バスが見えなくなるまで。(3/3)
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本作は、全3話の短編青春小説です。
どこにでもある、けれど、あのときにしか掴めなかった、若者たちの微かなすれ違いと焦燥感を描いたボーイミーツガールです。
少し不器用な二人の行く末を、最後まで静かに見守っていただければ幸いです。
一緒の高校に通いたかった。
その一念だけで、中学三年生の秋、由佳は友達との約束をすべて断り、夜遅くまで机にかじりついていた。
由佳の学力では、智司と同じ進学校に進むことなんて、本当は奇跡に近いことだったのだ。
けれど、この人はそんなことに何も気づいてくれない。
ずっと、気づいてくれなかった。
気づかないまま、由佳を「おおらかな幼馴染」という綺麗な箱の中に、静かに仕舞い込んでいる。
そして、いま――。
由佳は地井の元へと、静かに流れてしまっていた。
とても優しかったからだ。
昨日の夜、ベッドの中で触れた地井の、引き締まった体。
彼は、少し照れくさそうに笑っていた。
歯がとても綺麗な人なんだな。そのとき、由佳はそんなことを思っていた。
智司のような「見えない壁」を持たない地井に、由佳は寂しさを埋めるように、心と身を寄せていった。
その事実が、由佳の胸の奥をちりりと痛ませる。
心の空洞に、冷たい海風が吹き抜けたような気がして、そっと目を閉じた。
「私……」
何かを言いかけ、由佳は唇を震わせた。
けれど、自分が何を伝えたいのか、自分でも分からなかった。
『私はもう、君の知っている飯森さんじゃない』と言いたかったのか、それとも。
言いかけた言葉は、重く響き始めたエンジン音にかき消された。
坂の上から、青と黄色に塗装された民営バスが近づいてくるのが見える。
「あ……バス、来たね」
智司が、鞄を抱え直して、すっと立ち上がった。
けれど、由佳がベンチに座ったまま動こうとしないことに気づき、怪訝そうに少しだけ眉をひそめる。
「飯森さん? どうかしたの。気分でも悪いの」
覗き込んでくる彼の薄茶色の瞳には、純粋な心配だけが湛えられていた。
その打算のない優しさが胸に突き刺さり、彼の瞳に映る自分がひどく醜く思える。
「ううん、なんでもないよ」
由佳は首を大きく横に振った。
潮風に煽られて乱れた茶色の髪が、リップクリームのついた唇にひと筋、ひっかかる。
それを指先で払いながら、由佳は手元の缶ジュースを少しだけ持ち上げて見せた。
「まだ、これ、半分くらい残ってるから。飲んでから帰るよ。智司くんは、先に行って」
「……うん。本当に、大丈夫なの?」
智司は何か、喉の奥に言葉を引っかけたような表情を見せた。
けれど、彼はそれ以上、由佳の態度を追及しようとはしなかった。
相手の領域に決して踏み込まない。
それが、中山智司という人が持つ丁寧さであり、同時に、彼の持つ壁でもあった。
バスが停車し、折りたたみ式の扉が開く。
重い空気を抜いたような音が、由佳の鼓膜を震わせた。
智司はいつものように乱れのない、ゆっくりとした足取りで歩き出した。
ステップに足をかけた彼が、少しだけ不安そうに由佳を振り返る。
「じゃあ、またね。飯森さん」
彼は、最後まで『さん』付けだった。
その丁寧さが、二人の距離を冷徹に告げている。
幼馴染なのに、下の名前で呼んでもらえる機会は、ついに無かった。
由佳は胸のひび割れを隠すように笑顔を作り、小さく右手を振った。
「バイバイ。気をつけてね」
智司は小さく頷くと、薄暗い車内へと消えていった。
扉が閉まり、大きな車体がゆっくりと坂道を下り始める。
窓ガラスの向こうの彼の影は、すぐに景色の中に溶けていった。
ベンチに座ったまま、由佳は遠くなっていくバスを見つめた。
海風の匂いが、鼻腔を掠める。
バスは確実に小さくなり、その存在が遠ざかっていく。
坂の角を曲がり、完全に見えなくなるまで、由佳はどうしても目を逸らせなかった。
瞳の奥がじりじりと熱く痛む。
瞳に残されたのは、狭く長い坂道と、鈍くきらめく太平洋だけだった。
静まり返ったバス停で、由佳はもう一度缶ジュースに口をつけた。
すっかり生温くなった甘い液体が、乾いた喉を通っていく。
そのべたついた甘さは、なぜだか酷く苦く、胸の奥に溜まっていく悲しみの味そのもののようだった。
喉の奥が、きゅっと締め付けられるように痛む。
由佳は残りの液体を無理やり飲み干し、空き缶を、ベンチの横にある古びたゴミ箱へと投げ入れた。
乾いた軽い金属の音が、周囲の木々のざわめきの中に吸い込まれて消える。
腕時計に目をやると、短い針はすでに三時を回っていた。
次のバスが来るまでは、まだ一時間近くも待たなければならない。
ここで一人、来ないバスを待ち続けることには、もう耐えられそうになかった。
歩いて帰ろう。
由佳は心の中で静かに呟いた。
卒業証書の入った筒を胸の前で少しだけ強く抱え直し、古ぼけたベンチから立ち上がる。
立ち上がった途端、海からの強い風が、前髪や頬を容赦なく撫でていった。
その風には、微かに潮の香りと、春の芽吹きを思わせる乾いた土の匂いが混ざっている。
アスファルトを踏みしめ、坂道を一歩ずつ下り始める。
ふと見上げると、太陽を隠していた雲の隙間から、陽光が漏れ出ている。
それは、まるで雲の切れ間から降り注ぐ矢束のように、まっすぐで、鋭い銀色の光の束だった。
光を浴びた太平洋が、世界を少しづつ塗り替えるように銀色に輝き始める。
その輝きは今の由佳には眩しくて、一滴の涙が零れそうになった。
けれど、それを瞬きで強引に押し殺した。
由佳は歩く速度を、少しだけ速めた。
街路樹の木々がざわざわと、何かを断ち切るように揺れている。
その音が、今の由佳には心地良かった。
歩いて行こう。
智司のいない、新しい季節へ。
【完】
第3話をもって、本ストーリーは終了となります。
お読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、クリエイタープラットフォーム「Note」でも同時公開を行っています。
Notes投稿:バスが見えなくなるまで。(3/3)
https://note.com/ample_auk3865/n/n90a6c544a9d2
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※本作品は、漫画BecauseのVol.3「言い出せなくて」をオマージュしております。
また、別の短編小説(自作)の投稿を行っていきますので、よろしくお願いします。




