二章 1-2
「あ? ああ、遅かっ……」
言いながら振り返ったエルトは、フラムの姿を見るなり、みるみる青ざめた。彼女を制止しようとするかのように両手を突き出す。
「止まれ! 入って来んな!」
フラムは水の入った桶を重そうに両手で提げていた。手巾が浸してあるので、それでエルトのこぶを冷やそうというのだろう。
エルトの声が聞こえているのかいないのか、フラムは険しい表情で一歩踏み出した。
「大声を出してはいけません、安静に!」
「する! 安静にするから、そのまま廊下に出ろ。書庫に水持って来る莫迦がどこにいる!」
「でも、頭を打っているのに動かすのは」
「俺はこのとおりぴんぴんしてるっての」
「頭の怪我を甘く見ては駄目です。時間が経ってから症状が出ることだってあるんですよ」
「わかった、好きに手当てしろ。だがここは駄目だ。それをひっくり返したら別の意味で頭の血管が切れる」
エルトとしばし睨み合い、フラムは不承不承ながらも数歩下がって廊下へ出た。
「……それじゃあ、さっきの部屋に行きましょう」
「さっきの? ……ああ、居間か。先に行っててくれ。階段気を付けてな」
「はい」
頷き、フラムは重そうに桶を提げてよろよろと歩いて行った。足音が遠ざかってから、エルトは頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「うおおおお……今、桶持ったフラムを部屋の外に吹っ飛ばそうか迷った俺は鬼か? 人でなしか? まさか思わないだろ水持って来るなんて……やけに時間かかってると思ったら、桶探してたのかよ、もう……」
エルトの独白は語尾に行くにつれて力を失い、泣き声に近くなる。さすがにフラムもそこまでではないだろうと、ルインは苦笑する。
「何も吹き飛ばすまで……」
「きゃあぁぁ――…」
階下から響いてきた悲鳴と水音、桶が転がる音を聞いて、ルインは言いかけた言葉を飲み込んだ。代わりに正反対のことを口にする。
「……いや。まったくもって妥当な逡巡だ」
「よかった……折れなくて本当によかった……」
力強く頷くエルトと共に、ルインは桶ごと転んだのであろうフラムを助けるために書庫を出た。
* * *
「あら? もう一人の子は?」
雑貨屋の女将に訊かれ、三人は顔を見合わせた。旅人が珍しいのか、それとも繕工の使いだったからか、顔ぶれを覚えられていたらしい。
トロンが愛想良く答える。
「繕工に魔法を習うんだそうです」
「そうなの。若いのに感心ね」
「僕たちが馬車を返して戻ってくるまでて期限付きですけどね。短い時間でものになるかどうか」
「メルヒオールの坊ちゃんは賢い子だから、教えるのも上手いんじゃないかねえ。勿論、腕は確かだもの、大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
二、三言葉を交わして、三人は雑貨屋を出た。時刻は昼下がりといったところで、空は相変わらず灰色に覆われている。
通りを歩きながらメイアが肩を竦めた。
「メルヒオールの坊ちゃん、ねえ」
隣を歩くトロンが応じる。
「村では評判が好さそうだね」
繕工の塔に向かう前に寄ったときも、住人はすんなり場所を教えてくれて、メルヒオールによろしく伝えてくれと、おしなべて繕工に好意的だった。雪で動けなくなる冬場以外は頻繁に村に出入りしているのだろうと、シエルは推測する。
通りに三人以外の人影はないが、他人の耳を憚ってかメイアはやや声を潜めた。
「外面はいいのね」
「村人に好かれる少年の方が素なんじゃないかい? 僕たちは頭から嫌われたからね」
「トロンったら、あの子に随分理解があるじゃない」
「そんなことはないさ。あれくらいの年頃の子をあからさまに子供扱いしたら、全力で反発されるって知ってるだけだよ。経験としてね」
ね、のところでトロンが顔を向けて来たので、シエルは横目で睨み返した。
「……なんで俺を見る」
「別に? ずっと黙ってるからどうしたのかなと思って」
「――…」
トロンには口で勝てた例しがないので、シエルは目を逸らして唇を引き結んだ。トロンの方が年上とはいえ、三つしか違わないのに保護者面されるのは腹が立つ。しかし、自分が彼のように器用に立ち回れないのも事実だ。わかっているだけに、強く言い返せない。
メイアは頬を膨らませた。
「あの子がメルヒオール本人だなんて知らなかったんだから仕方ないでしょ。あんな子供が、塔で自活してるなんて思う? しかも一人で」
