エピローグ
晴れた昼下がりの喫茶店に、柔らかな日差しが差し込んでいた。
静かで、穏やかで、世界がひと息ついているような午後だった。
「ただいま〜!」
勢いよく扉が開き、ルウが店内に飛び込んできた。
「おかえりなさい、ルウちゃん」
カウンターの向こうで、マスターが目を細めてそう言った。
そして店内には、もうひとり。
「遅い。もう来てるわよ」
黒とピンクのフリルをまとったレンちゃんが、脚を組んでテーブルに座っていた。今日もパーフェクトインフルエンサーとして、その可愛さに一切の妥協がない。
「え〜! レンちゃん早すぎるよ〜。すぐ準備する〜!」
「ふふ、できるケモノは行動が早いのよ」
ルウがドタバタと店内を移動しようとすると、マスターが穏やかに「走っちゃだめだよ」とそっと諭した。
「というか」
レンちゃんがルウのシャツに視線を落として、固まった。
「何、その服!? どこに売ってるのよそれ!!」
ルウのシャツには、デカデカとこう書かれていた。
「飴玉のアメジスト2」。
どこをどう解釈してもダサい。
「フリマで安く売ってるの〜」
「服屋に行きなさい! というか、私が連れていく!!」
ご乱心のレンちゃんを気にする様子もなく、ルウはふと思い出したようにポケットをごそごそと探った。
「あ、そうだ。はい、これ〜」
取り出したのは、一枚の封筒だった。表には、たどたどしい字でこう書かれている。
「レンちゃんにわたすやつ」
「……なにこれ?」
「豆代〜! ちゃんと計算したよ〜」
お父さんの豆の代金を、自分で払うつもりらしかった。
「いらな……」
「やだ――――――っ!!」
「……久々に聞いたわね、それ」
譲る気はまったくないようだ。レンちゃんはルウの顔を見て、それからため息をひとつついた。
「……ずっと言ってたか。お父さんのコーヒーは、自分で見つけたいって」
「うん!」
ルウはまっすぐにそう言った。その目に、曇りはひとつもない。
「……ありがたく受け取っておくわ」
レンちゃんは封筒を静かに受け取った。ルウはニッコニコのまま、しっぽをゆっくりと揺らしている。
「ほら、バイトなんでしょ。早くメイド服に着替えてきなさい」
「レンちゃんしかお客さんいないし、このままでもいいかな〜?」
「いや、ダメでしょ」
「いいよ」
マスターが静かに乱入した。
「いいの!?」
こうして、私服OKのアルバイトが急遽誕生した。
*
「え〜っと……あった! マスター、これでコーヒー淹れていい〜?」
袋の中から取り出したのは、小さなコーヒー豆の袋だった。
お父さんのコーヒーだ。
「ええ、どうぞ」
ルウはカウンターへ踊るように移動した。踏み台に乗り、背伸びをしながら器具を取り出していく。ポットでお湯を沸かしている間に、手動のコーヒーミルに豆を流し込んだ。
ゴリゴリ、と。
豆が砕かれるたびに、華やかでフルーティーな香りがふわりと立ち上った。ルウの耳がぴくんと動く。目をゆっくりと細めながら、リズムよく、丁寧に豆を挽いていく。その横顔は、いつものふわふわとした表情とは少し違う、柔らかく、真剣な顔だった。
フィルターに粉を移し、少量のお湯をそっと注ぐ。
コーヒーが蒸れ始める。ぷくりと膨らんだコーヒーの粉が、静かに呼吸するように息をついた。香りがさらに広がり、喫茶店全体を満たしていく。
追加のお湯が、丁寧に、細く、円を描くように注がれた。ぽたん、ぽたんと、コーヒーサーバーにしずくが落ちる。時間通り、分量通り。豆のポテンシャルをひとつも取りこぼさないように。ただそれだけを考えながら、ルウは淹れ続けた。
抽出が、終わった。
温めたカップに、美しい琥珀色のコーヒーがゆっくりと注がれていく。
ルウは手を止めて、静かにそう言った。
「お父さん、ルウ、見つけたよ」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
コトン、と。
淹れたてのコーヒーが、レンちゃんの前に置かれた。
「どうぞ〜」
*
これまで見てきたどのコーヒーよりも、輝いて見えた。
レンちゃんはカップをそっと手に取り、鼻を近づけた。
香りが、鼻の奥に広がる。
「ルウ」「いい匂いだろ?」「この匂い好き〜」「お父さんの匂い〜」「ルウ、愛してるよ」
声が聞こえるようだった。
匂いの輪郭が形を持って、目の前に現れるようだった。家族三匹が、仲睦まじく、笑っていて、温かい。そんな場所が、確かにあったのだということが、この小さなカップ一杯の中に、余すことなく詰まっていた。
レンちゃんは、ゆっくりと一口飲んだ。
言葉は、出なかった。
出せなかった、のかもしれない。
*
「あれ、もう帰るの〜?」
空になったコーヒーカップを残して、レンちゃんが立ち上がった。
「仕事があるからね」
それだけ言って、財布を取り出した。それ以上の言葉は、もう要らなかった。
ただ、心の中で、そっとそう思った。
(最高の一杯をありがとう、ルウ)
扉のベルが、小さく鳴った。
*
「お疲れ様です〜」
高層ビル群のオフィスに、レントの声が響いた。
「あっ、レントさん!」
周囲から同僚や部下たちが集まってくる。
「いきなり長期休暇を取るからびっくりしましたよ〜!」
「すまない、手間をかけさせたね」
「ぜんぜんですよ! それにレントさん、先回りして仕事全部終わらせてってくれてたじゃないですか」
内心でレントは思った。
(おかげで飛行機に乗るまでの数日間、一睡もできなかったけどな。毛並みが荒れに荒れて、戻すのに苦労した)
「そういえば、お休み中は何をされていたんですか?」
「ん、ああ」
レントはわずかに笑った。
「本物の匂いを、知りたくなったんだ」
少し間を置いて。
「愛情ってやつのね」
匂いが嘘をつかない世界で。 完
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