痴漢の代償
埼京線上りにはサラリーマン、OL、大学生、高校生、その他、東京へ向かういろんな種類の人間が乗っている。かわいい制服で有名な清桃学園の生徒もたくさん乗っていた。平日の朝八時、埼京線上りはいつも通りの混雑具合だった。
板橋駅を出て一分くらい経った時「ちょっと、やめてよー」全員が押し黙っている満員電車の中で突然、女の子の甲高い叫び声が響いた。「この人痴漢です」清桃学園の制服を着た女子高生がブレザー姿の男子学生の手首をつかみ、その腕を高々と上げて言った。乗客全員が声のする方向を見た。男子学生は次の停車駅の池袋で降ろされ、駅長室へ連れて行かれた。乗り合わせていた乗客、ホームで電車を待っていた人たちはスマートフォンのレンズを一斉にその男子学生に向けた。今や一億総カメラマン時代だ。目立つことをすればすぐに記録されてしまう。その撮影者の中に、朝の通勤時間には似つかわしくない黒づくめの男がいた。彼の口元はニヤリと笑みを浮かべていた。
駅長室で事情を聞かれた男子学生は「覚えていません」と犯行を否定した。駅長は仕方なく学生を警察に引き渡す事にした。警察に連行されていく学生の姿を、撮影者たちは容赦なく撮り続けていた。
池袋警察署に連行され、事情を聴かれた学生はやはり「覚えていない」という言葉を繰り返すだけだった。困り果てた警察官は「保護者の方に来てもらうしかないね」と学生の母親を呼び出した。
数時間後、警察署の受付に「川村健太の母親です」と名乗る女性が迎えに現れ、川村健太は無事に釈放された。しかし、その夜の川村家は地獄だった。川村健太には中学二年生の妹みゆきがいた。「お兄ちゃんが痴漢だなんて私もう学校にいけないよ」みゆきは泣きながら部屋に閉じこもってしまった。母親の久子は泣いているばかりだった。父親の良一は「痴漢はれっきとした犯罪なんだぞ。やられた娘の身になってみろ」と健太を厳しくしかったが、やはり、健太は「本当にその時の記憶が無いんだよ。何も覚えていないんだよ」泣きながら同じ言葉を繰り返すだけだった。
翌朝、久子がゴミステーションにゴミ出しに行くと先客の奥さん連中がヒソヒソとうわさ話をしていた。おはようございます、久子が挨拶をすると、皆は逃げるようにいなくなってしまった。久子は何かがおかしい事に気づいた。
健太は何事も無かったかのように高校へ行った。しかし登校中の健太を皆が遠巻きに見ている事はすぐに分かった。さらには「えー、まじでー」「気持ちわるーい」そんな言葉がかすかだが健太の耳に届いた。健太が自分のクラス1年C組の教室に入ると黒板の周りに人だかりができていた。
川村健太、昨日痴漢で逮捕、女子は接近注意、と黒板に大きな文字で書かれていた。その文字の横には、健太が警察官に連行されていく画像が印刷されたコピー用紙が貼られていた。健太は無言のまま、黒板の文字を消し、コピー用紙をはがして、教室を飛び出した。健太はそのまま家に帰り、自分の部屋に閉じこもった。玄関のドアの閉まる音と健太の部屋のドアがバタンと強く閉まる音で久子は気付いた。
「ねえ、健太なの?」久子は二階に上がり健太の部屋のドアを叩いた。
「ねえ、学校はどうしたの?」
「もう学校なんか行けないよ」健太はそう大声で言うと号泣した。健太は二度と部屋から出て来なくなってしまった。
夜になり良一が帰ってきた。良一は厳しい顔で久子に言った。「俺の昇進は無くなったよ」そう言うと良一は上着を脱ぎ床に投げ捨てた。
「何があったの?」心配そうに久子が聞いた。
「健太の痴漢の事がネットで拡散されているんだよ」
「えっ、なんで」
「今はみんなスマホを持ってるだろう。池袋駅に居た連中が皆で写真や画像を取っていたんだよ。健太の実名まで出てるんだ」
「だから近所の奥さんたちの様子がおかしかったんだ」久子はへなへなとその場に座り込んだ。
たった一夜にして川村家は地獄に突き落とされた。
つづく




