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第11話 カタチがわからない病室で

──深夜。


音が消えてしまったかのような病院の廊下で、レントはひとりうつむいていた。


あの時、気づいていたのに。歩くのが少し遅かった。声のトーンが、いつもと違った。なのに、何も言わなかった。


カチ、カチ。時計の秒針が、静寂に沈んだ廊下に、ただただ規則正しく響いている。


今日は楽しかった。


雨が降り始めた街の中で、ルウはそう言っていた。その顔が、頭の中から消えない。


楽しかった……か。


ガラガラ、と診察室の扉が開いた。


「レントさん、よろしいですか」


医師が廊下に姿を現す。レントは弾かれたように立ち上がった。


「ルウは──」


取り乱した声が、廊下に響いた。優秀なサラリーマンの顔は、そこにはなかった。


「落ち着いてください。命に別状はありません」


その言葉を聞いた瞬間、レントの体からふっと力が抜けた。


「そう……ですか……よかった……」


声に、元気はなかった。


「今回の失神は、慢性的な過労による自律神経の疲弊が原因です。数日前から微熱が続いていませんでしたか?」


「いえ……わかりません……」


「栄養状態も良くありません。夜間も働いていたりとか?」


「……働いているとは、聞いていました」


わかっていた。工事現場で夜も働いていることも、小柄な体に無理をかけていることも。それでも、止められなかった。レントはじわりと、自分がルウのことを何も知れていなかったのだと気づいた。


「しばらく安静が必要です。今夜は目が覚めないかもしれません。変化があればすぐにお呼びします」


「……わかりました」



廊下のソファに、ドサッと腰を落とした。


夜の病院に、どこかから子供の泣き声が響いていた。ルウだけでなく、たくさんのケモノがここにいる。それぞれの事情を抱えて、それぞれの夜を過ごしている。


(自分とルウの関係って、一体なんなんだろう)


心が迷子になりかけていた。


会社に連絡しておかないと。でも、それより先に後悔だけが溢れてくる。あの時止めていれば。ちゃんと気づいていれば。どれだけ考えても、気持ちは落ち着かない。


やがて、廊下の窓に朝の光が差し込んでいた。


「レントさん、ルウさんが目を覚ましました。病室へいらっしゃいますか?」


看護師の声に顔を上げる。レントは一晩で乱れた髪のまま、力なく頷いた。


「はい」



病室のドアを開けると、ベッドの上に小さなケモノの後ろ姿があった。


朝の柔らかな光を浴びて、輪郭がほんのりとぼやけている。そのまま溶けて消えてしまいそうな、危うい雰囲気をレントは感じた。


「ルウ」


窓を見つめているルウの背後から、静かに声をかけた。


「あれ……レンちゃん? いたの〜……?」


「……いたよ。ずっといた」


ルウはきょろきょろと周囲を見回した。


「ここどこ〜?」


「病院。ルウは倒れたんだよ」


きょとんとした表情が、ふにゃりと崩れる。いつもの笑顔に似ているが、どこか元気がない。


「あはは〜……そっか〜。ごめんね、レンちゃん。びっくりさせたね〜」


レントは俯いたまま、何も言えなかった。


「よいしょっと〜」


ルウがベッドから降りようとする。


「あれ〜、なんか体が重いかも〜」


「無理しなくていい。点滴が入ってるから」


そっとルウの肩を支えて、ベッドに戻した。


しばらく静かな時間が流れた。


「それにしても、不思議だな〜」


ルウがぽつりと言った。


「いつもレンちゃんがいたらすぐわかるのに〜」


そう呟きながら、ルウは自分の体をくんくんと嗅ぎ始めた。普段はしない動作だ。


「どうした、ルウ」


レントが声をかけた瞬間。


「ガシッ」。


ルウに腕を勢いよく掴まれた。


「おわっ!?」


ルウはそのままレントの手を引き寄せ、真剣な顔で嗅ぎ始めた。


「なんだ!? どうした!?」


しばらく間があった。


「……なんか、わかんない〜」


「……え?」


「なんでかな〜。レンちゃんの匂い、わかんないや〜」


冷や汗が、背中を流れた。


「わかんないって……他の匂いは!?」


ルウはふんわりとした様子で首を傾げた。


「ん〜……なんか、そこにいないみたい〜。いつもは匂いでカタチがわかるのに〜」


嗅覚が、消えている。


「お鼻、壊れちゃったのかな〜?」


ルウは自分に何が起きているのか、まだ理解していないのかもしれなかった。


しかし、レントにはわかった。


ケモノ社会において、インフラはケモノの嗅覚に深く依存している。視力を失うことと嗅覚を失うこと、どちらがより深刻かと問われれば、嗅覚の喪失の方が、日常のあらゆる場面に影を落とす。ルウにとってはなおさらだ。嗅覚こそが、ルウの世界そのものだったのだから。


「すまない……僕がもっと早く気づいていれば」


「なんで謝るの〜? 気にしないで〜」


気にせずに、なんていられなかった。


「レントさん、そろそろ面会終了のお時間です」


看護師の声が廊下から届いた。


「そのまだ……! えっと……」


ここで何ができるか、頭の中を探した。何もなかった。駄々をこねて病院に迷惑をかけるわけにはいかない。ただのわがままだ。


「……わかりました」


トボトボと、扉の方へと足を向ける。振り返って、できるだけ普通の顔を作った。


「じゃあ、ルウ。ゆっくり休むんだよ」


「うん、またね〜」


ルウはほんわりとした顔でレントを見送った。


扉が閉まった。


病室に、静けさが戻る。


ルウはひとりベッドに横たわり、ただ天井を見上げてため息をついた。


「……匂いのない世界って、寂しいな〜」


いつものふわふわとした声だった。


ただ、その輪郭だけが、少し歪んでいた。

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