三章 2-2
* * *
「……ル。……エル」
「う……」
何度か呼ばれて、シエルはゆっくりと瞼を持ち上げた。寝ている間に鉛とすり替わったのかと思うほど重い。
「よかった、シエル、気がついたのね」
「メイ、ア……?」
覗き込んでいる少女の名をぼんやりと呼び、唐突に記憶が繋がってシエルは跳ね起きた。途端に全身が軋み、痛みで固まる。
「っ……痛ててて」
「急に起きちゃ駄目! どこがどうなってるのか、わからないんだから」
「……ほんとだ」
顔を顰めて痛みをやり過ごし、シエルは指から順に関節を曲げる。異常がないことを確認しながらメイアに尋ねた。
「トロンは?」
「そっちよ。……トロンが庇ってくれたんだわ」
トロンはシエルの隣に寝かされていた。目立った怪我はないようだが、双眸は閉ざされ、頬は紙のように白い。胸が微かに上下しているので、死んではいないらしい。
何気なく視線を滑らせ、すぐ近くの地面が大きく抉れていて、シエルは瞠目する。これほどの爆発を間近で受けて無事だったのは、メイアが言うようにトロンが守ってくれたからだろう。四人の中で、フラム以外に魔法を扱えるのはトロンだけだ。
「そうだ、メルヒオールは? あと、あの女……魔王の妹も」
「わからない。あたしたちが死んだと思って行ったんだと思うけど……」
シエルたちが見た時点で、繕工の少年はまだ生きていた。人質ならすぐには殺されないだろうが、命があるからと言って無事とは限らない。助けに行ってやりたいが、こちらも満身創痍の上、居場所がわからないのではどうしようもない。
「魔王は何やってんだ、あんなの野放しにして」
「逃げたんじゃないの? 魔王を捜してる感じだったもの。もー、身内の始末くらいつけなさいってのよね」
忌々しげに吐き捨てたメイアは、すぐに表情を戻して首をかしげた。
「それよりシエル、どう? 動けそう?」
「ああ」
「なら、トロンを運びましょう。村に戻って手当しないと」
「塔に向かった方がよくないか? フラムは治癒術使えるだろ」
「そっか。そうね、あの村小さいから治癒術師がいるかどうか……」
「シエル! メイア!」
メイアの言葉を遮るように、聞き覚えのある声が響いた。シエルとメイアは同時に頭上を仰ぐ。
『フラム?』
三人の前に降り立ったのは、ルインと、彼に抱えられたフラムだった。地面に降ろして貰ったフラムはルインに礼を言い、駆け寄ってくる。
「どうしたの? 魔王と一緒なんて」
メイアの問いに、フラムはルインを気にしながら答える。
「エルトさんが攫われて、それを追いかけて来たんです」
「やっぱり? 無理矢理連れられてるっぽかったけど」
「見たのか。どこへ行った」
突然ルインに遮られ、メイアは目を見開いて彼を見た。驚いたことが屈辱だとでもいうように顔を顰め、半ば愚痴のように言う。
「見たも何も、あたしたちも危なく殺されるとこだったわよ。ったく、身内ならちゃんと躾なさ……」
「どこへ行ったと訊いている」
返事ではなく静かな怒声をぶつけられて、メイアの肩がびくりと跳ねた。これにはシエルも内心驚く。――ルインが感情を露わにするところを初めて見た。武器を向けられても一方的に攻撃されても困ったように応戦するばかりで、どうにか戦闘を回避しようとしていた魔王とは別人のようだ。
「し……、知らないわよ、あんたが見てないんなら、東じゃないの? 西から来たみたいだし……ってちょっと!」
皆まで聞かず、ルインは足下を蹴った。逃すものかと彼にフラムがしがみつき、シエルは思わず目を見開く。こんなに大胆な行動に出る子だったろうか。
ルインは眉を寄せてフラムを見た。
「放せ、フラム」
「嫌です! シエル、メイア、必ず戻ってくるからトロンをお願い!」
諦めたか、時間が惜しいと思ったか、それ以上の問答はせずにルインはフラムを抱え直して飛び去っていった。それをぽかんと見送り、シエルはメイアを見る。さっぱり状況が飲み込めない。
「一体、何がどうなってるんだ?」
「あたしに聞かないでよ。……なんか、東は危なそうね。仕方ないわ、トロンは繕工の塔に運びましょ」
巻き込まれたのだからそれくらいいいだろうと言うメイアに同意し、シエルは目を閉じたままのトロンを抱き起こした。
* * *
目を開けると、村が燃えていた。燃え盛る火炎の中を人々が逃げ惑い、建物が焼け落ちる。
「……!?」
何が起きたのかわからず、エルトは目を見開く。思わず声を上げようとして全身が軋み、吸い込んだ呼気は呻きに代わった。
「ふふ、やだ、あれ見て。あれくらいの水じゃ絶対消えないわよ。わからないのかしら? ふふふ」
楽しそうに笑い声を上げているのはエレクトラだ。彼女は村を吹き飛ばすのではなく、火を放つことにしたらしい。エルトはようやく、自分が短い間気を失っていたらしいと理解した。相変わらず片腕だけで吊り下げられており、最早どこがどう痛いのかわからない。
「なんて……ことを……」
半ば呆然と呟くと、エレクトラは顔の高さまでエルトを持ち上げ、何故そんなことを訊くのかというふうに首をかしげる。
