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第13話 匂いが嘘をつかない世界で

雨は上がっていた。


しんと静まり返った病院の廊下に、窓から街灯の明かりが細く差し込んでいる。嵐の後の世界は、どこかひどく穏やかで、そのくせルウの胸の中だけが、まだ荒れ続けていた。


「ルウさん、大丈夫ですよ。ちゃんとよくなりますから」


ずっとそばにいてくれていた看護師が、優しい声でそう語りかけた。


「……うん」


もうほわほわと笑っていた面影は、どこにもない。別人のように静かになってしまったルウが、かすれた声でそう返した。


「泣いてもいいんです。気持ちは出したほうがいいですから」


その言葉に、また奥から涙がじんわりと滲んでくる。


しばらくして、ようやく嗚咽が収まってきた。けれど、心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったような感覚は、消えなかった。


「何かあれば、すぐに呼んでくださいね」


看護師は静かに部屋を出ていった。


広すぎる病室に、ルウひとりが残された。窓の外に浮かぶ街灯の明かりにすがるように、ルウはぽつりと名前を呼んだ。


「レンちゃん……」


コン、コン。


扉をノックする音がした。


(……?)


看護師なら、ノックしながらそのまま声をかけて入ってくる。ナースコールも押していない。


ガラガラと、扉が開く。


ルウは目を見開いた。


ボサボサに乱れた髪。目の下に刻まれたクマ。よれたスーツ。それでも、間違えるはずがない。


レンちゃんが、そこに立っていた。


「……れ」


声が出ない。息ができないほど苦しい。


カツン、カツンと、革靴が床を鳴らしながら近づいてくる。


「レ゛ンちゃん……!」


前のめりになりながら、「あ゛っ……ひぐっ……」と必死に涙をこらえて、言葉にならない感情をぶつけようとする。どれだけ渇望していたか、自分でも驚くほどだった。


そのとき、レンちゃんがルウの目の前に何かをそっと差し出した。


紙袋だった。


「ご゛れ……なに゛ぃ〜」


「嗅いでみて」


レントは真剣な顔でそう言った。いつもの軽口も、照れ隠しも、何もない。ただ真っ直ぐな眼差しだけがルウに向けられていた。


「で゛も……ルウ……まだ……」


「……いいから」


ルウは紙袋を受け取った。震える手でそれを開く。中には、コーヒー豆が入っていた。


ゆっくりと、鼻を近づける。


そして――


(あっ……)



「わぁ〜、いい匂い〜」


大きなコーヒーカップと小さなコーヒーカップが並んでいる。湯気がふわりと立ち上って、柔らかな光の中に溶けていく。


懐かしい声が、確かな輪郭を持って聞こえてきた。


「だろ〜」


忘れるはずがない。


この匂いを、ずっと覚えていると、約束したのだから。


「これ、絶対覚えとく〜!」



「これ……!」


もう、涙は止まらなかった。


「ご゛れだよ……レンちゃん……お父さんの……匂い……」


消えていた火が、またしっかりと灯った。胸の中で、ぽっと。確かに、温かく。


「こわか゛った……全部消えちゃったと思った……」


涙で前が見えない。それでも。


「レンちゃんの匂い……ちゃんとわかるよ〜……」


レントの口もとが、静かに、優しく緩んだ。


「ちゃんとここにいるって……わかる」


泣きながら、それでもどうしても気になって、ルウは問いかけた。


「なんで……お父さんの豆……」


レントはボサボサになった頭をポリポリとかきながら、少し間を置いた。


「ああ、それはまあ……話せば長くなるんだけど」



数日前のことだ。


「嗅覚は、自分を追い込みすぎると消えることがある」


レントは空港にいた。じっとしていることなどできなかった。


「あの匂いを見つけられたら……原因が過労による心因性なら」


やるしかない。


搭乗口に向かいながら、レントは心の中でそう決めていた。飛行機に乗り込み、窓の外が暗くなっていくのを眺めながら、ルウの顔を思い出していた。倒れた夜のこと。病室で初めて見せた怯えた表情のこと。


三十時間かけて、セーロへ向かった。


現地での捜索は、過酷だった。手がかりはほとんどない。山ひとつとはいっても、広大な面積がある。現地の言葉は多少わかっても、コミュニケーションがうまく取れるかどうかはまた別の話だ。スマートフォンは電波が届かなくなり、風呂にもまともに入れない。それでも、足は止まらなかった。


あの匂いを見つける。ただそれだけが、レントを動かしていた。


「これか……? 違う……こっちも……違う」


汗をかきながら麻袋をひとつひとつ開けていく。セーロの山の空気は薄く、体が重かった。


(ルウの鼻があれば一発でわかるのに)


でも、ルウはここにいない。ルウのために来たのだから。自分がやるしかない。


「キミ」


ふいに、老いた声が背中にかかった。


振り返ると、しわ深い顔をした老齢のケモノが立っていた。静かな目で、じっとレントを見ている。


「はい……何でしょう」


「いや、すまんな。昔、必死に豆を探していたケモノを思い出してな。今のお前さんと、同じような顔をしておったから、つい声をかけてしまって」


何か含みのある言い方だった。レントは姿勢を正した。


「実は、この山で数年前まで農家をやっていた方を探しているんです。今は廃業してしまったようで、なかなか連絡が取れなくて」


「ふむ……そうか。あのケモノも、豆を探していたな」


老人はどこか遠くを見るような目で言った。


「誰かの記憶になる豆を探していると、そう言っておった」


「あの……それって」


「娘がいると言っておったな。親子そろってこの豆が好きになったと、うれしそうに話していた」


胸の奥で、何かが震えた。


「その娘さんも、もう大きくなっているだろう。あのケモノと新しい市場を創ろうと意気込んでいたが……昔の話だ」


「それって……その豆って……!」


「ほら、これだ」


老人が差し出した小さな麻袋を受け取った瞬間、レントは息を呑んだ。


鼻を近づけなくても、わかった。


これだ。


「……あった」



「……ったく、大変だったんだぞ。現地ではスマホも通じないし、ろくに風呂にも入れなかったし」


ルウは涙目のまま、ふと鼻をつまんだ。


「だからレンちゃん、くさいんだね〜」


「そこ! 泣きながら鼻をふさぐな! 仕方ないだろ!」


レントは盛大にため息をついた。


「……しかしまあ」


少し間を置いて、レントは続けた。


「ちゃんと覚えてたんだな、お父さんの匂い」


その言葉に、ルウは「あっ……」と小さく声をこぼした。


目の前のレンちゃんに、重なるものがあった。温かくて、優しくて、コーヒーの匂いがして、笑顔でそこにいてくれた。


お父さんの面影が。


「レンちゃんは……お姉ちゃんで……お兄ちゃんで……お父さん……?」


ぼろぼろとまた涙が落ちてくる。


「おいおい、一匹で何役させるんだ」


目の下にクマを作ったレントが、苦笑いした。


その瞬間。


「おわっ」


ルウがレントに向かって、勢いよく飛びついた。


これまで流してきたどんな涙よりも、ずっとずっとたくさんの涙を流した。お父さんを失ったときも、お母さんを失ったときも、公園のベンチで夜を越えた日も、ずっとこらえ続けてきた涙が、堰を切ったように溢れていた。


そんなルウを、レントはただ、静かに包み込んだ。


言葉はなかった。


それでも、確かに伝わるものがあった。


ここにいる。ちゃんとここにいる。


匂いは、嘘をつかない。


この世界に満ちているすべての匂いの中で、ルウが一番好きな匂いは、今、すぐそこにあった。

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