第05話 涙が止まらない獣生で
(……今、この子、なんて言った?)
ルウはそんなレントの内心などまるで知らないように、いつもと変わらない調子で続ける。
「でね〜、公園のベンチってけっこう硬くて〜。背中が痛くなっちゃうんだよ〜」
「ちょ、ちょっと待って」
レントはルウの言葉を遮った。自分でも驚くほど、声が上ずっていた。
「さっき言ってた……お父さんもお母さんもいない、って」
「そのままの意味だよ〜」
ルウは当然のように答える。その顔に、影ひとつない。
レントはじわりと汗をかきながら、できるだけ穏やかな声を絞り出した。
「えっと……ご両親が遠くに住んでいるとか、連絡が取れないとか、そういう……」
「ふたりとも、死んじゃったの」
喫茶店の中で、音が消えた。
カウンターの奥でマスターがコーヒー豆を挽いている、低くゴリゴリとした音だけが、静かに部屋を満たしていた。
しばらくの沈黙の後、レントはようやく口を開く。
「……すまない。嫌なことを思い出させちゃったね」
するとルウは、ぽかんとした顔でこちらを見た。
「なんでレンちゃんが謝るの〜?」
その表情に、責める色は微塵もなかった。
レントはそっと息を吐く。そうか、とだけ思った。ルウはこういう子なのだ。悲しみを悲しみとして抱えたまま、それでも今日をふわふわと生きている。
「今は一人で暮らしてるの?」
「ん〜、そんな感じ〜」
ルウは屈託なくガッツポーズを見せた。
「アルバイトの給料だけで?」
「うん! ちゃんとご飯食べてるから大丈夫だよ〜」
どや顔でキバをキラリと輝かせる。そのあまりにも無防備な笑顔が、レントの胸のどこかを、じくりと刺した。
「生活のためなら、僕と仕事をした方がきっと楽になる。本当に、そう思ってる」
「えへへ〜。レンちゃんはやっぱりやさしいね〜」
ルウは目を細めた。それからすこし間を置いて、ぽつりと言った。
「でもね〜、ルウにもここで働きたい理由があるんだよ〜」
「……理由?」
「うん。ちょっとだけ、昔の話してもいい?」
レントは静かに頷いた。
*
記憶の中のルウはちいさかった。
コーヒーの匂いがする朝が、当たり前だった。お父さんがカップを持って、湯気の立つ黒い液体をゆっくりと飲んでいる。その匂いがかすかに鼻をかすめるたびに、今日もお父さんいるな〜と感じていた。
「ん〜、苦い匂い〜」
「苦いけど、落ち着く匂いだろう」
「え〜、そうかなぁ」
「ルウにはまだ早いかもしれないなぁ」
お父さんはそう言って笑った。
ある日を境に、その匂いが消えた。
理由はよくわからなかった。ただ、お母さんがとても忙しくなった。朝から晩まで働いて、帰ってきたらそのまま倒れるように眠る日もあった。床に崩れ落ちているお母さんを見るたびに、ルウは静かに隣に座った。今日は、そばにいよう。それだけを思いながら。
学校には、まともに行けなくなった。たまに顔を出せば、教室の隅でひそひそと囁かれた。背中に針を刺されるような視線。だから自然と、足が向かなくなった。
それでもよかった。お母さんといっしょにいられれば、それで。
だけどある日の朝、お母さんは目を覚まさなかった。
周りの大人たちがいろいろな話をしていたけれど、難しくてよくわからなかった。気がつけばルウはひとりで、公園のベンチに横になっていた。夜風が冷たかった。空には星があった。
*
「でもある日ね、ふわ〜って、お父さんのコーヒーの匂いがしたの」
ルウは手のひらの上でコーヒー豆をころころと転がしながら、穏やかに続ける。
「それが喫茶店のコーヒーの匂いだってわかって。ここに来たら、お父さんに会える気がしたんだ」
レントは何も言えなかった。
「だからね〜、お父さんが飲んでたのと同じ匂いの豆を、ずっと探してるの。どこかにあるはずでしょ〜?」
ルウはコーヒーカップを両手でそっと包み、立ち上る湯気を静かに嗅いだ。
「ここね〜、ちょっとだけ似てる匂いがして。お父さんと全然一緒じゃないけど、近いかも〜って感じがするから。だからここでお手伝いしてたいんだ〜」
言いながら、ルウの尻尾がゆっくりと揺れた。控えめに、でも確かにうれしそうに。
「レンちゃんが誘ってくれるの、ほんとうにうれしいよ」
真っ直ぐに、レントを見て。
「でも、レンちゃんのお仕事ってすごいから、きっといつか違う場所に行っちゃうでしょ〜? 今はルウ、ここでコーヒーを探してたいんだぁ〜」
レントはただ、聞いていた。
父も母も亡くして。学校にも行けなくて。公園で夜を越えて。それなのにルウは今日も、こんなふうに笑っている。あたりまえみたいな顔をして、あたりまえみたいに今日を生きている。
自分はなんと恵まれていたことか。
そして、ルウに向かってなんと的外れなお願いを重ねていたことか。
気づいたとき、レントはルウの手を握っていた。
ぎゅっと。
「ほっ、ほえ〜!?」
突然のことにルウが目を丸くして小さな悲鳴を上げる。
「コーヒー探しを、僕も手伝う」
静かだが、揺るぎない声だった。
「は、はわわ……いいのぉ〜?」
「ああ。絶対に見つけてやる」
ふたりの間にあった何かが、そっと溶けた気がした。
「絶対に見つけるぞ!」
「お〜っ!」
盛り上がるふたりを、カウンターの向こうからマスターが穏やかな目で見ていた。そしてひとこと。
「盛り上がってるところ悪いけどね。ルウちゃん、仕事に戻ろうね」




