第08話 コーヒーが山積みの自宅で
「ここだよ〜」
連れてこられたのは、レントが住んでいる部屋とはあまりにもかけ離れた場所だった。
古びたボロアパートの廊下。薄い壁、軋む床、少し大きな声を出せば隣の部屋まで筒抜けになりそうな、そんな気配が漂っている。
「鍵あけるね〜」
カバンの中をごそごそと探りながら、ルウが鍵を取り出す。その背中を眺めながら、レントは心の中で静かに葛藤していた。
(ついてきてしまった……。年頃の女の子の家に上がり込むって、大丈夫なのか。変なことにならないよな……いや、大丈夫だ。今の私はレンちゃん。パーフェクトインフルエンサーとして、ルウのお姉ちゃんとして振る舞えば問題ない……はず!)
ガチャ、と鍵が開く。
「どうぞ〜」
「お、おじゃまし……」
踏み入れた瞬間、レントの言葉が止まった。
約4畳ほどの部屋だった。寝床と、人がひとり立てるだけの床面積を残して、あとはすべて、壁だった。正確には、壁に設置された棚。そしてその棚に、ギッチリと隙間なく詰め込まれた、コーヒー豆の瓶、瓶、瓶。低いところから高いところまで、天井に届きそうな棚の最上段は、壁際に置かれた脚立がなければ手が届かないだろう。安い豆から手の届かないような高級品まで、それぞれが何らかの法則に従って整然と並んでいる。雑然としているはずなのに、どこか美しさすら感じさせる光景だった。
レントは、ごくりと息を飲んだ。
「ほら見て〜、これがホワイトエボニーだよ〜」
「……」
「あっ、こっちはコラ・ラピス〜」
嬉しそうにコーヒー豆を物色しながら話し続けるルウを眺めて、レントはぼんやりと思った。
(僕はまだ、ルウというケモノを理解しきれていなかったみたいだ)
「このちっちゃいのが、ニア・ルビー〜。ほら、嗅いでみて」
ルウが瓶の蓋をパカッと開けて、レントの鼻先に差し出す。
「え、う、うん……」
恐る恐る嗅いでみると。
「た……確かに。本物だわ、これ」
間違えようがない。商社でコーヒー豆を扱ってきたレントの鼻が、それを正確に認識していた。何万円もする高級コーヒーの匂いが、このぼろアパートの一室から漂っている。
「でも……さっきも聞いたけど、バイトだけでこれ全部は」
「うん、だから夜も工事現場とかで働いてるんだ〜」
「なっ!?」
思わず声が出た。
工事現場。身長120センチほどの、この小柄なケモノが。給与は確かにいいだろうが、工事現場というのは本来、大型のケモノが働く場所だ。それをこの子が、夜に、ひとりで。
「ルウ……無理してない?」
レントはそう言いながら、ルウの顔を覗き込んだ。
ルウはわずかに目をそらした。それでもいつも通りの、何でもないような声で答える。
「ん〜どうかなぁ〜。コーヒーをいろいろ知ったほうがいいかなぁって思って」
少しだけ、話をそらすように。
「そしたらなんだか止まらなくなっちゃって〜」
レントは部屋を見渡した。ざっと数えるだけで、数十本の瓶。一体いくらつぎ込んだのか。それに、と心の中でツッコみながら視線を動かす。
(整理はされてるけど……温度管理も湿度管理も直射日光対策も、めちゃくちゃじゃないの。これではせっかくの高級豆が台無しだわ)
豆を集めることへの情熱は本物だが、管理の知識まではまだ追いついていないらしい。
「ねえ、ルウ」
「なあに〜、レンちゃん」
レントはキリッと表情を作った。
「今度から欲しいものがあったら、私が買ってあげる。工事現場なんてやめておきなさい。ただでさえあなた小柄なんだから」
ルウはいつものふわっとした顔で「え〜でもレンちゃんに悪いし〜」と首を傾げた。
「悪くない! 言ったでしょう、私も手伝うって」
何が何でも工事現場の仕事をやめさせたかった。しかしルウは少し間を置いてから、静かに言った。
「うん……でも。お父さんの匂い、自分で見つけたいから」
「……っ」
レントは言葉に詰まった。
「レンちゃんにお金を出してもらったら、なんか……違うかなぁって」
はあ、とレントはため息をついた。きっとこの意思は、曲がらない。
「言っても聞かないか。豆を買う部分は、自分でやりたいってことね」
「うん、ありがとぉ〜」
「……まったく」
それならせめて、と心の中で決める。豆にたどり着くための道を、できるだけ広げることが自分にできることだ。商社のコネも、知識も、全部使う。
「あ、そうだ」
ルウが何かを思いついたように声を上げ、部屋の中をごそごそと物色し始めた。
「とっておきがあるから、レンちゃんに嗅いでほしいの」
がさがさと棚を漁って「あった! これ嗅いでみて!」と、小ぶりな瓶をレントに差し出す。
「ふむ……どれどれ」
瓶に鼻を近づけた、その瞬間。
レントの目が、見開いた。
(……!?)
間違えるはずがない。コーヒーの頂点に立つと言われる、あの豆の匂い。普通に考えて、こんな場所にあっていい豆ではない。それがルウの手のひらの上の小さな瓶の中に、確かに存在している。
「ルウ……あなた、これ……!?」
「ロマーネ・コティアだよ〜」
「ひゃ、100万円の豆を!!こんな雑に保管すな──!!」
「すな──!」「すな──!」
レントの叫びが、薄い壁に反響して、こだまのように響き渡った。




