壊れた椅子
県都の小さな賃貸室で、手足に傷のある男が保護された。室内には倒れた椅子と水の入った器があり、男は一人で床に座っていた。管理会社が異変に気づいて連絡したもので、誰が来たのかは分からなかった。
医師は負傷を記録し、憲兵隊は本人の意思を確かめた。男は相手の名を言わず、同じ質問をされた、とだけ繰り返した。
「倉庫に誰を入れたのか、何度も聞かれた」
「その人を見ましたか」
「顔は覚えています。ですが、話したくありません」
マチューはこれ以上無理に聞かず、被害届を受け取った。ひどい扱いを受けた者に、すぐ整った証言を求めるのは難しい。
男が語った勤務先は、かつての倉庫に物品を納めていた会社だった。名簿には同姓の別人もいる。関係があると決めつければ、その一人まで危険にさらしかねない。アンリは指紋採取や周辺の聞き込みを進めた。
発見した管理人は、部屋に誰かが住んでいると知らなかった。郵便受けの名札は外され、隣室にも空きが多い。地価が下がって住民が減り、建物の持ち主は修繕費の工面に苦しんでいた。男が保護されたと聞くと管理人は胸を撫で下ろし、壊れた家具を片づける前に写真を残した。警察は部屋の使用者を確かめ、そこへ誰が入れたのか調べた。誰一人、尋問の場所をすぐ特定できなかった。
町へ戻ると、クレールは薬局で普通に買い物をしていた。ローズと短く言葉を交わし、紙袋を持って帰っていった。疑いだけで拘束はできず、事件を結ぶ証拠もまだなかった。
夜、マチューは被害者の証言を読み返した。傷の数ではなく、『必要な答えを知らないと言っても終わらなかった』という一行が気に掛かった。




