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最後に咲く花  作者: 久遠 睦


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4/12

第4章 見られていない優しさ

優希の心が決定的に動いたのは、その数日後のことだった。

梨恵は前日の勤務で足を痛めていた。繁忙日の厨房では立ち通しになり、帰宅後も「平気」と言い張った。翌朝になって腫れがひどくなり、店長から休むよう言われた。

悠介は梨恵からの短いメッセージを読み、果物と湿布を買って訪ねてきた。梨恵は玄関先で受け取るつもりだったが、歩き方を見た悠介が「せめて台所まで運びます」と言った。家へ上がる前にも、優希が不在であることを確認し、「嫌ならここで帰ります」と尋ねた。

梨恵は少し迷ってから招き入れた。悠介は部屋を見回したり、勝手に物へ触れたりしなかった。買ってきたものを台所へ置き、湯を沸かす場所を聞き、梨恵の指示どおりにお茶を淹れた。

「病院へ行った方がいいですか」

「一晩休めば大丈夫。いつものことだから」

「いつものことでも、痛いのは同じです」

悠介はそう言い、足を冷やす保冷剤をタオルで包んだ。梨恵がソファに座ると、その前へ膝をつき、「触っても大丈夫ですか」と聞いた。

梨恵は頷いた。悠介の手は、痛む場所を避け、足首の周りを確かめるように動いた。優しさを示そうと大げさな言葉を口にすることも、見返りを求めることもなかった。

そこへ、忘れ物を取りに戻った優希が帰ってきたのだった。


学校が早く終わり、予定より早く家に帰ると、家の中は静まり返っていた。リビングの方へ向かった優希は、廊下の角で足を止めた。


ソファに、母が座っていた。そしてその足元に、悠介がいた。


彼は、母の足を自分の膝の上に乗せ、黙々とマッサージをしていた。洋菓子店での長時間の立ち仕事で、パンパンに浮腫んだ母の足を、労わるように、丁寧に。二人の間に会話はない。ただ、静かで、穏やかな時間だけが流れていた。


優希は息を呑んだ。


彼女の脳裏に焼き付いている父親の姿は、外面が良く、人前では「理想の夫」を演じる男だった。彼の優しさは、常に他人の目を意識した「演技」だった。


しかし、今、目の前で繰り広げられている光景は、その正反対だった。誰も見ていないと思っている場所で、見返りを求めるでもなく、ただ静かに、愛する人の痛みを和らげようとする姿。それは、打算のない、純粋な優しさそのものだった。


その光景は、優希の胸を揺らした。悠介が親切だったからだけではない。彼女がずっと背負ってきた「母を守る役目」を、別の誰かも静かに引き受けようとしている。その姿を初めて目にしたからだ。自分はもう、いつでも盾になれるよう身構えていなくていい。少しずつ、ただの娘に戻ってもいいのかもしれない。

家を出た日の記念日が近づくと、優希は毎年不安定になった。梨恵はその日付を祝うべきか、忘れたふりをするべきか迷っていた。

今年は、優希から「三人で夕飯を食べたい」と言った。悠介は理由を知らずに予定を空け、後から事情を聞いた。

「僕がいていい日なのかな」

「いてほしいから呼んだの」

優希は答えた。「お母さんと二人で逃げた日だけど、今は三人で安全だって確認したい」

夕食は特別な料理ではなく、引っ越した夜に食べたおにぎりと味噌汁にした。梨恵と優希は、当時のことを少しずつ話した。駅まで走った道、優希が痛いと言った手、初めての部屋の冷たい床。

悠介は聞きながら、自分が知らない二人の歴史に嫉妬するのではなく、敬意を持ちたいと思った。二人は彼と出会う前から、力を合わせて暮らしを作ってきた。

「あの日、私、お母さんを連れて逃げた気でいた」

優希が言うと、梨恵は首を振った。「私が優希を連れて出た。でも、手を離さないでと言ってくれたから歩けた」

「じゃあ、二人で逃げたんだね」

「そうだね」

悠介は二人へ、「生きていてくれてありがとう」と言った。その言葉に優希は泣いた。かわいそうだと言われたのではない。過去を美談にもせず、今ここにいる二人を喜んでくれた。

