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最後に咲く花  作者: 久遠 睦


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第2部 信じることの試練     第3章 娘という盾

梨恵の娘、優希は、母の恋愛に断固反対していた。一度失敗した母が、また傷つくことを恐れたのだ。優希の脳裏には、父親の理不尽な怒声と、母のやつれた顔が焼き付いていた。

優希は高校三年生だった。進路調査票の第一志望には、自宅から通える大学を書いた。本当は県外の大学にも興味があったが、梨恵を一人にすることが不安だった。

修学旅行の案内が配られた時、優希は参加希望の欄を空白にした。二泊三日。家を離れることより、梨恵を一人にすることが怖かった。

「費用のことなら心配しなくていいよ」

梨恵は積立をしていた。だが優希は、「行きたくないだけ」と答えた。

美月からも誘われ、優希の気持ちは揺れた。友人と旅行をしてみたい。一方で、自分がいない夜に何か起きたらと思うと、胸が苦しくなった。

梨恵は理由に気づき、「私は大丈夫」と繰り返したが、優希には根拠のない慰めに聞こえた。

その話を聞いた悠介は、優希を説得しなかった。三人で食事をした帰り、駅のベンチで言った。

「行くかどうかは優希さんが決めることだけど、お母さんを一人にするのが心配なら、僕にできることを相談してもいいですか」

「留守の間、お母さんと一緒にいるってこと?」

優希の声には警戒が混じった。

「それは梨恵さんが望むなら。でも、毎晩電話するだけでもいいし、何もしない方が安心ならそうする。優希さんが、お母さんを見張る役目を僕へ渡す必要はありません」

予想外の答えだった。悠介は自分を頼れと言いながら、責任を引き受けて優希を従わせようとはしなかった。

三人で話し合い、旅行中は梨恵が夜に一度だけメッセージを送ることになった。悠介は初日の夕食を一緒に食べるが、家には泊まらない。優希は納得し、参加希望へ丸をつけた。

旅行先の海岸で、美月と写真を撮った時、優希は久しぶりに家のことを忘れて笑った。夜、梨恵から『今日も無事。新作の試作がうまくいったよ』と届いた。続けて悠介からではなく、梨恵自身の言葉で『楽しんできてね』と書かれていた。

優希は、母は自分がいなくても一日を過ごせるのだと知った。安心と寂しさが同時に訪れた。自分の役割がなくなるようで不安だったが、その空いた場所に、友人との時間や自分の将来を置いてもよいのかもしれない。

帰宅すると、梨恵は土産話を楽しそうに聞いた。悠介は前日に少し会っただけで、優希のいない間に二人の関係を進めた様子はなかった。その節度が、優希の中の小さな信用になった。

父親と暮らしていた頃、優希は玄関の鍵が回る音だけで、その日の機嫌を推測できた。靴を脱ぐ音が乱暴なら、テレビの音量を下げる。鞄が床へ投げられたら、母を台所から遠ざける理由を考える。子どもなりに編み出した小さな対策が、家族を守っていると信じていた。

離婚後も、その習慣は消えなかった。梨恵の帰宅が予定より十分遅ければ連絡し、疲れた顔をしていれば翌日の家事を先回りした。母に感謝されるたび、役に立てた安心と、役に立ち続けなければならない緊張を同時に覚えた。

学校では明るく振る舞った。友人の美月から「優希ってしっかりしてるよね」と言われると、笑って肩をすくめた。誰も、夜中に物音で目を覚ますことや、知らない男性の大声に足がすくむことを知らなかった。

ある昼休み、美月が両親の結婚記念日の話をした。父親が花束を買い、母親が照れながら写真を撮ったという。優希は「仲良すぎ」と笑ったが、胸の奥がざわついた。そんな家庭が本当に存在することを、頭では知っている。しかし自分の家に同じものが訪れるとは思えなかった。

母のスマートフォンに見慣れない名前が表示され始めたのは、その頃だった。梨恵は通知を見ると、疲れていた顔をふっと緩める。すぐに返信せず、文章を考えながら何度も画面を見る。その姿を、優希は黙って観察した。

母が笑うことは嬉しい。だが、その笑顔を与えられるのが自分ではない誰かだと思うと、不安になった。また男の人が家へ入り込み、母を変えてしまうのではないか。優しい顔で近づき、逃げ道を塞ぐのではないか。

