【『神罰の要塞』外伝】 最初の一滴(ファースト・ドリップ)
いつも『神罰の要塞――戦乙女は銀河の焦土に咆哮するか――』をお読みいただき、ありがとうございます。
本編第3話において、銀河連邦の汚職高官どもと、レジスタンス『自由銀河戦線』の狂信者たちは、文字通り「戦う舞台そのもの」を奪われ、完璧なフリーズを迎えました。主砲を撃ち尽くす凄惨な破滅ではなく、天文学的な質量を誇る要塞ごと、彼らを未知の領域へ置き去りにしたマクシミリアンの冷徹なる亡命劇。
読者の皆様からは、「なぜ彼は、あそこまで人間を拒絶したのか」「なぜ要塞の内部に、過剰なまでの『1013ヘクトパスカルの生存圏』を作り込んだのか」という、多くの知的な疑問の声をいただきました。
歴史に絶対はありません。
しかし、ひとつの「結果」の裏には、必ずそうならざるを得なかった「最初の一滴」が存在します。
この外伝『最初の一滴』では、彼がまだ連邦の道化どもから『戦乙女』という皮肉な名で呼ばれる前――弱冠19歳のロボット工学の天才が、自らの「至高の善意」を国家という怪物に無残に解体された、あの深夜の研究室の記録を紐解きます。
彼がなぜ、冷めきった紅茶にブランデーを落とすようになったのか。
美しくも乾いた絶望の原点を、どうぞお楽しみください。
――うまい紅茶を飲めるのは、生きている間だけですからね。
#### 1
宇宙暦という数字がまだ六世紀の後半を刻んでいた頃、銀河連邦の首都星系にあるロボット工学アカデミーは、一つの「奇跡」に沸き立っていた。
マクシミリアン・オーギュスト・クリストフ・フォン・プフェッフェル・ウード・メッテルニヒ。当時、弱冠十九歳。最高名門貴族の血を引き、ガラス細工めいた銀髪の下にある青い瞳は、後年の冷酷さはなく、ただ純粋な知性の輝きだけで満ちていた。
「完璧だ。1のエネルギーを入力すれば、設計通りに1の出力を返す。人間のように感情で嘘をつくことも、強欲で回路を歪めることもない。機械こそが、この不条理な銀河における唯一の良心だよ」
若きマクシミリアンは、自身の研究室で、一体の人型アンドロイドの頭部回路を調整していた。
彼が開発したのは、軍事兵器ではない。連邦の過酷な前線や、未開惑星の劣悪な環境において、負傷した兵士や民間人を救うために設計された、超精密自律型医療アンドロイド――コードネーム【フローレンス】。
そのアンドロイドの肺胞を模した内部回路には、対象のバイタルを瞬時に安定させるため、どのような極限環境にあっても、内部の気圧を「1013ヘクトパスカル」、酸素濃度を「21パーセント」の完全な標準値に維持する、特殊な空間安定流体制御ユニットが組み込まれていた。
「人間は脆い。大気が少し薄れるだけで、気圧がわずかに揺らぐだけで、簡単に死んでしまう。ならば、機械がその命を絶対の安息で包み込んでやればいい」
それが、若き天才が抱いた、あまりに無垢で、あまりに高潔な「理想」だった。
彼は信じていたのだ。自分の創り出したこの「機械の優しさ」が、銀河の無意味な流血を少しでも減らすのだと。
#### 2
だが、国家という名の巨大な怪物は、天才の善意を、自らの牙を研ぐための「砥石」としてしか認識しなかった。
「素晴らしい成果だ、メッテルニヒ准尉。我が連邦軍の軍医総監部も、君の【フローレンス】の性能を高く評価している」
研究室を訪れたのは、勲章で肥満した胸を飾った軍の高官たちだった。彼らの目は、命を救う医療技術ではなく、その裏にある「別の可能性」に、濁った光を宿らせていた。
「はあ……。では、前線の野戦病院への配備予算は承認されるのですね?」
マクシミリアンの問いに、高官は醜悪な笑みを浮かべた。
「配備? ああ、配備はされる。ただし、仕様をいささか『最適化』させてもらった。君の開発した1013ヘクトパスカルの完全密閉維持ユニットだがね……あれは素晴らしい重力シールドの応用だ。軍部としては、これを負傷兵の治療ではなく、突撃する装甲歩兵の『体内圧力を強制固定し、四肢が吹き飛んでもショック死させずに、次の引き金を引かせるための生体維持(拷問)ユニット』として採用することに決定した」
マクシミリアンは、自分の耳を疑った。
彼らが求めたのは、命の救済ではなかった。【フローレンス】の精密な大気循環制御は、兵士を「死なせないため」ではなく、「死ぬ瞬間まで国家のために戦わせるための肉体の牢獄」へと、無残に書き換えられたのだ。
「待ってください! それでは、私が創ったものは……」
「君は国家の英雄だよ、メッテルニヒ。これで兵士の『有効消費期限』が平均して48時間延びる。連邦の勝利に、大いに貢献するだろう」
高官たちは、マクシミリアンの肩を満足げに叩き、設計図のデータを転送して去っていった。
残された研究室で、マクシミリアンは血の気が引いたように立ち尽くしていた。
彼が命を包むために創った美しいシステムは、国家という怪物の手によって、最も効率的な「地獄の歯車」へと変えられたのだ。
#### 3
「……戦略的な失敗を、戦術的な勝利で埋め合わせることはできない」
若きマクシミリアンは、深夜の誰もいない研究室で、自ら開発した【フローレンス】の試作機を見つめながら、乾いた声で呟いた。
彼が犯した最大の戦略的失敗。それは、人間という「致命的なバグ」を抱えた生物の善意を信じ、国家という道具に技術を差し出したことそのものだった。
人間は、どれほど美しい道具を与えられても、それを血で汚さずにはいられない。大義を語る口で利権を貪り、正義を叫ぶ足で他者を踏みにじる。
ならば、どうするか。
マクシミリアンは、万年筆を握る手に力を込めた。【フローレンス】の設計図を開き、その中枢回路の数式を、自らの手で静かに書き換え始める。
それは軍への反逆ではない。もっと冷徹で、もっと壮大な、人類そのものへの「絶縁状」だった。
「救うべき価値など、この銀河のどこにもない。……だが、私のシステムだけは、誰にも汚させない」
彼は自身のガラス細工めいた銀髪を、指先で乱暴にかき上げた。その青い瞳から、瑞々しい熱情の残滓が、一滴の涙すら流れることなく、完全に蒸発していった瞬間だった。
彼がこの夜、手元に隠匿した「1013ヘクトパスカル、酸素濃度21%、果樹園の土をも保護する絶対循環閉鎖回路」の極秘データ。
それこそが、十数年後、銀河連邦の全予算を騙し取り、レジスタンスの全軍を狂熱の渦に巻き込むことになるあの巨大な大いなる騙し絵――【神罰の要塞】の、真の設計図の「最初の一滴」となったのである。
マクシミリアンは、机の上の冷めきった紅茶に、初めて、琥珀色のブランデーをたっぷりと落とした。
立ち上る芳醇な香りは、かつての彼の無垢な理想を、冷徹に弔うように広がっていった。
「戦乙女……か。道化どもが私をそう呼びたければ、呼ぶがいい。その人形の仮面の下で、君たち全員をシステムから『削除』する舞台を作ってやるさ」
若き天才の倦怠と知略は、この静かな夜、世界のすべてを敵に回す覚悟と共に、完全に起動したのだ。
(外伝『最初の一滴』・完)