食後、三人は当時住んでいた部屋の近くを歩いた。建物はまだあり、窓には別の家族の明かりがついていた。優希は長く見つめた後、「もう帰ろう」と自分から言った。

帰る場所は、過去の確認をするための部屋ではなく、三人で選んだ現在の家だった。

優希は廊下の角から、しばらく二人を見ていた。父親も、人前では母へ優しく触れることがあった。だから、目の前の一場面だけで悠介を信じるつもりはなかった。

だが、違いも見えた。悠介は梨恵が「そこは少し痛い」と言うと、すぐに手を止めた。「これくらい我慢しろ」とは言わず、「どこなら大丈夫ですか」と聞き直した。梨恵も、相手の顔色をうかがわず、自分の感覚を言葉にしていた。

優希は気づいた。変わったのは悠介の存在だけではない。母が、嫌なことを嫌だと言えるようになっている。

その日の夕食、悠介は帰った後だった。梨恵は椅子に足を乗せ、優希が作った焼きうどんを食べていた。

「今日、見たから」

優希が言うと、梨恵の箸が止まった。

「勝手に家に上げたこと、怒ってる?」

「そこじゃない。あの人、触る前に聞いてた」

梨恵は少し考えてから頷いた。「いつも聞いてくれるよ」

「お母さんも、痛いって言ってた」

「言っていいと思えるから」

その答えに、優希は胸の奥が熱くなった。母は弱いから守らなければならない、とずっと思っていた。しかし目の前の母は、自分の境界を自分で守ろうとしている。

「私、子どもの頃、お母さんを守れてると思ってた」

初めて口にすると、梨恵は箸を置いた。

「守ってくれてたよ。優希がいてくれたから、私は家を出る決心ができた」

「でも、それって私がいなかったら逃げなかったってことでしょ」

責めるつもりはなかったのに、声が震えた。

梨恵は答えを急がなかった。「そうかもしれない。あの頃の私は、自分一人のために逃げていいと思えなかった。でも今は違う。私自身も、安全で幸せに生きていいと思い始めてる」

優希の目に涙が滲んだ。「じゃあ、私がずっと見張ってなくても大丈夫?」

「大丈夫。もし困ったら助けてって言う。でも、優希の人生を止めてまで守ってもらうつもりはないよ」

二人は食卓を挟んで泣いた。長いあいだ母と娘の間にあった役割が、その夜、少しだけほどけた。

数週間後、学校の文化祭へ悠介が来た。梨恵が仕事で遅れるため、先に会場へ着いただけだったが、優希は友人に紹介するか迷った。

「母の知り合い」と言えば簡単だった。それでも、悠介が自分の展示を一つずつ丁寧に見ている姿を見て、優希は美月へ言った。

「あの人、お母さんの大切な人」

悠介には聞こえない距離だった。口にした優希自身が、その言葉に一番驚いた。


その夜、優希は梨恵に言った。


「お母さん、あの人、いい人なんじゃない? まだ全部信じたわけじゃないけど、お母さんがあんなに嬉しそうにしてるの、久しぶりに見たから。会うの、もう反対しないよ」


その言葉に、梨恵は目を見開いた。信じられない思いだった。娘が、悠介との関係を応援してくれる日が来るなんて。梨恵の目から、喜びと安堵の涙がこぼれ落ちた。

優希は、悠介を認めた自分が父親を裏切ったように感じる時もあった。嫌いな相手でも、父親であった事実は消えない。

梨恵は「そんなふうに思わなくていい」と言わず、娘の矛盾した気持ちを聞いた。

「悠介さんを好きになることと、お父さんとの記憶を持っていることは、両方あっていいよ」

優希は頷いた。新しい家族を受け入れるために、過去の自分を切り捨てなくてよい。その安心も、悠介を信じるために必要だった。

その言葉を口にした後、優希は自分の部屋で少し泣いた。母の幸せを願う気持ちと、二人だけの暮らしが変わる寂しさは、どちらも本物だった。

翌朝、梨恵はその腫れた目に気づいたが、理由を決めつけなかった。「話したくなったら聞くよ」とだけ伝えた。

優希は登校前、玄関で振り返った。「応援するって言ったけど、寂しい時は寂しいって言うから」

「うん。言ってね」

梨恵は、応援という言葉を自分に都合よく使わないようにした。優希が反対しなくなったからといって、すべてを喜んで受け入れたわけではない。

悠介と会う日も、梨恵は優希へ「行ってもいい?」とは聞かなかった。許可を求めれば、娘に責任を負わせることになる。代わりに予定を伝え、困ることがないか尋ねた。

「夕飯は?」

「作っておく。ほかに何かある?」

「ない。楽しんできて」

優希は時々、寂しいとも言った。梨恵は予定をすべて取り消さず、別の日に二人で過ごす時間を作った。

母と娘、恋人同士、三人の家族。どれか一つを選び、他を犠牲にするのではなく、それぞれの時間を話し合って置いていく。梨恵はそこで初めて、誰かを大切にすることと、自分の望みを持つことが両立すると知った。

