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第ー章8  『大森の獣たち』

「マジで洒落になんねぇ」


 森の中でひとり、何もないまま迷子になっていた。頭に浮かぶのは、その一言だけだった。


 いや、「何もない」というのは正確じゃない。壊れたスマホと財布はポケットに入っている。だがこの世界では何の役にも立たない――持ち物と呼べるかどうかも怪しい。


「くそったれ! この馬鹿げた世界に来てから、悪いことばっかり起きやがる! こんなとこにいるくらいなら、元の世界にいた方がマシだったわ!」


 ズボンのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。強く握りしめる。


「クソみたいな世界だな!」


 手を振り上げ、崖の向こうへスマホを投げつけた。手を離した瞬間、後悔が押し寄せた。もう一度掴もうと崖から身を乗り出しかけ、危うく一緒に落ちそうになる。すんでのところで踏みとどまり、後ずさりながら、スマホが落ちていくのを見送るしかなかった。


「あああああ!」


「このクソ馬鹿野郎!」


 拳を握りしめ、自分の顔を思いきり殴った。鼻血が出るほどに。


「もう何時間もこの気に食わない森にいるってのに、あるのは森ばっかりだ! くそったれが!」


 目を閉じ、まつ毛を強く伏せる。


 抱えていた息を全部吐き出す。ため息と呼ぶには程遠かったが。地面に座り込み、崖を眺めた。


 深く吸って、深く吐く。何度も繰り返して、ようやく落ち着いてきた。鼻血を手の甲で拭う。


『さて』

 顎に手を当てる。『知らない森で迷ったら、どうすればいいんだ?』

 もう一度目を閉じ、無理やり何かひねり出そうとする。


『映画とかだと、大体何するんだっけ』

 前世で学んだことを思い出そうとしながら考える。


『実際、映画はほとんど見てないんだよな。ラノベとかアニメばっかりで……でもこういう場面って、ロマンス系のイベントだと、大体寒さ対策に焚き火を焚くよな』


 歯を食いしばる。


「しゃーねぇな」


 渋々そう言った。この場所は巨大に見えるが、崖の様子からすると、どうやら島のような地形らしい。できることといえば、来た道を戻ることくらいだが、あまりにも気を取られていて、道順にまるで注意を払っていなかった。


「くそ……」


 もう一度ため息。立ち上がり、服の埃を払う。風が木々の葉を揺らし、漂ってくる香りは自然そのもので、鼻には心地よすぎるくらいだった。


『まあ……全部めんどくせぇけど、しょうがないか』

 自分の手を見つめてから、落ち着いて森の中へ歩き出す。


 中に入ってからは、邪魔な枝をただ払いのけるだけだった。足跡が地面にくっきり残っていく――今この瞬間、あの人見知りだった西郷孝盛が今の自分の決断を見たら、絶対に反対しただろう。何も知らない森に計画もなく突っ込むなんて、危険極まりない。


