バスが見えなくなるまで。(2/3)
ご覧いただきありがとうございます。
本作は、全3話の短編青春小説です。
どこにでもある、けれど、あのときにしか掴めなかった、若者たちの微かなすれ違いと焦燥感を描いたボーイミーツガールです。
少し不器用な二人の行く末を、最後まで静かに見守っていただければ幸いです。
二人でバスを待っていると、さっきまでの陽光が、雲に隠れていく。
坂の向こうに見える、海面の光の反射も、姿を失っていった。
二人の間に、しばしの沈黙が訪れる。
「飯森さんの行く大学は、地元なの?」
静寂を破るように響いた彼の声が、由佳の鼓膜を優しく震わせた。
「うん、ちょっと通学時間がかかるけど、家から通えるよ」
由佳は努めて平坦な声を出した。
膝の上で、プリーツスカートの生地をぎゅっと握りしめる。
「智司……くんは、遠くに行ってしまうんだよね」
「遠くって言っても、新幹線で三時間だよ。休みになれば、すぐ帰れるから」
智司は、いつものように波立たない穏やかなトーンで答える。
小さな頃から、彼は由佳のことを『飯森さん』と呼ぶ。
ただの一度も、名前で呼んでくれたことはなかった。
同級生の男子よりも強かった小学生の頃は、彼のことを『智司!』と呼び捨てにしていた由佳も、いつからか微妙に呼び方を変えてしまっていた。
相手を傷つけまいとする互いの遠慮が、見えない薄氷のようになって足元に広がっている。
このどうしようもない距離感は、一体いつから生まれたのだろう。
ため息がこぼれそうになるのをぐっと飲み込み、由佳はバス停から続く坂の下へ視線を向けた。
午後の光に鈍く輝く湾の向こうで、大きな雲が金色に縁取られながら、悠然と空を流れている。
風が吹き抜けるたび、周囲の木々がざわざわと寂しげな音を立てた。
「喉が乾いたから、ジュース買うね。智司くんはいらない?」
「いや、僕はいいよ」
由佳は表情を隠すように立ち上がり、バス停のすぐ横にある自動販売機へと小走りで向かった。
硬貨を投入する、冷たい金属の感触。
ガタン、と重い音を立てて落ちてきた缶ジュースを握りしめると、指先から刺すような冷たさが伝わってきた。
その温度だけが、今の自分の拠り所のようだった。
深く息を吸い込んで、再びベンチに戻る。
少しだけ隙間を空けて、彼の隣にちょこんと座った。
「僕が失踪していた間のことを訊きたかったんでしょう?」
プルタブを引き、甘く冷たい液体を喉の奥へと流し込んでいた由佳は、不意に鼓膜を打った言葉に、思わず激しく咳き込んでしまった。
「昔から嘘をつけないよね、飯森さんは」
智司は、涼しげな目元をわずかに緩めて笑った。
彼がこんな風に笑うのを見るのは、いつ以来だろうか。
咳き込む由佳の背中を、彼が優しくそっと撫でてくれた瞬間、由佳は体が痺れたような感覚に囚われた。
背中を撫でられただけで、じわりと汗が滲む。
普通の汗じゃない、と由佳は直感した。
もしかして――。
そう思うと、耳の奥までが熱くなった。
ただ、背中を触られただけなのに。
「両親に会ってきたんだ」
由佳の咳が落ち着くのを待ってから、智司はぽつりと言った。
彼は膝の上で両手を組み、視線を真っ直ぐ前に固定している。
岬のあたりを旋回している、白い海鳥の群れを眺めているようだった。
その横顔に翳りはなく、むしろ頬や口元には、不思議な柔らかさが漂っていた。
「……生みの親に会ってきたんだよ」
由佳が何も言えずに息を呑んでいると、智司は静かに言葉を継いだ。
厚い雲が束の間、傾きかけた太陽を隠した。
二人の足元に落ちていた淡い影が、ふっと輪頃を失って溶けていく。
急に空気が冷え込んだように感じられ、由佳はわずかに身を縮めた。
「今の両親に教えてもらってね。もう大人になったし、本当の両親に会ってみようと思ったんだ」
「……お父さんとお母さん、どこにいたの?」
「別々に暮らしていた。父親は東北の田舎町で床屋をやっていた。母親は、九州で新しい家庭を持っていた」
大まかな場所しか分からず、探し歩いていたために一週間もかかってしまったのだと、彼は淡々と語った。
今は真面目に働いているらしい、父親のこと。
大きな家に住み、外車を二台も停め、金箔の模様が入ったティーカップで紅茶を出してくれた母親のこと。
「母はあまりいい顔をしてくれなかったけど、仕方ないよね。家族がいなかったから家には入れてくれたけど……色々と訊かれたよ。中山の両親のこととか、大学はどうするんだとか」
智司が言葉を切ると、遠くから聞こえる波のざわめきだけが、空洞のような沈黙を満たした。
「もっと……話して」
自分の意志とは無関係に、由佳の唇から声がこぼれ落ちた。
智司が少しだけ首を傾け、由佳を見つめる。
その薄茶色の瞳の奥にある、決して踏み込ませてくれない透明な壁が、由佳の胸をちりりと痛めつけた。
「父がいなくなったのは、僕がまだ二, 三歳くらいのときだったらしい。父がいなくなった後、僕は祖母に預けられて、母は実家に帰った」
祖母が亡くなった後にも、再婚相手を見つけていた母親は彼を引き取らなかったという。
「仕方のないことだと思うよ。再婚相手には、とても言えなかったんじゃないかな」
智司は一瞬だけ、由佳に向けて『大丈夫だよ』と言い聞せるように、微かに微笑んだ。
「それで、父の親友で、子供のいなかった今の両親に引き取られることになった。いい両親だよ。本当に良くしてくれた」
「……でも、智司くんは、ずっと寂しそうだった」
由佳の声は、風にさらわれて消えそうなくらい、かすかに震えていた。
「少し辛かったんだ」
風が、乾いた音を立てて停留所のシートを揺らした。
「僕は本当の子供じゃないのに、すごく良くしてくれるから……ずっといい子でいなければいけないと思っていた」
誰かにひどいことを言われても、絶対に問題を起こしてはいけない。
自分が傷ついていることを、両親に気付かせてはいけない。
そうやって彼は、小さな頃から一人で心の周りに高い鉄の壁を築き、誰も内側に入れないようにしてきたのだ。
缶ジュースを握る由佳の手に、じわりと力が入った。
冷え切ったアルミの感触が、手のひらの熱を徐々に奪っていく。
これほど近くに座っているのに、彼の本当の痛みには触れることができない。
由佳の胸の奥で、どうしようもない切なさが、ちりりと音を立てて焦げ付いていた。
第2話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、クリエイタープラットフォーム「Note」でも同時公開を行っています。
Notes投稿:バスが見えなくなるまで。(2/3)
https://note.com/ample_auk3865/n/n5282f1f0feae
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第3話(3/3)へ続きます。
※本作品は、漫画BecauseのVol.3「言い出せなくて」をオマージュしております。