優希がそう言った翌朝、梨恵はいつもどおり弁当を作った。卵焼きを焦がし、慌てて作り直そうとすると、優希が焦げた方を弁当箱へ入れた。

「これでいいよ」

「でも、苦いかもしれない」

「昨日あんな話したからって、急に完璧なお母さんにならなくていいから」

梨恵は手を止めた。自分は母親として失敗しないよう、常に身構えていた。優希が悠介を受け入れれば、その分さらに娘を大切にしなければならないと思っていた。

「私、悠介さんと会うことで、優希に我慢させてない?」

「我慢することもあるよ。でも、全部我慢じゃない。嫌な時は言うから、お母さんも勝手に決めないで」

その日、優希は悠介へ初めて自分からメッセージを送った。

『お母さん、今日も足が痛いみたいです。でも本人に聞いてから来てください』

悠介からは、『教えてくれてありがとう。梨恵さんに確認します』と返ってきた。

優希は画面を見て、安心した。悠介が自分の知らせを、家へ入る許可として使わなかったからだ。

夕方、梨恵が頼んだ買い物だけを玄関で渡し、悠介は帰った。優希はその背中を見送った。

優希は、その考えをすぐ日常へ移せたわけではない。梨恵が風邪をひけば学校を休もうとし、悠介が来ると聞けば、二人きりにしない方がよいか考えた。

ある朝、梨恵が熱を出した。優希は模擬試験の日だったが、「休む」と制服を脱ぎかけた。

「試験へ行って」

梨恵は布団の中から言った。「病院には悠介さんに付き添ってもらう。優希は自分の予定を大事にして」

「でも」

「助けてくれる人がいるから、あなたに頼まなくていい日もあるの」

優希は不安なまま家を出た。試験中もスマートフォンが気になったが、休憩時間に梨恵から『診察終わりました。ただの風邪です』と届いた。

帰宅すると、台所に鍋があり、悠介が作った薄いスープが残っていた。梨恵は眠り、悠介はすでに帰っていた。優希がいない間に何も壊れなかった。

夜、悠介へ礼を送ると、『優希さんも試験お疲れさまでした』と返ってきた。母の看病をしたことを恩に着せず、優希の一日も覚えていた。

それから優希は、母を誰かに任せることを少しずつ覚えた。任せるとは、責任を放棄することではない。信頼できる人と分けることだと分かった。

同時に梨恵も、娘が心配する前に自分から助けを求めるようになった。「買い物をお願い」「今日は一人で休みたい」。希望を具体的に言える母を見て、優希は自分の予定を優先してもよいと思えるようになった。

