名前のない口座
法律事務所の経理担当ルイーズは、屋敷の維持費を見直していた。庭師への支払い、窓の補修、保険料。どれも適正な範囲に見える。ただ、送金元の口座名義が契約書の法人名と一致していなかった。
上司は古くからの顧客だと説明し、細部を問いたださないよう勧めた。しかし監査の時期が近い。ルイーズは不足書類の一覧を作り、指摘を残した。顧客の地位より、後から彼女自身が署名を求められることの方が現実的だった。
帰宅途中、事務所の前で女に声を掛けられた。小柄で、灰色のコートを着ている。女は屋敷の管理契約を担当する弁護士の名前を尋ねた。
「外部の方に答えられません」
「そうですか」
引き留められることはなかった。それなのにルイーズは歩き出せず、翌朝の職員会議で訪問者のことを報告した。
ルイーズは帰宅後、娘から学校の進路相談について尋ねられた。子どもは都会の大学へ行きたいと言っている。遠くへ行く寂しさと、行かせてやりたい気持ちが同時に湧いた。書類上で名前を隠した法人にも、そこで働く人間や帰る家があることを彼女は知っている。しかし、それと帳簿の不一致を見過ごすことは別だった。食事の後で必要資料の一覧を作り直し、翌朝の会議に持参した。
休憩室には別の話題があった。来年から事務所の一部が都へ移るという。地元に残る者の処遇を誰も聞かされていない。ルイーズは十七年間この仕事を続け、ようやく住宅ローンの返済を終えたところだった。
数日後、上司は資料の提出を取り下げると言った。ところが監査の日程は変わらなかった。ルイーズは口座の番号を消さず、照会中と記入した。誰かが支払ったという事実だけは、帳簿から失われなかった。




