのでもそもそと動ける範囲で身動ぎを繰り返していると、やがて頭上から小さく笑う気配がした。
「子守歌でも歌おうか」
笑みを含んだ声で言われ、エルトは目を開けて顔を顰めた。
「子供扱いすんな。赤ん坊じゃあるまいし、横で歌われたら気になってますます目が冴えるっつの」
眠らないことを咎められるかと思いきや、ルインは柔らかな声音で問うてくる。
「きょうだいはいないのでなかったか?」
「は? きょうだい?」
聞き返してから、聞こえていたのかとエルトは気まずい思いで視線を泳がせた。そういえばルインは耳がいいのだった。
「……俺は一人っ子だよ。リリア……ねえちゃんは本当の姉さんじゃない。父さんの弟子だった人で、四年……五年かな、前まで塔にいた。――寝ぼけたんだ。忘れてくれ」
それもこれもあんな夢を見てしまったからだと胸中で歯噛みしていると、是とも否とも答えず、ルインは軽く首をかたむけた。
「繕工は、弟子ではなくエルトが継いだんだな」
思いがけないことを言われてエルトは目を瞬く。
繕理術師を目指していたのは、エルトではなくリリアだったのは間違いない。
「リリアねえちゃんは、師匠である父さんより魔法が上手かったけど……、繕理術だけ使えなかったんだ」
父ファツェルの苦労を見て育ったエルトは、繕工になるつもりはまったくなかった。けれど、リリアが繕理術のみを扱えないと知り、繕工を諦めて塔を出ると聞いたとき、エルトは父を継ぐことを決めた。だから、唐突だった父の継承宣言も、いきなりすぎると怒る振りをしながら受け入れた。
才能も努力も明らかにリリアのほうが勝っていて、エルトには血しかない。そのことに複雑なものがないわけではないし、今でも割り切れたわけではないが、いつか、この形すらあやふやな疑問に自分なりの答えを出せるなら、繕工を続けるのも悪くはないと思う。
「今は結婚して子供もいて、隣の国で治癒術師やってるよ。たまに手紙くれる」
「そうか。息災なら何よりだ」
頷いたルインがどこか悲しげに見えて、エルトは姉代わりだった人の話をしたことを後悔した。妹を亡くしたばかりの――己が手にかけたばかりのルインの前でする話ではなかった。
(俺が人質にとられなければ……)
ルインは困ったような笑みを浮かべて軽くエルトの頭を撫でた。
「エルトのせいじゃない。悪いのは私だ」
頭の中を正確に読まれたような気がして、エルトは髪に触れたままのルインの手を退ける。考えたことが顔に出てしまったらしい。
「なんでだよ。あんただって、散々な目に遭っただろ」
「……少し、考えたんだ。私は、今までのつけを払わされているのだろうと」
「ツケ?」
ルインには似合わない俗っぽい言い回しを思わず聞き返せば、彼は首肯した。
「私は元来、面倒臭がりなんだ。自己中心的と言い換えてもいい」
「そうは見えないけど」
「そう見えないよう振る舞っているだけだ。基本的に自分のことしか考えない」
今、反論しても無駄だろうと、エルトは無言で先を促す。ルインはここではないどこかを見ているような目で話した。
「これはおそらく、血だな。兄も、私も、妹も、形は違えど自己中心的なのは変わりない。私は、知らないところで何が起きようとも、自分さえ煩わされなければいい。だから、私を参戦させたがった兄に見つからないように、隠れ住むことにした」
「それは、戦が嫌いだからだろ?」
「ああ。だが、本当に嫌なら兄を止めれば良かったんだ。戦なんてばかげたことはやめろと。だが、それをすれば衝突することはわかっていたし、説得するのも刃を交えるのも面倒だから、逃げるという一番楽な方法を選んだ。――私が兄を止めていれば、兄が死ぬことも、妹がおかしな気を起こすこともなかったかも知れない」
そこまで聞いて、エルトはようやく納得した。
(ルインの兄さんは……先代の西王は病死じゃなく、エレクトラに殺されたのか)
人間との戦に目を向けていた長兄を、エレクトラは隙を突いて殺した。そしてルインが西王を継承すると、今度は次兄を亡き者にして自らが王になろうとした。自分が殺されかけても妹に刃を向けられなかったルインと正反対だと、エルトは唇を引き結んだ。
