第11話 カタチがわからない病室で
──深夜。
音が消えてしまったかのような病院の廊下で、レントはひとりうつむいていた。
あの時、気づいていたのに。歩くのが少し遅かった。声のトーンが、いつもと違った。なのに、何も言わなかった。
カチ、カチ。時計の秒針が、静寂に沈んだ廊下に、ただただ規則正しく響いている。
今日は楽しかった。
雨が降り始めた街の中で、ルウはそう言っていた。その顔が、頭の中から消えない。
楽しかった……か。
ガラガラ、と診察室の扉が開いた。
「レントさん、よろしいですか」
医師が廊下に姿を現す。レントは弾かれたように立ち上がった。
「ルウは──」
取り乱した声が、廊下に響いた。優秀なサラリーマンの顔は、そこにはなかった。
「落ち着いてください。命に別状はありません」
その言葉を聞いた瞬間、レントの体からふっと力が抜けた。
「そう……ですか……よかった……」
声に、元気はなかった。
「今回の失神は、慢性的な過労による自律神経の疲弊が原因です。数日前から微熱が続いていませんでしたか?」
「いえ……わかりません……」
「栄養状態も良くありません。夜間も働いていたりとか?」
「……働いているとは、聞いていました」
わかっていた。工事現場で夜も働いていることも、小柄な体に無理をかけていることも。それでも、止められなかった。レントはじわりと、自分がルウのことを何も知れていなかったのだと気づいた。
「しばらく安静が必要です。今夜は目が覚めないかもしれません。変化があればすぐにお呼びします」
「……わかりました」
*
廊下のソファに、ドサッと腰を落とした。
夜の病院に、どこかから子供の泣き声が響いていた。ルウだけでなく、たくさんのケモノがここにいる。それぞれの事情を抱えて、それぞれの夜を過ごしている。
(自分とルウの関係って、一体なんなんだろう)
心が迷子になりかけていた。
会社に連絡しておかないと。でも、それより先に後悔だけが溢れてくる。あの時止めていれば。ちゃんと気づいていれば。どれだけ考えても、気持ちは落ち着かない。
やがて、廊下の窓に朝の光が差し込んでいた。
「レントさん、ルウさんが目を覚ましました。病室へいらっしゃいますか?」
看護師の声に顔を上げる。レントは一晩で乱れた髪のまま、力なく頷いた。
「はい」
*
病室のドアを開けると、ベッドの上に小さなケモノの後ろ姿があった。
朝の柔らかな光を浴びて、輪郭がほんのりとぼやけている。そのまま溶けて消えてしまいそうな、危うい雰囲気をレントは感じた。
「ルウ」
窓を見つめているルウの背後から、静かに声をかけた。
「あれ……レンちゃん? いたの〜……?」
「……いたよ。ずっといた」
ルウはきょろきょろと周囲を見回した。
「ここどこ〜?」
「病院。ルウは倒れたんだよ」
きょとんとした表情が、ふにゃりと崩れる。いつもの笑顔に似ているが、どこか元気がない。
「あはは〜……そっか〜。ごめんね、レンちゃん。びっくりさせたね〜」
レントは俯いたまま、何も言えなかった。
「よいしょっと〜」
ルウがベッドから降りようとする。
「あれ〜、なんか体が重いかも〜」
「無理しなくていい。点滴が入ってるから」
そっとルウの肩を支えて、ベッドに戻した。
しばらく静かな時間が流れた。
「それにしても、不思議だな〜」
ルウがぽつりと言った。
「いつもレンちゃんがいたらすぐわかるのに〜」
そう呟きながら、ルウは自分の体をくんくんと嗅ぎ始めた。普段はしない動作だ。
「どうした、ルウ」
レントが声をかけた瞬間。
「ガシッ」。
ルウに腕を勢いよく掴まれた。
「おわっ!?」
ルウはそのままレントの手を引き寄せ、真剣な顔で嗅ぎ始めた。
「なんだ!? どうした!?」
しばらく間があった。
「……なんか、わかんない〜」
「……え?」
「なんでかな〜。レンちゃんの匂い、わかんないや〜」
冷や汗が、背中を流れた。
「わかんないって……他の匂いは!?」
ルウはふんわりとした様子で首を傾げた。
「ん〜……なんか、そこにいないみたい〜。いつもは匂いでカタチがわかるのに〜」
嗅覚が、消えている。
「お鼻、壊れちゃったのかな〜?」
ルウは自分に何が起きているのか、まだ理解していないのかもしれなかった。
しかし、レントにはわかった。
ケモノ社会において、インフラはケモノの嗅覚に深く依存している。視力を失うことと嗅覚を失うこと、どちらがより深刻かと問われれば、嗅覚の喪失の方が、日常のあらゆる場面に影を落とす。ルウにとってはなおさらだ。嗅覚こそが、ルウの世界そのものだったのだから。
「すまない……僕がもっと早く気づいていれば」
「なんで謝るの〜? 気にしないで〜」
気にせずに、なんていられなかった。
「レントさん、そろそろ面会終了のお時間です」
看護師の声が廊下から届いた。
「そのまだ……! えっと……」
ここで何ができるか、頭の中を探した。何もなかった。駄々をこねて病院に迷惑をかけるわけにはいかない。ただのわがままだ。
「……わかりました」
トボトボと、扉の方へと足を向ける。振り返って、できるだけ普通の顔を作った。
「じゃあ、ルウ。ゆっくり休むんだよ」
「うん、またね〜」
ルウはほんわりとした顔でレントを見送った。
扉が閉まった。
病室に、静けさが戻る。
ルウはひとりベッドに横たわり、ただ天井を見上げてため息をついた。
「……匂いのない世界って、寂しいな〜」
いつものふわふわとした声だった。
ただ、その輪郭だけが、少し歪んでいた。