「子供が自活してるってのは珍しい話じゃないけど、確かに人里離れた塔で一人だけでっていうのは他にないだろうね」
同意しておいてから、トロンは笑顔でちくりと刺した。
「それはそれとして、メイアが素直に謝ってれば、メルヒオールも僕らを毛嫌いするようになることはなかったと気がするけど」
「う、うっさいわね。あっちだって思いっきり刺々しかったじゃないのよ」
不利を悟ったか、メイアは慌てた様子で話を変える。
「今日はここに泊まるんでしょ? 明日の朝に出て、日暮れ前に着けるかしらね」
既に昼下がりといった時分である。間もなく日が暮れるだろう。寒い中また夜通し動くのは御免だとシエルは頷く。あのときは四人とも、気が急くあまりに正しい判断ができなくなっていた。
「馬車でも辛かったんだから、野宿なんかしたら死ぬな。雪が降ったら尚更」
「雪が積もったら動けなくなるって言ってたわね。さすがにフラムを一冬置いておけないわよ。シエルの剣も」
村に一つしかないという宿屋を指差しながらトロンが言う。
「明日、早めに出よう。雪が降らないことを祈ってね」
* * *
「うーん、この辺だと思ったんだけど。ね、知ってそうな人、適当に連れてきてくれる? みんなで競争ね」
無邪気にも聞こえる少女の声を合図に、男たちが蜘蛛の子を散らすように飛び出していく。最初にこの少女の望みを叶えて称賛の栄に浴したいのと、最後になって機嫌を損ねれば、遊び半分に害されかねないからだ。
女は少女の傍から動かなかった。少女が不思議そうに見上げてくる。
「リーアは行かないの?」
「エレクトラ様をお一人にするわけには参りませんので」
「そんなのいいのに。リーアたちを全員合わせたよりも、あたしの方が強いもの。あたしがいなくなって困るのは、リーアたちでしょ?」
少女は揶揄うように言う。事実なので、腹も立たない。
「ええ、ですから、お側に」
「ああそう」
つまらなそうに言って、少女は宙を掴むと、漆黒の大鎌を取り出した。それを水平に寝かせて柄に腰掛ける。耳の上で二つに結ばれた赤い巻き毛が、風に煽られて炎のように踊った。
「ねえリーア、兄様はどこにいると思う?」
「さあ……あの怪我ですから、あまり遠くには行かれないと思いますが」
「でも、まだ生きてるのよね。巨人も殺す毒が効かないなんて、困ったわ」
言葉とは裏腹に、少女は全く困っているようには見えない。ただ言ってみたかっただけなのだろう。そういうところが、この少女にはある。
高い位置に浮かんでいるので、丁度足先にくる木の先端を爪先で嬲りながら、少女は人さし指を口元に当てて、愛らしく小首を傾げた。
「もうこっち側は探し尽くしちゃったわよね。海を渡ってみようかしら」
独言ち、さもそれが大発見であるかのように、少女は胸の前で手を合わせた。
「そうよ、どうして気付かなかったのかしら! 兄様はきっと、海を渡って逃げたのね。向こうには、まだ沢山ヒトがいるもの、手がかりも多いはずだわ。ーーそうと決まれば」
「今からですか?」
ひょいと立ち上がる少女に思わず口を出せば、彼女はたちまち不機嫌になる。
「なあに? 駄目なの?」
「いえ、ご所望のものを探しに行った者たちが戻るまで待っても」
「あたし、待つの嫌いなの。遅い方が悪いに決まってるわよね」
「お言葉ですが……」
女が言い終わる前に、横から声が割り込んでくる。
「お待たせしました! エレ」
勢い込んで戻ってきた男は、少女の腕の一振りで、抱えていたもの諸共、真っ二つになった。支えを失ったそれは、赤黒いものを撒き散らしながら落ちていく。
「あたしは行くわ。リーアは残れば?」
うるさい羽虫を払ったときとて、もう少し感情が動くのではないかと思うような口振りで言い、少女は東を目指して飛んでいく。
ため息をつき、女もそれを追った。遙か下方に転がっている。元は生き物だったモノに一瞥をくれてやる。
元々、少女の取り巻きは、あの美貌と力に魅せられた狂信者のような連中だ。それも、少女が今のように気分で、文字通り切り捨てるものだから、どんどん数を減らしている。無論、少女の横暴に耐えかねて逃げ出す者もいるが、少女は一切を意に介さない。誰がいなくなろうと、たった一人になろうと、彼女は彼女の兄を探し出して命を奪うまで、諦めはしないだろう。
(気の毒に)
たまたま少女と血を分け、たまたま先に生まれついてしまった彼らに、女は同情を禁じ得ない。特に、好戦的な兄と破滅的な妹に挟まれてしまった、温厚な次兄には。次兄にしてみれば、元凶の取り巻きからの同情など、なんの意味もないだろうけれど。




