二章 5
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スープ鍋を掻き混ぜていると、背後から声がかかった。
「エルトさん」
「なんだ」
「ルインさん、行っちゃいますよ」
心配そうに言うフラムを振り返らずにエルトは応える。
「おう。回復したなら、引き留める理由もねえだろ」
「そうですけど……」
フラムが先を続けないので、エルトは続けた。
「できたら呼ぶから」
「り……、理由なんて要らないって言ったの、エルトさんじゃないですか!」
勢い込んで言うフラムの言葉に、エルトは思わず鍋を掻き混ぜる手を止めた。彼女は更に続ける。
「わたしに、みんなについて行きたいって思うだけで十分だって言ったじゃないですか。なら、ここにいて欲しいって思うだけで十分な筈です」
こういう形で返ってくるとは思わず、エルトは細く息をついた。
「相手がいることだからな……屁理屈だったな。悪かった、取り消す」
「そ……」
「できあがるまで、まだかかるぞ」
会話を打ち切るためにエルトが言うと、フラムは無言で厨房を出て行った。エルトはスープの味見をして塩を足す。
(いて欲しい、か)
この塔に、住人以外の人間は留まらない。訪れる者の大半が客なのだから当然だが、エルトにとっては姉代わりだった、父の弟子だった人も、エルトがメルヒオールの名を継いでからは、先代とその妻―――エルトの両親すらも、出て行ってしまった。
(俺がそう思うことと、それで相手が留まってくれるかってのは、別問題だ)
父と母は、放浪癖があるのだと自称していた。エルトもそう思おうとしているし、両親の不在を説明するときはそう告げている。だが、両親のそれは放浪癖などではなく、目的があってのことだと知っている。
「繕工メルヒオール」の看板をエルトに渡した父は、世界を直しに行ったのだ。戦で壊れた、人の手では元に戻せないものを修理しに行った。治癒術師はたくさんいるけれど繕理術師はいないから、と言い置いて。今もどこかで、歴史的価値のある建造物や美術品を修理する傍ら、病院や避難所、孤児院、学校などを直して回っているのだろう。そんな両親はエルトの誇りだ。――だから、引き留められなかった。引き留めても両親は旅立つだろうと、頭のどこかでわかってもいた。
両親が旅に出て半年、ここ一月は仕事に追われて外出もままならず、リムが気紛れで出てくる以外は、誰とも口をきかない日が続いた。リムは、出てきて欲しいときほど出てきてはくれない。エルトが呼んでも叫んでも暴れても、気が向かないと絶対に姿を現さない。日に何度も現れることもあれば、十日も出てこないこともある。
きっと自分は、人恋しかったのだろうとエルトは思う。だから、倒れていたルインを見つけてこれ幸いと引っ張り込み、療養を理由に引き留めた。
(途中で気付くべきだったのに)
冷静に考えて、多少、魔法が使えるからといって、子供の一人暮らしの身で、得体も素性も知れない相手を招き入れるというのは、不用心に過ぎる。秋頃の自分だったら、今の己のことを、何を考えているのかと口を極めて罵っているに違いない。怪我の治療はしても、塔まで入れることはなかったはずだ。
