【『神罰の要塞』外伝】### 貴族の義務(ノブレス・オブリージュ)、あるいは道化の誕生
いつも『神罰の要塞』をお読みいただき、ありがとうございます。
本編第1話において、誰もが「絵に描いたような汚職高官」として蔑み、そしてマクシミリアンの格好の財布(燃料)として消費された男――財政再建委員長、デルカセ男爵。
大義名分を掲げて予算を膨らませ、私腹を肥やす彼を、読者の皆様は「単なるざまぁ対象の道化」としてご覧になったことでしょう。ですが、歴史に絶対はありません。そして、生まれながらの寄生虫など、この銀河には存在しないのです。
この外伝『貴族の義務、あるいは道化の誕生』では、彼がまだ肥満とは無縁の、鋭い眼差しを持った清廉な若き一等書記官だった頃の記録を紐解きます。
信じた理想、共に国家の膿を絞り出そうと誓った親友、そして――国家という巨大なシステムが、彼の「正義」をどのように噛み砕き、彼に「愛国」という名の厚化粧を施させたのか。
彼がなぜ、マクシミリアンという名の『戦乙女』を自分の都合のいい人形だと信じ込み、破滅へと突き進んでいったのか。その歪んだ自尊心の履歴書を、どうぞお楽しみください。
――国家という怪物はね、どれだけ血を吸っても満たされないのさ。
#### 1
政治における「清廉」とは、熱帯雨林に持ち込まれた氷細工のようなものらしい。周囲の熱気にさらされれば、一瞬で溶けて泥水に変わるか、さもなくば形を保とうとして木々に砕かれるか、二つに一つだ。
宇宙暦六九〇年、秋。銀河連邦の首都星系。財務省の若き一等書記官、アンリ・フォン・デルカセは、鏡の前で引き締まった自身の体躯を見つめ、誇らしげに顎を引いていた。
「ノブレス・オブリージュ――貴族たる者、国家と民衆のためにその身を捧げねばならん。腐敗した財務省の膿を、おれたちの世代で全て絞り出すんだ」
当時のデルカセは、肥満とは無縁の、鋭い眼差しを持つ理想主義者だった。彼の傍らには、同じ志を持つ親友であり、天才的な会計監査官でもあるレーモンがいた。二人は連邦予算の「使途不明金」のルートを突き止め、上層部の大規模な横領を内部告発する計画を進めていた。
「おいおい、アンリ。あまり熱くなるなよ」
レーモンは苦笑しながら、数式の並ぶ端末を叩いていた。
「おれたちが戦っているのは人間じゃない。長年かけて肥大化した『国家の慣習』という名の怪物だ。一歩間違えれば、おれたちの方が胃袋の中に放り込まれる」
「恐れるな、レーモン。正義は我らにある」
デルカセは親友の肩を叩いた。その手に宿っていたのは、後年の強欲ではなく、国家の未来を憂う若者特有の、瑞々しい熱情だった。
#### 2
だが、冷徹なる歴史の歯車は、若者の正義をただの「砂粒」として噛み砕いた。
告発状を提出したわずか三日後。レーモンは財務省の地下駐車場で、謎の「暴走ドローン」による事故として、呆気なく肉塊に変えられた。そして翌日、デルカセのデスクに届けられたのは、親友の死への弔意ではなく、軍法会議からの呼び出し状だった。
『レーモン・バザン一等書記官は、国家機密をレジスタンスに売却しようとした反逆罪により、死後免職とする。また、共同研究者であるデルカセ書記官にも、内通の嫌疑がかかっている』
軍法会議の法廷で、金の刺繍で飾られた軍服を着た老人どもは、冷淡な口調で判決を読み上げた。
証拠など何一つない、完璧な捏造だった。デルカセが喉を押し潰されそうな絶望の中で、正面の席を見上げると、そこには彼らが告発しようとしていた財務次官が、退屈そうに爪をいじっている姿があった。
「デルカセ君。君の『正義』とやらは、親友の命を救ったかね?」
閉廷後、次官はデルカセの耳元で、羽虫の羽音のような声で囁いた。
「この国で生き延びたければ、正義などという安価な服は脱ぎ捨てることだ。国家という怪物はね、どれだけ血を吸っても満たされない。なら、どうすればいいか分かるかね?」
デルカセは、言葉を失って震えていた。
親友の命は、国家の帳簿の上で「都合のよい損失」として処理された。正義を貫こうとした者は犬死にし、汚職を重ねる者だけが、贅沢な夜会で最高級のワインを傾けている。
その瞬間、彼の脳内で、何かが決定的に破滅的な音を立てて砕け散った。
#### 3
「……戦略的な失敗を、戦術的な勝利で埋め合わせることはできない」
それから十年後。
かつて引き締まっていたデルカセの身体は、高級食材と賄賂の重みによって、見る影もなく肥満していた。彼の顔には、己の強欲を隠すための醜悪な笑みが張り付き、その瞳からは、かつての鋭い知性は完全に消え失せていた。
彼は正義を捨て、次官の忠実な猟犬となり、やがて自らが財政再建委員長という「最も予算を動かせる美味な椅子」へと登り詰めたのだ。
「国家という怪物を生き延びるには、自らが最大の寄生虫になるしかない」
それが、彼が導き出した唯一の生存戦略だった。
彼は、己の不正を誤魔化すために、誰よりも大きな声で「愛国心」を叫ぶようになった。大義名分を掲げて予算を膨らませ、その一部を自身の秘密口座へと還流させる。彼が身に纏った「愛国」という名の厚化粧は、今や彼の皮膚そのものとなっていた。
そんなある日、彼のオフィスに、一人の青年将校の着任データが届いた。
最高名門貴族の血を引き、いかなる熱情も宿さぬ青い瞳を持つ男。軍部がその冷酷な手際から『戦乙女』と呼び、恐れ、利用しようとしている天才――マクシミリアン・フォン・メッテルニヒ。
デルカセは、モニターに映るマクシミリアンの冷徹な横顔を見つめ、肥満した顔を歪めて下卑た笑い声を上げた。
「結構、結構じゃないか。軍部が飼い慣らせぬ『戦乙女』という名の人形め……。私の手で、せいぜい国家のための便利な道具として踊ってもらうとしよう。愛国心という名の免罪符さえ与えておけば、いくらでも都合よく動くはずだからな!」
デルカセは、自身の秘密口座の残高を確認しながら、最高級の葉巻の煙を天井へと燻らせた。
彼は信じて疑わなかった。自分がその『戦乙女』の頭脳を利用し、さらなる天文学的な裏金をせしめる側(支配者)にいるのだと。自らがかつて軽蔑した「国家の道化」そのものに成り下がっていることにも気づかずに。
宇宙暦七〇二年、冬。
大いなる騙し絵のキャンバスへと自ら進んで飛び込んでいく、一人の肥った道化が、ここに完璧に仕上がった瞬間であった。
(外伝『貴族の義務』・完)




