二章 1-1
二章
1
食器の片付けを終えたルインは、足音を忍ばせて階段を上っていた。
玄関から出ようとしたときは四人と遭遇した。窓から試みたときは窓が壊れた。裏口のときはフラムが凍えかけていて塔を出るどころではなくなった。――出て行こうとすると、どうしても邪魔が入る。
こうなったら心当たりをすべて試してみようと、屋上へ上がってみることにしたのだ。塔は五階建てで、最上階の天井で階段が終わっているので、屋上へ出られるはずだ。
「今度は屋上?」
五階にさしかかったところで、例によってリムが現れた。踊り場で足を止め、ルインは頭半分ほど高い位置に逆さにぶら下がったリムを見上げる。
「さっきは出てこなかったな」
「さっきって?」
「私が裏口から出ようとしたときだ」
「ああ。あのときは、別に危なそうじゃなかったもの」
「……その危ないというのは、四人から攻撃を仕掛けられたり、窓が壊れたりしたことか?」
ルインが問い返しても、リムは謎めいた笑みを浮かべるだけで答えない。仕方がないのでルインは話を変える。
「この塔は、一度入ったら出られないのか?」
「そんなわけないじゃない、あの四人組は出て行ったでしょ? フラムは戻ってきたけど」
ならば出られないのは塔の問題ではなく、自分の問題なのだろうかとルインは口を噤んだ。とはいえ、心当たりは何もない。妹が自分を見つける前に出て行かねばと焦るばかりだ。
「ま、気を付けてね」
気軽な警告を残して、リムは消えた。ならば、今回も何かあるに違いないと警戒しつつ残りの階段を上ろうとしたところで、
「――…!」
階下から何かが崩れるような音と、エルトとフラムの悲鳴が聞こえた。咄嗟に振り返り、ルインは音のした現場へ――三階の書庫へと走る。
「どうした?」
扉を開けると、書架の幾つかが斜めに傾ぎ、床には棚から落ちたと思しき本が、フラムの背丈ほどもある大きな山を作っていた。煙のように舞う埃の中、山の傍らで手当たり次第に本をどけているフラムが、泣きそうな顔で振り返る。
「メルヒオールさんが、メルヒオールさんが僕を庇って……!」
「この下か?」
答えは聞かずに、ルインは力任せに本の山を払い除けた。崩れる本の中には乱暴に扱ったら壊れてしまいそうな古い書物もあるが、構ってはいられない。
半分ほど崩してようやくエルトの頭が出てくる。彼は頭を上げると、水中から顔を出したかのように大きく息をした。
「ぷはぁ!」
「大丈夫か、エルト」
「……ああ。痛ててて」
呻きながらエルトは身体を捩り、両腕を引っ張り出した。確かめるように何度か手を握ったり開いたりする。
「あー、びっくりした。ったく、誰だ? こんなに本詰めたの。……痛て、こぶになってら」
「触っては駄目です!」
唐突に響いたフラムの声に驚いたか、びくりと肩を揺らしたエルトは頭を探っていた手を下ろした。
「な、なんで?」
「頭を打ったんですね? 動かないでください、安静に。痛みますか? 吐き気は?」
「いや……触らなきゃ平気だし、吐き気はないけど……」
「冷やすもの持ってきます。頭を動かしちゃ駄目ですよ!」
言うなりフラムは部屋を飛び出していった。それを言葉もなく見送り、ルインがエルトと顔を見合わせたところで、すこん、と後頭部に何かが当たった。
「痛い」
それは小型の辞書のような書物で、辛うじて棚の上に残っていたものが落ちてきたらしい。
腰から下を本に埋めたまま、エルトが見上げてくる。
「大丈夫か?」
「ああ」
今回のリムの「気を付けて」はこれだろうかと胸中で首を捻りながら、ルインはエルトが本の山から脱出するのに手を貸した。
「あーあーあー。これ片付けんのかよ、っと」
書物の堤を飛び越えるようにして床に立ったエルトは、容赦なく崩れるそれらを見下ろして顔を顰めた。空になった書架はそれなりに幅があり、天井まで届きそうなほど高さがあるので、容量も相当なものだろう。
