二章 4-1
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彼の視線の先で、男が炎に巻かれようとしていた。
四方を火に囲まれ、天井が崩れてくるまでにそう時間はかからないだろう。黒髪と、丈の長い上着の裾が炎に煽られて翻っている。
西王の軍勢が押されていると聞き、まさかと思った。だが、妙な胸騒ぎがして出向いてみれば、砦が炎上していた。
天を焦がすほどに燃え上がる炎の他に動くものはない。砦の中にいた者はすべて、逃げたか死んだのだろう。
こちらに背を向けている男に、逃げる意志はないようだった。消火を試みるでもなく、かといって狼狽えるわけでもなく、ただ傲然と立っている。男の衣服が赤く染まっているのは、火炎のただ中にいるからではないことを、彼は知っていた。今も、男の足下に炎より尚赤い水溜まりが広がりつつある。いくら身体が頑健だろうとも、血を流し尽くしてしまえば命を繋ぐことはできない。
「……スハイル、兄さん」
彼が呼べば、男はゆっくりと振り返った。赤いものがこびり付いている頬を歪ませて皮肉げな笑みを浮かべる。
「無理して兄と呼ばなくてもいいぞ。別段、兄とも思っていないのだろう」
男の言うとおり、血の繋がりを意識したことはあまり――否、殆どない。否定せずに黙っていると、男は表情を苦笑めいたものに変えた。紅玉の双眸が橙の光を吸収して、更に紅い。
「今ごろ出てきて何をしている。隠居に飽いたか?」
ルインが無言でいると、男はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「戦は嫌いなのではなかったか。俺の誘いを力尽くで撥ね付けるほどに」
「嫌いです。世の覇権とやらが、数多の命を消費してまで手に入れる価値があるものだとは思えません」
「おまえは変わらんな。ならば、疾く去ね。殉死なぞというくだらん風習は人間にしかなかったと記憶しているが。俺に殉ずる義理もなかろう」
「死ぬつもりはありません」
「では何をしに来た。目障りな相手の死に様を笑いに来たか」
「いいえ。あなたを助けに来ました」
「俺はもう助からん」
「そのようですね」
事実なのでそう返せば、男はおかしそうに笑った。
「おまえが俺を助けようなどとは、どういう風の吹き回しだ。俺が死ねば戦は終わるぞ」
「あなたが死ねば次は私です。それに、その傷では戦も続けられないでしょう。戦を続けられる程度の傷であれば、疾うに脱出しているのではないですか」
「なるほど。――無駄足だったな。消えろ」
「…………」
彼の逡巡が伝わったかのように、男は眉を顰める。そして、何かとてもいい悪戯を思いついた子供のような顔をした。
「あと一歩で東を落とせたものを、それだけは口惜しいが……まあ、これが俺の天命だったのであろうよ。だが、みすみすあれに渡してやることもあるまい」
言いながら男は彼に向かって両腕を突き出す。しかし、右腕は途中で途切れていた。動けば死期を早めるだろうにと、彼が口を開く前に男は続ける。その掌に光が点った。
「あれと戦り合う気はないのだろう? せいぜい逃げ回るがいい。東はそうそう立ち直れぬだろうから、おまえがあれに殺られるまでは、西も東も平穏であろう」
「兄……」
「俺のように寝首を掻かれるなよ」
光度を増し、視界が白色で塗り潰され、彼は反射的に目を閉じた。そして次に目を開けたときには、まったく知らない場所に立っていた。
「――っ」
はっと目を開け、ルインは数拍、硬直した。たった今まで見ていた光景が夢――昔の記憶であり、現在ではないことに気付いて細く息を吐き出す。
(……なかなか薄れないな)
兄の最期に居合わせたことは、存外、深くにまで食い込んでしまったらしい。三年が過ぎた今でも夢のかたちで鮮明に蘇るのがその証拠だ。
異母兄が西王で、東を相手に戦をしていたことを知りながら、ルインはそれに加わらなかった。再三の招請を受けても応じないルインに業を煮やしたらしい兄からは、度々ルインを捕らえようと大部隊が送られてきた。元来、己の意に沿わぬことは許さない兄で、力尽くでも思い通りにしようとするところがある。ルインは、兄のそういうところが嫌いだった。
一度だけスハイル本人が現れたこともあったが、ルインはその悉くを跳ね返し、躱し、逃げ続けた。兄だから、王だからと言って、スハイルの言うことを聞く義理も義務もルインにはない。
対照的に、異母妹は嬉々として戦列に加わっていた。妹の参戦した理由が、兄の役に立ちたいからとか、仲間のためにとかそいうことではなく、単に破壊と殺戮が好きだからに過ぎないと気付いたのはいつ頃だっただろうと、ルインは片手を額に乗せる。
(それと、正攻法ではスハイルに敵わなかったからだろうな)
兄の強さは飛び抜けていて、その気になれば一人で東を相手取ることもできるとすら言われていた。誇張はあるだろうが、すべてが作りごとではないとルインは思う。兄が曲がりなりにも西の軍勢として組織だったものを作っていたのは、そのほうが戦後に支配しやすいと考えたからに違いない。
しかし兄は妹に敗れた。その場にいなかったので、何があったのかルインは詳細を知らない。少なくとも、本人が言っていたように「寝首を掻かれた」わけではないだろうと、ぼんやりと思うだけだ。
あまり交流のなかった兄の、唯一「兄」らしいと思えなくもない言葉と行為が、最期になった。飛ばされた後、そう置かずにルインに「印」が出たので、あれが本当に最後の力だったのと思うと、今でも複雑になる。スハイルに他意はなく、火災に巻き込まれてルインまで死んで、まんまと妹の思惑通りに「印」が渡るのを防きたかっただけだろうけれど。
妹――エレクトラを王にしてはいけないというのは、スハイルに言われるまでもなくそう考えていた。ルインの種族の寿命は五百年から六百年ほど。自分の命数が尽きるまで逃げ切れるだろうかと、ルインはため息をついた。逃げると決めたのは自分なのに、たった三年で挫けそうになっている。
揺らぎ、迷うから捕まりかけた。エレクトラは手段を選ばない。気を抜けば見つかり、追いつかれて殺される。
「――…」
もう一度ため息をついてルインは上体を起こした。既に夜は明けている。まさかエルトが催眠魔法などという強硬手段に出るとは思わなかったが、久しぶりに深く眠ったおかげで、ずっと消えなかった倦怠感が抜けたような気がする。エレクトラたちに負わされた傷はすっかり癒え、使い果たした力も大分戻った。エルトにはいくら感謝しても足りない。巻き込むことなど論外だ。
(今日こそは出ないと)
頭を切り換えてルインは寝台を下りた。身支度を終えて部屋を出ようと扉に手をかけたところで、扉が叩かれる。
「はい」
返事をしながら扉を開ければ、廊下にいたのはフラムだった。眼を丸くしてルインを見上げている。何かあったのだろうかと、ルインは首をかたむけた。
「どうした?」
「い、いえ、すぐに開いたので、びっくりしただけです。おはようございます」
「おはよう」
「あの、エルトさんを知りませんか? お部屋にいないようなんです」
「いない? ……ああ」
昨夜、調べてみると言っていたことを思い出し、ルインはそのことをフラムに伝えた。彼女は驚いた様子で目を見開く。
「じゃあ、書庫ですか」
「おそらく。行ってみよう」