『もっと早くリガスから剣術を学んでおけばよかったな』

 そう思ったが、もう遅すぎることは自分でもわかっていた。安全な場所にいたくせに、臆病者みたいに逃げ出した。手を差し伸べてくれた人たちの信頼を裏切って。


「さて……」


「北はどっちだ、南は、西は……うーん」


 じっと立ち止まり、思い出そうとする。だが物音がひとつ、瞬時に注意を引いた。素早く振り向くと、茂みが揺れていた。


『何だ……?』

 顔が青ざめ、汗が噴き出す。脚が震えたが、小さな一歩ずつ茂みへ近づいていく。突然、小さなウサギが顔目がけて飛び出してきて、悲鳴とともに大きく後ろへ跳んだ。


「クソウサギが!」


 地面の土を掴んでウサギに投げつけ、数秒後には手で顔を覆って笑い出した。


 目に浮かんだ涙を拭い、立ち上がる。


「よし」


 道を塞ぐ枝を払いながら進む。耐え難い暑さが、海の涼しい風で少しずつ和らいでいった。


 進む道の途中、地面に足跡を見つけた。


『何でこんなとこに足跡が? この森には自分ひとりだと思ってたのに』

 邪魔な枝や長い草をかき分けながら、それを辿っていく。


「何だ、この臭い……」


 金属じみた臭いが鼻をつく。吐き気を催すような臭いだった。立ち止まり、頭を下げてその臭いに耐えようとする。


「うわ、気持ち悪……」


 右手で鼻を覆いながら進み続ける。臭いはどんどん強くなり、口の中にまで鉄の味を感じ始めた。


「え?」


 ふいに遠くから音が聞こえて、注意を引いた。まるで何かが肉を食べているような音。


「何だあれ……」


 枝をむしり、長い草をかき分ける。その先に何があるのか見当もつかなかったが、助けであってほしいと願っていた――実際のところ、それはかなり愚かな期待だった。


「な……」


 目の前の光景に、体が凍りついた。


『あれは……何だ……?』


 人間の死体の臓物を貪る、ひとつの化け物がそこにいた。顔がこちらと反対を向いていて判別しづらかったが、孝盛はその服装で一瞬にして誰かわかってしまった。


「王……王妃……?」


 声に出して言いながら動こうとしたが、脚が言うことを聞かなかった。


 その「何か」が彼女の内臓を貪り続けるのを、ただ見つめることしかできなかった。だがようやく体が動き、嘔吐した。


「クソ、気持ち悪すぎる……」


 手の甲で口を拭う。顔を上げると、その化け物がじっとこちらを見つめていた。


 背筋からうなじにかけて悪寒が走る。死にたくなければ、今こそ逃げる時だった。


 拳を握りしめ、身を翻す。振り返らずに走った。崖へ向かって来た道をそのまま辿る。背後から、その化け物の重い足音が聞こえてくる。


『終わりだ……』


 崖が視界に入り始めた。


「死にたくねぇ、死にたくねぇ……」


 崖に着いたところで振り返る。その化け物が猛スピードで迫ってきていたが、とっさに身をかがめた――ちょうど化け物が飛びかかってきた瞬間に。かがんだ拍子に、怪物は崖の下へと落ちていった。


「はぁ……」


 息をつき、しばらく地面を見つめたまま動けなかった。心臓が早鐘を打っていた。


「死ぬとこだった……」


「……」


 目から涙がこぼれ、それを拭う。地面に横になり、起き上がる気になれなかった。


『俺は無能だ……あのまま王都にじっとしてたら、こんな死にかけるようなとこにいなかったのに……』


 また涙が溢れてくる。波の音が聞こえていた。目は次第に閉じていき、やがて眠りに落ちた。


 眠りについてから数時間後、コオロギの鳴き声で目が覚めた。ゆっくりと目を開け、視界が晴れていく。だがあの怪物のことを思い出し、すぐに跳ね起きた。


 額から鼻先へと汗の粒が伝う。立ち上がると、すでに夜が訪れていた。


「夜の森の方が危険かどうかわかんねぇけど……ゲームとか漫画だと大体そうだよな」


 もう一度森の中へ入ろうとしたが、恐怖でその場から動けなかった。


「よし……」


 勇気を振り絞り、一歩前へ踏み出す。森に足を踏み入れると、そこは完全な暗闇だった。月明かりすら届かない。


 数秒間、じっと立ち止まっていた。だがその間に、粘つく液体が何か上から落ちてきた。


「うえ」


 見上げると、人間じみた頭を持つ巨大な蜘蛛が、じっとこちらを見つめていた。


 全身の毛が逆立つ。一秒も無駄にせず、振り返らずに走った。


「くそ、くそ、くそ、くそ!」


 一瞬だけ後ろを振り返った、その瞬間、別の怪物にぶつかった。


「抵抗するな。お前は生贄だ」


 ぶつかった怪物がそう言った。低く威圧的な声。身長は二メートルを超え、四本足、顔は複数の動物と人間の顔が幾重にも重なったように歪んでいた。


 孝盛は一瞬呆然としたが、引き返そうとした――もう遅かった。先ほどの怪物によって、退路は塞がれていた。


 最後に、さらに二体の怪物が両脇に現れた。


「放してくれ、頼む……」


 四体の化け物はただ奇妙な唸り声を上げ、力ずくで孝盛を地面に押さえつけた。


 体のあらゆる部分に鋭い痛みが走るのを感じるだけだった。だがその中の巨大な一体が、爪で腹を引き裂いた。


 孝盛は痛みに絶叫した。やがて声も途切れ、口から出たのは血の塊だけだった。体の感覚は次第に失われ、ついには何も感じなくなった。


『これで終わりか……』

 死んでいく自分をなおも見つめながら、そう思った。巨大な怪物がこちらを振り向き、頭を踏み潰した。


「死にたく……」


 それが最後に言えた言葉だった。その瞬間、西郷孝盛は命を落とした。

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