怪我と消耗を回復させるのが理由だったのだから、治れば出て行くのは当然だ。自分で連れてきて、屁理屈を捏ねて足止めをしていたくせに、同居人ができたような気になっていた。ここで働けと、家政夫になれと無茶を言った。勿論、冗談半分だったが、必死に理由を探していたのだ。理由がなければ留まってはくれないことを、本当は理解していた。
ルインは出て行った。フラムも近々いなくなる。この時期には訪ねて来る者もない。雪の深さを知っている両親も帰っては来ないだろう。
(この冬は、一人かぁ……)
ずっと目を逸らし続けていたことに気付いてしまい、エルトはため息を零した。雪に降り込められた塔の中に一人でいることを考えると、今から暗澹たる気分になる。いっそ冬眠できればいいのにとすら思う。
一人で残るのが嫌なのだと正直に訴えれば、ルインは留まってくれただろうかと考えて、エルトは否定する。妹に命を狙われているのだから、どれだけエルトが言葉を尽くしても出て行っただろう。
「……あーあ!」
わざと声を上げて思考を絶ち切る。うだうだと考えていても事態は変わらない。今は煮えたスープで腹ごしらえをすることが先決だ。
フラムを呼びに厨房を出る前に、ひょこりと彼女が顔を出した。
「エルトさん」
「うん?」
フラムは困った様子でエルトと背後とを交互に見る。
「お客さんみたいなんですけど、どうしましょう」
「あいつらじゃねえの? フラムの迎えと、剣とりに来たんだろ。入って貰えよ」
「いえ、多分、一人だと思います。話し声も聞こえませんし」
「ふうん? じゃあ誰だろ。先に食べてていいぞ」
言い置いてエルトは玄関に向かった。木製の大扉を叩く音が、一定の間を置いて繰り返されている。
「はいはい、どちらさん……」
扉を開け、そこに立っている少女の姿を眼にした瞬間、エルトは全身が総毛立つのを感じた。
年の頃はエルトよりも二つ三つ上に見える。並べれば人形すら見劣りするであろう整った顔を、炎のような赤い巻き毛が縁取っていた。白桃の頬に咲き初めの薔薇の唇、影を落とすほど長い睫と丹念に磨かれた紅玉のような瞳。纏う衣装は黒一色で、けれど地味ではなく、少女の持つ色彩を引き立てている。すらりと伸びた白く華奢な手足は剥き出しだったが、不思議と寒々しさは感じられない。
有り体に言って、傾城の美女というのはこういうものかと思うほどの容姿をしているが、美しさに心を動かされるよりも先に、エルトが感じたのは恐怖だった。触れてはいけない、関わってはいけないと本能的な部分が警鐘を鳴らしている。
動けないエルトをよそに、少女は口を開いた。
「兄様は?」
「にい、さま?」
鸚鵡返しに呟き、少女の顔立ちにルインの面影を見取ってエルトは息を呑んだ。――彼女が件の「妹」に違いない。
少女は唇の端をつり上げた。つと手を伸ばし、細い指先でエルトの頬をなぞる。
「とぼけても駄目。あなたからルイン兄様の匂いがする」
「匂いって……」
少女の手を払い除けたい衝動を必死で堪えながら、エルトは胸中でルインを罵った。
(ばか野郎、気配じゃなく匂い辿ってんじゃねえか!)
ルインは、妹が自分の気配のようなものがわかる、漠然と方角を察知している、と言っていたが、妹が辿っているのは気配ではなく匂いだったらしい。ならば、数日一緒にいたエルトやこの塔に残っていてもおかしくはない。水中で暮らしでもしない限り、彼女はルインを追えるのだろう。
(壁に引っかからなかったのか……それともすり抜けて来たのか?)
