バスが見えなくなるまで。(1/3)
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本作は、全3話の短編青春小説です。
どこにでもある、けれど、あのときにしか掴めなかった、若者たちの微かなすれ違いと焦燥感を描いたボーイミーツガールです。
少し不器用な二人の行く末を、最後まで静かに見守っていただければ幸いです。
一九九四年、三月。
高校生活最後の行事である卒業式は、午前中のうちに終わっていた。
淡い土の匂いを含んだ微風が、緑の芽の吹きだした街路樹を少しだけ揺らしている。
坂から遠く見下ろせる太平洋は、白い波が午後の光を受けてきらきらと綾をなしていた。
春特有の、どこか輪郭が滲んだような空の青さだった。
卒業証書の入った筒を胸に抱えながら、飯森由佳は学校からバス停へと続く長い坂道を下っていた。
ちらりと横目を向けると、隣をゆっくりと歩く中山智司の姿がある。
面長で整った横顔。
もともと色白だったはずの彼の肌は、昨日、何事もなかったかのように姿を現したときには、だいぶ日に焼けていた。
中山のような優等生が、一週間も家出をして、いったい何をしていたのか。由佳には想像もつかない。
式の後、後輩からの花束を手にした友人たちに、遊びに行こうと誘われたが、由佳は曖昧に笑って断った。
どうしても、智司と話をしておきたかったからだ。
だが、こうして並んで歩いていても、なかなか失踪の真意を切り出すことができずにいた。
彼から漂う静かな拒絶の気配が、由佳の言葉を飲み込ませてしまう。
「ここの道を歩くのも、今日で最後か」
ふいに、智司がぽつりと言った。
海風が彼の短い黒髪をかすかに揺らす。
「ここから坂の下に見える海辺の風景が、飯森さんは気に入ってたよね」
由佳の心臓が、こつん、と小さく跳ねた。
どうしてそんなことを知っているのだろう。
智司は小学校の頃からの幼馴染だったが、こうして二人きりで一緒に帰るような機会は、これまでほとんどなかったはずなのに。
「……そうね」
由佳は短く答えたが、頭の中は別の事柄で占められていた。
話をどう切り出すべきか。
一週間の空白を、この壊れそうなほど繊細な空気を乱さずに問うには、どうすればいいのか。
「そういえば、地井のやつはどうしたの?」
智司は目を柔らかく細めて、由佳を見た。
この穏やかな目で見つめられるたびに、由佳は胸が締め付けられるような感覚に陥る。
自分の悲しみや苦しみを決して表に出さない、優しげな瞳。
小学生のときから、ずっと変わらない彼の鎧だ。
「クラブの友達と、昼から遊びに行ったみたい」
「夕方からでも、二人で会うの?」
「夜まで遊ぶみたい。今日は会えない」
「そっか。彼女を放っておくなんて、ひどいな」
由佳の胸の奥が、ちりりと痛んだ。
自分はやはり、嫌な女なんだろうか。
言葉の裏側に潜む微かな罪悪感が、じわじわと指先の体温を奪っていく。
地井浩志は、智司の数少ない友人だった。
中学校のとき、地井と智司は一度同じクラスになり、同じ高校に進学したことで、親友としての関係が続いていた。
由佳が地井と知り合ったのは、智司を通じてのことだ。
高校生になったばかりの春だった。
外交的でスポーツマンの地井と、自分の中に閉じこもりがちな智司。
対照的な二人の気が合うのは、由佳にとって少し不思議に思えた。
「付き合いだしてからまだ三ヶ月くらいなのに、あいつは、飯森さんの優しい性格に甘えているな」
智司の足音が、アスファルトに規則正しく響く。
彼と歩幅を合わせようとすると、どうしても少しだけ無理をしなければならなかった。
「それとなく、気をつけるように言っておくよ」
ああ、やはり彼はこういう人なんだ、と由佳は思った。
私のことなんて心配しないで。もっと自分の悩みや、心の奥底にある苦しみを話してくれればいいのに。
知り合ってからの十数年。彼から助けを求めてきたことは、ただの一度もなかった。
いつも見えないガラスの壁が一枚、二人の間に立ち塞がっているように感じる。
触れようと手を伸ばしても、冷たい温度だけが返ってくる壁。
「ねえ、大学、行くんだよね?」
うつむき加減に発した由佳の言葉は、春風の中にそのまま溶けて消えてしまうのではないかと、ひどく心許なかった。
「うん、行くよ。国立のほうが受かったら、そっちに行く」
普段と変わらない静かな口調に、由佳は密かに、ほっと息をついた。
半年ほど前までは、高校を出たら働くと頑なに譲らなかった。
血の繋がらない義父母に、大学の金まで出させるわけにはいかないからと。
一週間の失踪の間に、彼がまた「大学へは行かない」と言い出すのではないかという不安は、どうやら杞憂に終わったようだ。
「飯森さんは?」
「一応、大学に受かったから」
「ああ、そうだったね。おめでとう」
智司がふんわりと微笑む。
太陽の光が、彼の眼鏡の縁で小さく反射した。
「確か、昨日義母さんから聞いた。しばらくぶりに家に帰ったら、いろんなことを訊かれたりして大変だったから……飯森さんの進路を聞いたのを、すっかり忘れた。とにかく、おめでとう」
「うん、ありがと」
乾いた風が、二人の間をすり抜けていく。
そこから先は、しばらく無言のまま歩いた。
互いの靴音だけが、海へと続く坂道に落ちては消える。
並んで歩く肩と肩の間には、決して交わることのない、もどかしい隙間が空いていた。
やがて、見慣れたバス停が見えてきた。
バスはさっき出たばかりのようだった。
次の到着まで、少し時間がある。
「ごめんね、時間を間違えたみたい」
智司が困ったように笑う。
「しばらく学校に来ないうちに、これだ。僕って、どんくさいんだよな」
「私もすっかり忘れてた。いいじゃない、最後の日くらいゆっくりしても」
二人は、金属の骨組みにシートが張られただけの、簡単な停留所の屋根の中に入った。
一つだけ置かれている古ぼけたベンチに、並んで座る。
周囲には、他の生徒の姿は全く見当たらない。
卒業式の後、由佳は職員室に呼ばれた智司を待っていたのだが、その間に生徒の大半は帰ってしまったようだ。
さぞかし説教をされたのか、二時間近く、彼は職員室から出てこなかった。
人気のないベンチに並んで座る自分たちの姿は、端から見ればどう映るだろう。
ふと、由佳はそんな考えを頭に浮かべた。
智司は顔立ちが整っているが、どこか影が薄く、あまり目立たないタイプの生徒だった。
縁なしの眼鏡をかけていて、短い黒髪。
進学校の教室に、ひっそりと馴染むような男の子だ。
一方の由佳といえば、明るい茶色に染めた髪に、耳には小さなピアスをしている。
軽くではあるが、アイメイクやマニキュアもしていた。
他校ではどうかわからないが、一応の進学校であったこの高校では、由佳のような女生徒は明らかに少数派だった。
どう見ても、自分は智司の恋人には見えそうもない。
勝気な性格のせいだと思うが、いつからこういう風に、不釣り合いな関係性になってしまったのだろうか。
並んだ膝と膝の距離を、由佳はただ、じっと見つめていた。
第1話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、クリエイタープラットフォーム「Note」でも同時公開を行っています。
Notes投稿:バスが見えなくなるまで。(1/3)
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第2話(2/3)へ続きます。
※本作品は、漫画BecauseのVol.3「言い出せなくて」をオマージュしております。




