帰還を告げる電話
アンリは元役員の妻へ連絡し、夫が生存していることを伝えた。詳しい状態は医師から説明してもらう。妻は受話器を握ったまま長く黙り、帰りのバスの時刻を何度も確かめた。
男は面会で顔を背けた。「逃げたんじゃない。帰る場所を失くしたと思った」
妻はそれ以上聞かず、持ってきた上着を椅子へ置いた。病室を出た後、涙より先に怒りがこみ上げてきたという。人は戻ってきた。それでも、待った日々が消えるわけではない。
アンリは本人の供述を急がず、身元確認と保護の書類を整えた。車の発見場所と入院先を結び付ける道筋はまだなく、二人の間の時間も空白のままだ。
妻が病室へ持ってきた上着には、失踪した日のまま小さなほつれがあった。直すつもりで裁縫道具を用意していたが、今日だけはそのままにしておきたかった。
妻は持参した上着のポケットへ、家の鍵を入れていた。男はそれを見てしばらく動かなかった。帰る場所はまだあると知っても、明日のことを考える余裕がない。医師は退院を急がず、心身の回復を確かめることにした。アンリは警護の必要性を上司と協議し、過去の事件と関係があると断定せず危険を評価した。待合室で妻は、夫が失踪した日に作りかけていた棚のことを話した。板は今も家の隅に積んであるという。再会した日に大きな約束を求めるつもりはなかった。夕方、彼女は病室のカーテンを整え、また明日来ると告げた。
病室の棚には男が入院してから使ってきた歯ブラシが置かれていた。妻はその色を見て、家にある予備を思い出した。二人の生活はまだ細かな物で繋がっている。
夜、男は食事の皿を自分で片づけた。看護師が尋ねると、「今は、自分の手でできることをしたい」と答えた。