優希にとって反対することは、母を束縛するためではなかった。二度とあの家へ戻らないための、唯一知っている守り方だった。


ある日曜日、梨恵が外出の準備をしていると、優希が不思議そうな顔で尋ねた。「お母さん、化粧してる。今日何かあるの?」梨恵は普段なら薄く済ませるベースメイクも、目元もしっかりと整えていた。ほとんど使わない明るい色の口紅も引いている。


「もしかして、男と会うの?」優希の言葉に、梨恵は一瞬たじろいだ。


「絶対やめて。また裏切られて、苦しい思いするのお母さんだよ。男なんて作らないでね。私がちゃんと見ててあげるから」

梨恵は口紅の蓋を閉め、鏡越しに娘を見た。嘘をつけば、この先も隠し続けなければならない。

「友達になった人と会うの」

「男の人なんでしょ」

「そう。でも、まだ何かを決めたわけじゃないよ」

優希は腕を組み、戸口にもたれた。「決める前が一番危ないんじゃないの。お父さんだって、最初は優しかったって言ってたよね」

梨恵は返す言葉を失った。娘の指摘は正しい。元夫も交際中は穏やかで、梨恵の仕事を応援すると言っていた。支配が始まったのは、結婚して生活を共有してからだった。

「悠介さんは、あの人とは違う」

「どうして分かるの?」

強い問いに、梨恵はすぐ答えられなかった。悠介の何を知っているのかと聞かれれば、まだ多くは知らない。好きな作家、仕事、釣りが好きだったこと、元妻との関係で傷ついたこと。会う時に約束を守り、嫌なことを無理に聞かないこと。

「全部分かっているわけじゃない。でも、分からないからこそ、急がずに知っていこうと思ってる」

「お母さんは、人を疑えないから」

「今は疑うことも覚えたよ。それに、嫌だと思ったら嫌だと言う。優希にも隠さない」

優希は唇を噛んだ。母が自分の意思を語る姿は、以前より強く見えた。その強さが悠介との出会いによるものなら、すべてを否定してよいのか迷う。それでも「行ってらっしゃい」とは言えず、自室の扉を少し強く閉めた。

梨恵は玄関で靴を履いたまま、しばらく動けなかった。娘を傷つけてまで会うべきなのか。母親であることと、一人の女性として生きることが、互いを押しのけ合っているように思えた。

その日の喫茶店で、梨恵は悠介に優希との会話を話した。

「娘さんが反対するのは当然だと思います」

悠介はそう言い、自分を弁護しなかった。

「僕が信用してほしいと言っても、言葉だけでは無理です。会ってほしいとも急いで言わない方がいい。梨恵さんと娘さんが話せる時間を大切にしてください」

梨恵は胸の奥がほどけるのを感じた。元夫なら、娘より自分を優先しろと迫っただろう。悠介は、自分の不安を満たすために二人の間へ割り込まなかった。

「ありがとうございます。でも、いつか会ってください。私が大切にしたい二人が、互いを知らないままなのは寂しいから」

悠介は緊張した面持ちで、それでも頷いた。


優希は、母が外出した夜、机に向かっても勉強が手につかなかった。時計を見ては、約束の帰宅時刻まであと何分か数えた。三十分前になると、スマートフォンを手に取り、連絡する理由を探した。

『雨が降りそうだよ』

送信すると、梨恵からすぐ返信があった。

『教えてくれてありがとう。傘を持ってるよ。九時には帰ります』

優希は安心したが、同時に自分が母の予定を管理しているようで嫌になった。父親も、梨恵の帰宅時刻を細かく確認していた。理由は違う。自分は守りたいだけだ。それでも、相手の行動を監視する形は似ている。

美月に相談すると、「心配なら心配って言えばいいじゃん」と答えられた。

「言ったら、お母さんが出かけなくなるかもしれない」

「それを決めるのはお母さんでしょ」

簡単な言葉だったが、優希には難しかった。梨恵が不安そうなら、自分の希望を引っ込める。二人は長い間、互いの顔色を読み、傷つけないために言葉を飲み込んできた。

帰宅した梨恵に、優希は正直に話した。

「出かけるのが嫌っていうより、帰ってこなかったらって思うと怖い。でも、それでお母さんを止めるのも嫌」

梨恵はコートを脱ぎ、娘の向かいへ座った。

「言ってくれてありがとう。私も優希が帰ってこないと怖くなる。でも、怖いからって全部やめたら、私たちの世界が小さくなっちゃうね」

二人は、帰宅時刻を命令ではなく目安として共有し、遅れる時だけ連絡することにした。返信がすぐ来なくても、三十分は待つ。緊急時の連絡先も決めた。

決まりを作ることで、優希は母を思いどおりに動かすのではなく、自分の不安を扱えるようになった。梨恵も、娘に気づかれないよう隠すのではなく、安全の方法を一緒に考えられた。