「片付けは私がやろう」
「あんただけにさせらんねえよ。三人でやりゃすぐ片付くだろ。――ったく、父さんか母さんかばーちゃんか知らないけど、本が取り出せなくなるほどぎゅうぎゅうに詰めんなっつの。傷むし、棚は倒れるし」
どうやら、限界以上に詰め込まれた棚から本を取り出そうとして思い切り引っ張ったところ、本が引っこ抜けると同時に書架が傾いて、書物の雪崩が起きてしまったらしい。エルトの髪にくっついた埃の塊を摘んで取ってやると、エルトはルインを見上げて笑みを浮かべた。
「助かったよ、ありがと。ルインがいなかったら死んでたかもな」
「大袈裟だな。フラムがいただろう」
「そうだけど、フラムが本をどかすのが早いか俺が窒息するのが早いかって感じだろ。――大体、俺の他に人がいることが珍しいんだから、一人のときに今みたいな本雪崩が起きたらと思うとぞっとしねえな」
「リムさんは?」
問えば、エルトはひょいと肩を竦めた。
「リムさんはこういうの助けちゃくれねえんだ。物事の結果がどうあれ、大きな流れの一つに過ぎない、なんつってさ。俺が本に埋まって死んでも、流れの一つってやつなんだろ」
「彼女の手で流れを変えることができるのにか」
「あたしが手出しすることは禁止されてるの、だってさ。でも絶対、面倒がってるだけだぞ」
「聞こえてるわよ、エルト」
「知ってるよ」
エルトが投げやりに言うと、例によってなんの前触れもなくリムが姿を現した。
「何度も言ってるでしょ、あたしは見守るだけの存在。傍観者なの」
「はいはい。俺が死んだら花でも手向けてくれよ」
「んもう、意地悪。あたしがお花詰めないの知ってるくせに」
出てきたばかりだというのに、頬を膨らませてリムは消えた。今のやり取りを聞いて、ルインは口元に片手をあてる。
(傍観者……手出しすることを禁じられている……エルトを助けられないし、花を摘むこともできない。生き物――命に干渉できないのか?)
とはいえ、リムとエルトは生まれる前からの付き合いだと言うし、ルインやフラムは何度も言葉を交わしている。どこまでが「干渉」にあたるのかルインに判断できない。
(彼女の言う「流れ」に触れなければいいのだろうか。助けることは「流れ」を変えることになる? そのせいで、命を助けることも、殺すこともできないのなら……)
「……い。おい」
目の前で手を閃かされ、ルインは思索から引き戻された。エルトが不思議そうな顔で首を傾ける。
「どうしたんだよ、いきなりぼんやりして」
「すまない。考え事をしていた」
「考え事って……」
言葉の途中でエルトが突然、吹き出した。声を立てて笑い、それを散らすように手を振る。
「ははは、考えたくもなるか、また邪魔が入ったんだから」
「え?」
笑いを収め、エルトは挑みかかるように言う。
「あんた、出て行こうとしてるだろ。俺に黙って」
気付かれていたのかと、ルインは僅かに瞠目した。表情の変化を読み取ったのか、エルトは人の悪い笑みを浮かべる。
「窓のあたりでおかしいと思ったんだ。この寒いのに窓開けるか? それとも、西には真冬に窓を開け放つ習慣でもあんのか」
「いや……、そういう風変わりなことはしない」
「じゃあやっぱり不自然だ。――フラムは肩と髪が濡れてたな。外にいたのをあんたが見つけたんだろ、裏口かどっか開けたときに。で、放っとけなくて塔に入れた。それで、出て行きそびれた」
まさにその通りだったので、ルインは無言で先を促す。
「さっき、書くもの取りに部屋に行って戻って来たときに、上がってくあんたの後ろ姿が見えた。それで、次は屋上から出ようとしてんだなって思ったのさ」
「……概ね当たりだ」
ルインが肯定すると、エルトは首を竦めた。
「呼び止めようか迷ったけど、そこまで出て行きたいのなら別にいいかって思ってさ」
「……すまない」
