第12話 笑顔が残した思い出で
入院してから、数日が経った。
ルウは少しずつ、病院での生活に慣れ始めていた。
「今日の夕食です」
看護師がトレーを運んでくる。「ありがと〜」と受け取って、ルウはいつものようにくんくんと鼻を動かした。
(ごはんの匂い、ぜんぜんしないなぁ〜)
味覚は消えていない。それでも、匂いが消えたことで、おいしさの輪郭が薄れてしまった。口に運んでも、何かが足りないような気がする。何が足りないのかは、もうわかっていた。
ひとりの病室は、静かだった。
レンちゃんも、最近はお見舞いに来ていない。数日前からメッセージへの返信も来なくなった。スマートフォンの画面には、既読のつかないメッセージが並んでいる。
「レンちゃ〜ん」「お〜い」「ルウだよ〜」「ウルウルウだよ〜」
青いまま変わらない、既読なしの文字列。
「……たいくつだなぁ」
ルウはそう、ぽつりとつぶやいた。
さらに数日が過ぎた。
スマートフォンの待ち受け画面には、昔描いたお父さんの似顔絵が表示されている。へたくそだけれど、一生懸命描いた絵だ。どれだけ時間が経っても、消す気になれなかった。
レントからの通知は、今日もない。
「レンちゃん、忙しいのかなぁ〜」
ルウはベッドのシーツをキュッと握った。
普段は焦ることを知らない。待つことが苦手だと思ったこともなかった。けれど今は、じわじわと、何かが内側から崩れていく感覚がある。
(それとも……ルウが匂いわかんなくなっちゃったから、来なくなっちゃったのかなぁ〜)
静かに、思考がそちらへ流れていく。
視線を横に向けると、テーブルの花瓶に白いマーガレットが凛と咲いていた。レントがお見舞いに持ってきてくれたものだ。ルウはそっと花瓶を手に取り、鼻を近づけた。
くんくん、と。
(レンちゃんが持ってきてくれたお花、どんな匂いがするんだろ〜)
何も届かない。今のルウには、想像することしかできなかった。
まるで、世界にひとりだけ取り残されてしまったような気がした。
レンちゃんは、どうしてあんなに一生懸命になってくれていたのだろう。
豆探しはルウの鼻がなければできない。チラリと、もしかしてルウに関わってくれていたのは、やはり嗅覚が目当てだったのではないか、という考えが心をよぎった。
疑いたくない。でも、打ち消す言葉を、今のルウは持っていなかった。
「レンちゃんがいないと、寂しいよ」
レントはルウにとって、お姉ちゃんみたいで、お兄ちゃんみたいだった。温かくて、優しくて、ほわっとした匂いがして。いつの間にか、そこにいることが当たり前になっていた。
窓の外で、雨が激しく鳴いている。
レンちゃんは商社で働いていて、いろんなケモノに電話をかけて、コネをたくさん使って……。そんなこと、ルウにはできない。ルウがお父さんの豆にここまで近づけたのは、ぜんぶレントの力があったからだ。
(匂いもわかんないし。もう……お父さんのコーヒー、探せないのかなぁ……)
何かが崩れていくスピードが、じわじわと加速していく。
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――お父さん。
「ルウもコーヒー飲んでみるかい?」
「え〜にがそ〜」
お父さんはくんくんと、とても穏やかな顔でコーヒーを嗅いでいた。湯気が静かに立ち上っている。
「苦いよ〜。でも、この匂いがいいんだよ」
「それ、ルウにもわかる! いい匂いする!」
「だろ〜。ルウはお父さんに似て鼻がいいからね」
「ルウ、この匂い絶対に忘れない〜!」
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「……お母さん?」
お母さんは、普段は絶対に着ないような真っ黒な服を身にまとっていた。ルウの手を握るその手に、じんわりと力が込められていた。
「ルウ……お父さんはもうここにいないけど。でも、覚えているでしょ? お父さんの匂い」
枯れ果てた涙の跡が残る、優しい瞳でお母さんはルウを見つめた。
「うん……ちゃんと覚えてる〜」
コクリと頷いた。
お母さんがルウをそっと、強く抱きしめた。
「……辛くても、笑って生きていこうね」
このとき、お母さんが何を言っているのか、ルウにはよくわからなかった。お父さんの匂いが急になくなってしまった理由も、まだ理解できていなかった。
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お母さんは、いつも笑顔だった。
誰よりもパワフルで、誰よりも優しくて。そして、笑顔のまま、いなくなった。
お母さんも笑ってたのに。笑ってたのに、いなくなっちゃった。
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(……ルウも、お母さんみたいになっちゃうのかなぁ)
ルウの瞳が歪んだ。涙が、じわりと浮かんでくる。
「やだよ……」
まだ、お父さんのコーヒー、見つけていない。
まだ、生きていたい。
レンちゃんと……。
「まだ一緒にいたいよおおお!!」
お父さんとお母さんがいなくなってから、一度も泣かなかった。ずっとふわふわと笑って、笑って、笑い続けてきた。
その堰が、今夜、崩れた。
雨の音が窓の外で鳴り続ける中、ルウの嗚咽が病室に響いていた。