少女は指先を滑らせ、エルトの喉元で止めた。表情だけは無邪気に、甘えるような上目遣いで見上げてくる。
「ここにいないの?」
指ではなく鋭い刃を突きつけられている気分で、エルトは僅かに首を縦に動かした。
「……いない」
「んもう、逃げ足だけは早いんだから」
言葉だけを聞げば、微笑ましい兄妹喧嘩に思えるようなことを言い、少女は小首をかしげる。
「じゃあどこにいるの?」
「知らない」
「ええー。せっかくここまで来たのに」
「エルトさん、お客様って……」
背後から窺うようなフラムの声が聞こえ、エルトは咄嗟に振り返って声を投げた。
「来るな!」
近付いてこようとしていたフラムは、びくりと竦んで瞠目した。しかし尋常ではない空気を察知したらしく、泣きそうに顔を歪めて奥へ戻って行く。そのまま裏から逃げて、三人と合流してくれとエルトは祈る。この少女は、エルトやフラムに太刀打ちできる相手ではない。
エルトが気を逸らしたのが気に入らなかったらしく、少女は見目にそぐわぬ強い力でエルトの顔を引き寄せる。
「いっ……」
「もう一人いたの? いいわ、あの子は予備ね。今はあなただけで十分」
「十分って……何が」
「ルイン兄様は、ちょっと変わった人なの。自分の知っている人が死ぬのは嫌なんですって。たった一人でも。生き物は死ぬから生き物なのに、何を言っているのかしら」
それは意味が違うのではとエルトは思うが、口に出せる空気ではない。応えが返らないことを気にした風もなく、少女は続ける。
「そこであたしは考えたの。自分以外の誰かが死ぬのが嫌なら、誰かを殺そうとすれば助けに来るんじゃないかって。ねえ、いい考えでしょう?」
新しい遊びの提案でもしているように語る少女の言葉を聞いて、エルトは背筋が凍るのを感じた。――つまり、自分はルインを誘き出すための人質にされる。
「思いついたのは最近なの。実験してみようと思ったのに、兄様の匂いのする人ってなかなかいないんだもの。西の人たちは、みーんな殺しちゃったし。ふふ、ようやく見つけたわ。上手くいくといいんだけど」
世間話のついでに肩を叩くような気軽さで、少女はエルトの胸を突いた。
「がはっ!」
背中まで抜けるような衝撃に倒れ込み、呼吸もままならず咳き込むエルトを見下ろして、少女は口元に片手をあてた。
「いっけない、そういえば人間って脆いんだったわ。兄様が気付く前に死なないでね。あ、でも、予備があるわね。よかった、ちょっと失敗しても平気ね」
少女は艶やかに微笑み、胸の前で手を合わせる。
「早く兄様に教えてあげないと。気付くのを待ってたらいつになるかわからないもの」
「……っ」
返事は元より求めていないらしく、無造作にエルトの腕を掴むと少女はふわりと飛び上がった。塔の屋上、端に降り立って空いている方の手を頬に当てる。
「ルイン兄様あ! 聞こえてるんでしょう? このヒトが死んじゃう前に早く来てねえ!」
声を張り上げ、少女は片腕でエルトを自分の眼の高さまでつり上げて、さも楽しげににっこりと笑った。
「さあ、あなたからも兄様に何か言ってあげて」
「――…」
胸の痛みで声も上げられないエルトは、力なく少女を見た。左腕一本で持ち上げられているため、掴まれている手首と肩の付け根とが痛む。
一呼吸ほど置いて、少女は苛立たしげに顔を顰めた。長い赤毛が風に煽られて炎のように舞っている。
「兄様は疑り深いのよ。あたしだけの言葉じゃ嘘かもって思われちゃうでしょ? なんでもいいから、ほら早く」
声を出そうとしても、ひゅうひゅうと息が漏れるだけで、音にはならない。従わないエルトに腹を立てたのか、少女の手に力が籠もった。
「早くったら!」
「――!!」
左手首を握り潰され、エルトは絶叫した。少女は一転、嬉しそうに笑う。
「これで大丈夫。ルイン兄様、すっごく耳がいいのよ。あたしは鼻。スハイル兄様は目だったかしら」
少女はにこにこと無邪気に言って、遊びに誘うように遠くを指さした。
「ねえ、兄様が来るまでの暇潰しにちょうどいい場所を見つけたの。一緒に行きましょ」
エルトは抵抗することもできずに少女に引き摺られる。地面を歩くのではなく、飛んで移動するのが不幸中の幸いかも知れない。
痛みに朦朧とする意識の中、力の入らない咳をすると朱色が散った。最初の一撃で、おそらく肋かどこかが折れている。致命傷でなくあれと、回らない頭で考える。
(ああ……これは、手に負えないわな……)
深刻な表情で妹を手に負えないと言っていたルインを思い出し、エルトは目を閉じた。助けに来て欲しいのか来て欲しくないのか、よくわからない。ただ漠然と、このままでは自分は死ぬのだろうと思った。