「あら、起きたの? あたし、燃えるのを見るのが好きなの。炎ってとっても綺麗よね」
本当に楽しそうに言われて、エルトは愕然とした。まだ分別のつかない子供が蟻の行列を踏み潰して面白がっている様子が今のエレクトラと重なり、彼女にとっては本当に、人の命などものの数ではないのだと思い知らされる。
(塔の結界に引っかからないわけだ……)
エレクトラには害意も悪意もない。ルインを捜し出して亡き者にしようとしているのは、負の感情によるものではないからだ。今も、ただ純粋に破壊を楽しんでいる。壊すのも燃やすもの己の娯楽のため、それ以上でも以下でもない。そのことを、エルトはやっと理解した。同時に、絶対にわかり合えないということも。
「ねえ、東ってこういう場所が多いんでしょ? もし兄様が来なくても、少しこっちで遊ぶのもいいわね。西は飽きちゃったわ。みんな逃げちゃうんだもの、つまんない」
返事をする気力もなく、エルトは無言でエレクトラを見返した。彼女も反応を期待していたわけではないらしく、村へ視線を戻す。
「ここが燃え尽きるのと兄様が来るのと、どっちが早いかしら。そうだわ、競争するのも面白そうね」
燃える村と逃げ惑う人々を見下ろし、エルトは己の無力を呪う。同時に、シエルたちが魔物を恨み、復讐に固執する気持ちがわかってしまった。この理不尽を、暴虐を、許すことなどできない。
このまま殺されるなら、一矢なりとも報いてやろうと、まだ動く右手を握りしめたとき、二人を取り囲むように人影が現れた。さきほどの魔人たちが追いついてきたらしい。
「こちらにいらっしゃいましたか」
エレクトラは彼らを見回して頬を膨らませた。
「しつこいったら。あたしを怒らせたいの」
「お言葉ですが」
「お小言はいいからこの子持ってて。疲れちゃった」
言いながらエレクトラはエルトを無造作に放る。それを、やはり無造作に男が受け止め、衝撃が全身の傷に響いてエルトは悲鳴を押し殺した。痛みで吐き気すら覚える。気が遠くなりかけて、強く目を閉じる。次に意識を失えば、二度と目覚めないような気がした。
刹那、
「散れ!」
ルインの声が響き、エルトは目を開いた。衝撃波が地を薙いで炎がすべて消える。ほぼ同時に耳元で風切りの音がして、エルトを支えていた力が唐突に消えた。落ちる、と思う間もなく別の腕に支えられている。
「……?」
エルトの爪先を掠めるようにして落ちていったのは、エルトを捕まえていた男だった。身体と首が別々に転がっており、死んでいるのは明らかである。
魔人たちに動揺が走り、エルトは無理矢理首を捻って背後にいる誰かを見た。
「――…」
呼ぼうとすると、ルインはかぶりを振ってそれを止めた。
「喋るな。……すまない」
低く囁くように告げて、ルインはゆっくりと地面に降りた。エルトを焼け残った石壁に寄りかかれるように座らせる。
「横になった方が楽か?」
エルトが小さく首を左右に振ると、心配そうな表情ながらもルインは頷いた。その背後から、フラムが走り寄ってくる。
「エルトさん、ルインさん!」
「外にいろと言ったのに」
振り返って咎めるルインには応えず、フラムはエルトの傍らに膝をついた。
「酷い怪我……今、治します」
フラムが治癒術をかけてくれて、少しずつ呼吸が楽になる。
エレクトラはフラムを予備だと言っていた。今のうちに逃げろと言いたいのだが、身体が言うことを聞かない。そうしている間にもエレクトラたちがばらばらと降りてくる。
死んだ男には目もくれず、エレクトラはにっこりと笑んで小首をかしげた。
「あんなに綺麗だったのに、消しちゃうなんて勿体ない。でも、来てくれて嬉しいわ、ルイン兄様」
ルインは無言で肩越しに振り返った。その横顔を見て、エルトは僅かに目を見張る。ルインの顔からはなんの感情も読み取れない。しかし、もう決めてしまった目をしていた。――彼の手には長剣に変じたウィルド・ノーリが握られている。
「ル……」
呼ぼうとして声が喉に絡まり、エルトは咳をした。落ち着けと言わんばかりにフラムがエルトの肩に手を置く。
「声を出しては駄目です。身体に力を入れないで」
向き直ったルインは微かに笑みを浮かべた。
「少し待っていてくれ。すぐに終わらせる」
「待っ……」
違うのだと言う前にルインは立ち上がり、エレクトラに向かっていく。伸ばしたエルトの手は空を切った。
(駄目だ……)
ウィルド・ノーリ。返覆の刃。均すもの――ルインが手にしているのは殺すための剣だ。ルインを追いかけようとし、傷が痛んでエルトは歯を食いしばる。
「駄目です、エルトさん!」
「止めて……ルインを、止めてくれ……」
「わかりました、手当が終わったらすぐに。ですから、今は」
「俺は、いいから……」
「駄目ですったら! お願いです、動かないで! 本当に死んでしまいます!」
半泣きで止めるフラムを振り払いたかったが、投げ出された四肢は言うことを聞いてくれない。だが、このままではルインは妹をその手にかけてしまう。殺されかけても逃げ続けていたのは、ひとえに妹を守りたかったからだろうに。
「ルイン……!」