翌週、優希は悠介と二人で帰ることになった。梨恵が店の会議で遅くなり、悠介が文化祭の写真を届けに来たためだった。

駅までの道で、優希は何を話せばいいか分からなかった。悠介も無理に会話を作らない。信号待ちで、向かいの歩道から男性の怒鳴り声が聞こえた。優希の足が止まった。

悠介は腕をつかまず、優希の視界に入る位置へ移動した。

「ここにいます。道を変えますか」

優希は頷いた。二人は商店街の中へ入り、人通りのある道を選んだ。悠介は「大丈夫?」と何度も聞かなかった。優希が自分で歩ける速度を保った。

しばらくして、優希が言った。

「お母さんも、こうなることある?」

「あります。でも、詳しいことは梨恵さんから聞いてください。僕が話していいことじゃないから」

悠介が母の秘密を勝手に共有しなかったことに、優希は安心した。

「悠介さんは、怒鳴られたことないの?」

「大声より、言葉で何度も否定されました。だから、誰かが不機嫌だと、今も自分のせいだと思うことがあります」

「男の人でも、そうなるんだ」

「なります。傷つき方に、男も女もないと思います」

優希は父親以外の男性が弱さを語るのを初めて聞いた。父親は恐怖を怒りに変え、家族へぶつけた。悠介は恐怖を認め、相手へ責任を負わせないよう努めていた。

駅前で別れる時、優希は「今日はありがとう」と言った。

「何もしていません」

「何もしないで待ってくれたから」

悠介は少し驚き、それから頷いた。優しさには、動かないという形もある。その日、二人は初めて、梨恵を通さず互いの傷について話した。

優希が反対しないと伝えた後、梨恵は嬉しさのあまり、すぐ悠介へ電話しようとした。だが優希が「まだ条件がある」と言った。

「私の前で、無理にお父さんみたいにしないでほしい。進路とか門限とか、急に決めないで」

「分かった。悠介さんにも伝える」

「それと、お母さんが嫌なことは自分で言って。私から言わせないで」

梨恵は胸を突かれた。元夫との間では、優希が母を庇って前へ出る場面が何度もあった。悠介との関係でも、娘を盾にしようとしていたのかもしれない。

「約束する。私が言う」

その夜、梨恵は電話ではなく、翌日会って伝えた。悠介は優希の条件を一つずつ聞き、頷いた。

「僕からも、優希さんに伝えたいことがあります。僕を信用できない時は、梨恵さんを通さず、直接言ってもらえると助かります」

「怖くないの?」

「怖いです。でも、見えないところで嫌われていると想像する方が、たぶんもっと怖い」

三人で会った際、連絡先を交換した。最初に優希から届いたのは、『お母さん、今日残業で遅いみたい』という事務的な文だった。悠介は長い返信を作りかけ、『教えてくれてありがとう。気をつけて帰るよう伝えます』と短く返した。

それから連絡は少しずつ増えた。梨恵への誕生日プレゼントの相談、大学の資料の印刷、電車の遅延。家族らしい温かい言葉ばかりではない。しかし、必要なことを直接伝えられる関係は、三人に安心を与えた。

悠介が家を訪ねる時は、必ず事前に連絡した。梨恵が合鍵を渡そうとした時も、「優希さんと話してからにしましょう」と受け取らなかった。

その話を聞いた優希は、自分が邪魔をしているようで複雑だった。

「私がいいって言わないと、鍵も持てないの?」

「許可をもらうというより、同じ家に暮らす人が安心できるように決めたいんです」

「でも、お母さんの家だよ」

「今は優希さんの家でもあります」

悠介は当然のことのように答えた。父親は家を自分の所有物と呼び、他の家族の都合を聞かなかった。悠介は住んでいない家にも、その中で暮らす人それぞれの権利があると考えていた。

三人で相談し、合鍵はまだ渡さないことにした。梨恵が体調を崩した場合など、必要になった時に改めて考える。悠介は残念そうな顔をせず、「分かりました」と言った。

数か月後、梨恵が店で倒れ、病院へ運ばれた。優希は授業中で電話に出られず、悠介が病院へ駆けつけた。家から保険証の控えや着替えを持ってくる必要が生じ、優希が電話で鍵の場所を伝えた。