「そりゃ何に対して謝ってんだ?」
「黙って行こうとしたことに」
「ならいい、受け取ってやる」
エルトは芝居がかった調子で尊大に言い、しかしすぐに苦笑めいた表情を浮かべる。
「出てくときは言えよ。俺は止めるけど、それを振り切って行け」
それくらいの覚悟がなければ最初から行動を起こすなという意味だろう。反論できず、ルインは頷いた。ふと思いつき、尋ねてみる。
「リムさんに、この塔は一度入ったら出られないのかと訊いたら、そんなことはないと言っていたんだが」
「俺も、出られないなんて話は聞いたことねえな。俺は普通に村と往き来してるし、父さんと母さんは旅に出たし、父さんの弟子だった人も出てったし」
「私だけか……」
「単なる偶然だとは思うけど、ここまで続くと何かありそうな気がしてくるな。リムさんじゃねえけど、何か見えない力が今は外に出るなっつってんじゃねえの?」
「……あながち否定できない気がしてきた」
ため息混じりに言うルインへ、エルトは不思議そうに言う。
「そんなに妹さんに会いたくないのかよ」
「私が一人でいるときに会うのは構わないんだが、今ここでは見つかりたくない」
妹がルインの命を欲しがっている以上、望むと望まざるとに関わらず、顔を合わせれば刃を交えることになる。一人で応戦するのはなんとでもなるが、周囲の人々を――エルトやフラムを巻き込みたくない。
揶揄の色を消し、神妙な顔つきになったエルトが探るように問うた。
「……もしかしてルイン、西王になってからずっと逃げ続けてるのか?」
「ああ。あれだけの傷を負ったのと、東へ来たのは今回が初めてだがな」
逃げているというのであれば、西王を継ぐ前からそうだったなと、ルインはぼんやりと思い返した。
先代の西王――異母兄は、人間との戦にルインを加えたがったが、ルインは誘いの度にそれを拒否して逃げ回った。ルインが参戦を拒否したのは、良心の呵責や人道的なものからではなく、単に面倒ごとに巻き込まれたくなかっただけに過ぎない。
異母妹の一派がルインを探しており、ルイン側に着く者を端から殺しているということが広がりきった現在、進んでルインに接触しようとする者はいない。妹たちのことを承知で、それでも支援してくれようとする人々とは、ルインの方から関わりを断った。もう誰にも死んで欲しくなかったし、妹に殺させるのも嫌だった。
「もし、私が出て行った後に妹がここを訪れたら、私の居場所を教えてやってくれ。私はこの後、西に戻るつもりだ。私を匿ったり、隠し立てするようなことをしなければ、彼女も命までは取るまい。巻き込んでしまってすまない」
数拍の沈黙の後、エルトが押し殺したような声で呟いた。
「……ふざけんな」
「え?」
聞き返したルインを、エルトは睨む。
「犠牲が自分一人だけならいいなんて思ってんじゃねえだろうな。そんなどうしようもねえこと考えてたら、吹っ飛ばすぞ」
怒気に魔力が反応しているのか、風もないのにエルトの金髪が揺らめく。
ルインは静かに首を左右に振った。
「……私は犠牲ではない。妹から逃げ続けるのを選んだのは私だ。相手が諦めないのだから、戦いたくなければ逃げるしかあるまい。私が生きている間は、少なくとも大きな戦は起きない」
「ずっと一人で、逃げて隠れることがあんたの本意だってのかよ」
「そうだ」
「ふざけんな!」
溜まりかねた様子でエルトは声を荒げた。掴みかかってきそうな勢いで言う。
「ルインが逃げてる間は戦は起きないかも知れない。西も東も平穏かも知れない。でも、ルインは? あんた自身の平穏はどこに行くんだよ」
思いがけないことを言われてルインは目を瞬いた。
「……考えたこともなかったな」
「じゃあ今から考えろ。一人で逃げ続けるなんて、そんなの……」
エルトの声を遮って、開けっ放しの扉からフラムの声が響いた。
「お待たせしました!」