独白のようにルインが呟く。
「せめて、有事の際には兄に着くと明言していれば……実際はどうあれ、抑止力にはなっただろうに」
「……結果なんて、誰にもわかんねえよ」
ルインは伏せていた目をエルトに向けた。二つの紅玉を見上げてエルトは言う。
「あんたが兄さんを止めたって、兄さんは東と戦をしたかも知れない。あんたと兄さんが手を組んでも、エレクトラは殺しに来たかも知れない。全部、やってみなきゃわからないことだ」
「……しかし、少なくとも私がこちらに来なければ」
「だーかーらー」
どうしても自分を悪者にしたいルインを、エルトは苛々と遮る。
「そういう仮定は無意味だっつの。そんなこと言ったら、俺だってあの女に捕まらなければ、村は壊されなかったし、ルインが妹を殺すことなかったんだってことになるだろ」
エルトは精一杯明るい声で、冗談に聞こえるように祈りながら言った。茶化していないと罪悪感で潰れてしまいそうだった。
「それは違……」
「ほらな、違うって言うだろ?」
せめて自分が諦めずに少しでも抵抗できていたら、シエルたち三人が殺されることも、村が焼かれることも、ルインが妹を殺めることも、回避できたのではないだろうか――どれだけ否定されても、この仮定は消えない。だから、エルトがルインに告げるのは願望だ。どうしようもなかった、避けようがなかったのだと思いたかった。意味がないと理解しつつも、後悔をやめることはできない。
ルインやフラム、村人たちは、エルトを責めることはせず、慰め、気遣ってくれるのだろう。それが一層、辛い。
「俺も今そういう気分なんだ。もうあんたはここにいるんだからさ、無意味なことはやめろよな。面倒臭がりなんだろ」
束の間ルインが真顔で見つめてきて、すべて見透かされてしまうような気がしたが、エルトは視線を逸らせなかった。
やがて、ルインが目元を和ませて唇に笑みを刷く。
「……そうだな」
同意が得られてエルトは少しだけ安堵した。エルトを安心させるために頷いてくれたのかも知れないとちらと考えたが、気付かなかった振りでルインに甘えてしまうことにする。
「うん。――ってなわけで、この話は終わりだ。反省するなら次に繋げろって父さんが言ってた」
「いい父上だな」
「放浪癖さえなけりゃな」
今どこにいるのかも定かではない両親は、気が向けば春に帰ってくるだろうし、旅先で手紙の一通も寄越すだろう。
話を変えようと、気になっていたことを尋ねることにする。
「なあ」
「うん?」
「俺が寝てる間、雪積もったか?」
質問が唐突に思えたのだろう、不思議そうにしながらもルインは答えてくれる。
「多少積もったが、動けなくなるほどではないな。昨日は一日晴れていたから、随分融けただろう」
「そっか、よかった」
雪に埋まっていないのならまだなんとかなるかもしれないと、エルトは頷いた。ルインが小首をかしげる。
「何かあるのか?」
「ちょっとな」
焼かれた村だけは、何があっても直さなければならないが、言えば絶対に止められるだろうから、言葉を濁してエルトはもう一度話を変えた。
「やっぱり歌ってよ。あんたの歌、聞いてみたい」
ルインは目を見開き、次いで困ったように眉を下げた。
「……言葉の文だ。私はそもそも、歌はあまり得意ではない」
「ええー。俺ガキだから、子守歌ないと眠れなーい」
「さっきと言っていることが矛盾しているぞ」
「細かいことは気にすんな。歌って歌って」
戸惑った様子で視線を彷徨わせていたルインは、ふと何かを思いついた様子でエルトの額の上に片手を翳した。その掌に、ぽっと青白い光が点る。見覚えのあるそれに瞠目し、しまったと思ったときにはもう遅い。
「な……ずり……」
急激に襲いかかってくる睡魔のせいで揺らぐ視界の向こうで、ルインが笑っている。
「いつかのお返しだ。ゆっくり眠れ」
「くっそ……てめ、覚えて、ろ……」
頭の芯が麻痺するような感覚に抗うことはできず、エルトの意識はすとんと闇に落ちた。