悠介は家へ入る前に優希へ再確認し、指定された物だけを持ち出した。寝室や引き出しを勝手に探さず、見つからないものは諦めた。

梨恵は過労による軽い貧血で、その日のうちに帰宅できた。優希が家へ戻ると、悠介は玄関で鍵を返した。

「持っていてもいいよ」

優希は自分から言った。「勝手に入らないって分かったから」

悠介は鍵を受け取り、目を赤くした。信用は、試験に一度合格して得るものではない。小さな選択を重ねた先で、相手から渡されるものだった。

それでも、優希の警戒がすべて消えたわけではなかった。翌月、梨恵の誕生日を三人で祝うことになった時、悠介は店を予約する前に優希へ連絡した。

『お母さんは家で過ごすのと外で食べるの、どちらが楽だと思いますか』

優希は、本人に聞けばいいと返信しかけて手を止めた。驚かせたいのだろう。しかし勝手に計画することと、相手を喜ばせることの違いは難しい。

『最近疲れてるから、家がいいと思う。でも料理を全部お母さんにさせないで』

『分かりました。僕が作れるものを練習します』

悠介は一週間、オムライスの練習をした。最初は卵が破れ、二度目はご飯が多すぎた。優希は写真で進み具合を確認し、「形は諦めて味で勝負」と助言した。

誕生日当日、梨恵が帰宅すると、食卓には不格好なオムライスと、店長が用意してくれた小さなケーキが並んでいた。

「二人で作ったの?」

「私は監督」

優希が答え、悠介は「ほとんど指示どおりにしただけです」と笑った。

梨恵は最初の一口を食べ、しばらく黙った。悠介が不安そうに「味、変ですか」と尋ねると、梨恵は首を振った。

「誰かが私のために食事を作ってくれたの、いつ以来だろうと思って」

元夫は、梨恵の誕生日にも自分の好物を要求した。祝われる側になった記憶がほとんどない。

「来年は、もう少し上手になります」

「来年も作るの?」

「嫌でなければ」

梨恵は笑った。「じゃあ、私も食べたいものを言うね」

その夜、優希は二人の会話を聞きながら、自分が間に入らなくても母が希望を言えていることを確認した。安心すると同時に、少しだけ取り残されたような寂しさもあった。

悠介はその変化に気づき、帰り際に「今度は優希さんの好きなものも教えてください」と言った。三人になるために、母と娘の二人を壊す必要はない。その姿勢が、優希の信頼をさらに深めた。

父親は家事を「女がするもの」と言いながら、梨恵のやり方を細かく批判した。床に髪の毛が一本落ちていれば怠けていると言い、惣菜を買えば母親失格だと罵った。優希が手伝おうとすると、「子どもにさせるな」と梨恵を責めた。

目の前の悠介は、梨恵が休んでいることを責めず、世話をした自分を誇示もしなかった。梨恵が眠そうに目を閉じると、テレビの音量を下げ、読みかけの新聞を静かに畳んだ。

優希はわざと廊下で足音を立てた。悠介は振り返り、驚いた顔で立ち上がった。

「お帰りなさい。勝手に上がってしまって、ごめんなさい」

「お母さんがいいって言ったなら、別に」

優希は冷蔵庫を開け、水を取り出した。「夕飯、どうするの」

梨恵が立とうとすると、悠介が「僕が何か買ってきます」と言った。優希は試すように尋ねた。

「料理できないんですか」

「ほとんどできません。最近、スープを覚えたくらいです」

格好をつけずに答えたことが意外だった。

「じゃあ、私が作る。焼きうどんでいいなら」

「手伝ってもいいですか。邪魔なら、買い物だけ行きます」

優希は少し考え、野菜を切るよう頼んだ。悠介の包丁使いは危なっかしく、人参の大きさはばらばらだった。優希が「大きすぎ」と言うと、悠介は言い訳せず切り直した。

三人で食卓を囲んだ時、梨恵は「おいしい」と何度も言った。悠介も形の不揃いな人参を箸で持ち、「これは僕です」と笑った。

優希は、その夜の光景を何日も考えた。人は一度の親切だけでは分からない。それでも、失敗を笑われても怒らず、できないことを認め、指示に従える大人を、父親以外に初めて身近で見た。

後日、優希は悠介へ一つだけ尋ねた。

「もしお母さんが、もう会いたくないって言ったら、どうしますか」

悠介は顔を曇らせた。「悲しいけど、理由を聞いて、それでも気持ちが変わらないなら受け入れます」

「追いかけたりしない?」

「しません」

短い答えだった。優希はその言葉を、信用するのではなく覚えておこうと思った。

数週間後、優希は悠介へ文化祭の招待券を渡した。「来てもいいけど、友達にはお母さんの知り合いって言うから」と条件をつけた。

当日、悠介は会場の隅で展示を見た。優希を見つけても大きく手を振らず、目が合った時だけ会釈した。梨恵と並んで歩くことも避け、娘が説明した距離を守った。

帰宅後、優希は「どうだった」と自分から尋ねた。悠介は出来栄えを褒める前に、「呼んでくれて嬉しかった」と答えた。優希は照れた顔で水を飲み、次は友人にも紹介するかもしれない、と小さく言った。

信用は、大きな宣言で決まるものではなかった。招待券を渡し、決めた距離が守られ、また次の約束を試す。その繰り返しの中で、優希は警戒を手放すのではなく、警戒したまま人と関われるようになっていった。


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