他国の宿帳
国境を越えた小さな町で、宿の主人が警察へ相談に来た。女性客が身分証を提示して短期間滞在し、夜明け前に出て行ったという。部屋には紙くず一つ残されていなかった。事件性を示すものはなかったが、主人は男の客が後から女性の所在を尋ねたことを気にしていた。
現地警察は正式な照会を通じ、マチューの部署へ情報を送った。国境の向こうの宿泊記録が、ただちにフランス国内の捜査証拠になるわけではない。法の違いと本人の権利を確かめる必要があった。
「その女を追っていた男の特徴は」
マチューが尋ねると、相手は古い旅行鞄しか覚えていないと答えた。
国境の町では春の市が始まり、広場に各地の商人が集まっていた。宿の主人は通常の営業に戻り、警察官たちは盗難届や迷子の対応に追われた。
国境の駅には観光案内所があり、案内係は宿への道を尋ねた外国人を覚えていた。女の特徴ではなく、古い地名を聞かれたことが印象に残っていたという。地図に載っていない修道院跡で、現在は公有地になっている。現地警察は話を記録し、特別な意味づけを避けた。宿の主人は商売に悪い噂が立つことを恐れ、隣の店へも事情を説明した。見知らぬ女が泊まったというだけで、町中が事件に関わることにはならない。それでも小さな疑問は消えなかった。
同じ頃、地元紙のナディアも国外に残る慈善団体の記録を調べていた。寄付の名簿には、屋敷を管理する法人名とよく似た略称があった。名前が似ているだけでは、つながりとは言えない。
マチューは照会書を閉じた。別の国に移れば追跡が難しくなる。しかし、難しいからといって曖昧な証拠を確かなものとして扱うわけにはいかなかった。




