第10話 孤独がなくなった後で
昼下がりの喫茶店に、スーツ姿のレントの声が静かに響いていた。
「そうですか……非常に頼りになります」
カウンターの向こうで、メイド服姿のルウが拭き掃除の手を止め、その様子をそっと見守っている。
「見つかったら、二匹とも喜ぶと思います。ええ、では、失礼します」
電話が終わったのを見計らって、ルウが駆け寄ってきた。
「どうだった〜?」
「農家とはまだ連絡が取れていないって。ただ、現地でも動いてくれるそうだ」
ルウの目がぱっと輝いた。
「現地でも!! すごいなぁ〜。ルウ、待てるよ〜」
ほわほわとした声でそう言って、またテーブルの拭き掃除に戻っていく。レントはその後ろ姿を眺めながら、この子は本当に慌てないなと思った。
鼻歌を歌いながら布巾を滑らせているルウを見つめていると、しばらく豆探しはお休みか……と、ぼんやりと考えが漂い始めた。そして、思いついたように口を開く。
「なあルウ、今夜飯でも食べて帰らないか?」
「いいね〜!」
返事と同時に、しっぽがブンブンと揺れ始めた。
「今日は夜のお仕事ないから大丈夫だよ〜」
ニコニコとそう言い放った瞬間、レントはコーヒーを盛大に吹き出した。せっかく拭いたばかりのテーブルが、あっという間に台無しになる。
「夜のお仕事って……! そういう誤解を招く言い方はやめなさい! お兄さん怒るよ!」
しかしルウは「え〜? 工事現場バイトのことだよ〜?」と、きょとんとした顔で返した。本当にわかっていない。
レントはルウへの心配をますます募らせながら、工事現場もそれはそれで問題があるんだけどな……と、悩み事がひとつ増えてしまった。
「ほら、早く着替えておいで」
「は〜い!」
しっぽのブンブンを隠そうともせず、ルウは勢いよくお着替えへと向かった。
*
「お待たせ〜」
着替えてきたルウのシャツには、大きな文字が躍っていた。
「露を浴びろ露草」。
いつものダサいシャツだ。しかし本人はまったく気にしていないようで、「お腹すいた〜」とつぶやきながら現れた。
(毎回どこで買ってるんだろう……騙されてないだろうか。ちゃんと服も一緒に選んであげたほうがいいんだろうか)
庇護欲がじわじわと湧き上がってくる。
「どこいくの〜?」
「近所でいいところ知ってるんだ」
ふたりは連れ立って、夜の街へ歩き出した。
歩きながら、レントはふと思った。そういえば、レントとしてルウと外出するのは初めてだな、と。
「ねえねえ、レンちゃーん!」
少し前を歩きながら、ルウが振り返った。街の灯りに照らされて、その輪郭がふわりと浮かび上がっている。
「夕方の街ってご飯の匂いがいっぱいするね〜。醤油の匂いと油の匂いと、あとちょっとだけ雨の匂い〜」
「雨……?」
レントは空を見上げた。どこまでも晴れ渡っている。
「後で降ってくるよ〜」
ルウはあっさりとそう言った。この子の鼻が外れたことは、一度もない。きっと本当に降るのだろう。そして、豆を探している時以外も、ずっとこうやって、匂いで世界を読みながら生きているんだな、とレントは思った。
「ここ、派手じゃないけど、おいしいんだ」
立ち止まった先には、のれんのかかったこじんまりとした店があった。
ルウがくんくんと鼻を動かす。「いい匂い〜。だしの匂いがする〜」
ガラガラと引き戸を開けると、奥から「いらっしゃい。何にします」と無愛想な声が飛んできた。頑固親父の定食屋、といった風情だ。壁には板に彫られたメニューが並んでいる。
「ぜんぶおいしそ〜。どうしよ〜」
「迷ったら、僕の推しにしな。鮭定食だ」
「じゃあそれ! レンちゃんとおそろ〜」
しばらくして定食が運ばれてきた。素朴な見た目だが、ふっくらと焼き上がった鮭の切り身に、つやつやのご飯。味噌汁は具だくさんで、湯気が柔らかく立ち上っている。
「いただきます」
ルウが鮭をひとくち食べた。
はぐ、と。
「んん〜!」
幸せな声が、小さくこぼれた。
「おいしい〜!」
「だろ?」
ルウはしばらくもぐもぐと食べ続けてから、ふと顔を上げた。
「レンちゃんとこうやってご飯を食べてると、昔を思い出す〜」
「……昔って?」
「お父さんとお母さんと、三人でご飯を食べてたこと〜」
レントは一瞬、胸がきゅっとなった。しかしルウは構わず、穏やかな顔で続ける。
「みんなでおいしいね〜って言いながら食べてたの。レンちゃんといると、ひとりじゃないな〜って感じるんだ〜」
レントはゆっくりと目を閉じた。
そして静かに、心の中でそう思った。
(それは……お互い様だよ)
箸の音と、味噌汁の湯気と、ルウのゆったりとした声だけが、こじんまりとした店の中に満ちていた。これ以上ない、穏やかな時間だった。
*
「本当に降ってきそうだ」
食事を終えて外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。厚い雲が星を覆い隠し、レントにもはっきりとわかるほど、雨の匂いが空気に滲んでいる。
「言った通りでしょ〜」
ふたりは足を速めた。
「早く帰らないとな」
「待ってレンちゃん、足が早い〜!」
ポタッ、と地面に雨粒が落ちた。
「今日は楽しかった〜」
「そっか。じゃあまた行かないとな」
後ろを歩くルウの顔を、レントはまだ見ていなかった。
「うん! 約束だよ〜!!」
ルウの声は、いつも通りに明るかった。
ポタッ、ポタッ。雨足が強くなっていく。
レントが足元に目を落としながら「やば、本格的に降り始め……」と呟いた、その瞬間。
「ドサッ」。
背後から、何かが地面に倒れる音がした。
振り返る。
ルウが、倒れていた。
「ルウ……?」
頭が理解を拒んだ。一体、何が起きている。雨が強くなっていく。目の前に、ルウが倒れている。動かない。
「ルウ!!」
レントの叫び声は、降り始めた雨の音にかき消されていった。