しかし、悠介と出会ってからの梨恵の日常は、少しずつ彩りを取り戻していった。悠介と会う日は、梨恵の顔に今までになかった明るい笑顔が増えた。声のトーンも弾み、家事をする鼻歌も増えた。優希はそんな母の変化を、冷静に観察していた。

梨恵が担当した新しいフィナンシェが店頭へ並んだ日、優希は学校帰りに店へ寄った。ショーケースの札には、梨恵が考えた商品名が書かれていた。

接客中の梨恵は、家で見るより背筋が伸びていた。客へ味の特徴を説明し、同僚から質問されると迷わず答える。優希は、母を弱く守られる人としてしか見ていなかった自分に気づいた。

山岸が優希へ声をかけた。

「お母さん、すごいんだよ。何度も試作して、みんなの意見も聞いて仕上げたんだ」

優希は嬉しかった。同時に、母の努力を自分が知らなかったことが寂しかった。

閉店後、二人で帰る道で言った。

「お母さん、仕事の話、もっとしてよ」

「疲れる話ばかりだから、聞かせない方がいいと思ってた」

「愚痴を全部聞きたいわけじゃないけど、お母さんが何を好きなのか知りたい」

梨恵は歩みを止めた。優希は母の苦労を把握するためではなく、一人の人間として知りたいと言っている。

その夜、梨恵は試作で砂糖の量を何度も変えたこと、温度計を悠介から贈られたこと、採用された時に嬉しかったことを話した。優希は途中で「それで悠介さんが出てくるんだ」と笑った。

母の人生には、自分の知らない仕事や友人や恋愛がある。それは優希を遠ざけるものではなく、母が母親だけではない証拠だった。

後日、優希は自分の進路についても、守られる娘としてではなく、一人の学生として梨恵へ相談した。二人の関係は、互いの生活を監視するものから、必要な時に言葉を持ち寄るものへ変わり始めた。

進路を決めるため、優希は梨恵と大学のオープンキャンパスへ行った。悠介も誘われたが、「二人で見たいこともあるでしょう」と遠慮した。代わりに、会場までの乗り換えだけを調べて送った。

講義体験で家族心理学の話を聞き、優希は胸が苦しくなった。家族の中で子どもが大人の役割を担うことがある、と講師が説明した。自分を名指しされたようだった。

帰り道、梨恵にその話をした。

「私、お母さんの子どもだったのに、ずっと大人みたいにしてたのかな」

「そうさせてしまったと思う」

梨恵は目を伏せた。優希はすぐに「お母さんのせいじゃない」と言いかけ、止めた。母を慰めることが、また役目になる気がした。

「誰か一人のせいって言いたいんじゃない。私がこれから、どうしたいか考えたい」

梨恵は顔を上げた。「うん。聞くよ」

優希は県外の大学にも興味があると初めて話した。学びたい先生がいること、寮生活にも憧れていること。ただし費用や母のことが不安で、自宅通学だけを考えていたこと。

梨恵は驚いたが、反対しなかった。奨学金や学費、生活費を一緒に調べようと答えた。悠介にも相談するかは、優希に決めてもらった。

後日、優希は自分から悠介へ資料を見せた。悠介は費用を出すとは言わず、表を作る手伝いを申し出た。給付型奨学金、寮費、通学の場合の交通費。それぞれの条件を並べると、感情だけでなく現実から選べるようになった。

最終的に優希は自宅から通える大学を選んだ。母を守るためではなく、学びたい内容と費用を比較して自分で決めた。結果は同じでも、選び方は以前とは違っていた。

文化祭の準備期間、優希のクラスでは装飾の方針を巡って意見がぶつかった。男子生徒が大声で机を叩いた瞬間、優希は呼吸ができなくなった。教室を飛び出し、階段の踊り場でしゃがみ込んだ。

美月が背中をさすり、保健室へ連れていった。担任から梨恵へ連絡が入ったが、繁忙時間で電話に出られなかった。緊急連絡先として登録していた悠介へ、梨恵から短いメッセージが届いた。

悠介は会社を早退し、学校へ向かった。保健室の前まで来たものの、すぐ中へは入らなかった。養護教諭へ自分の立場を説明し、優希本人が会ってもよいと言った時だけ入室した。

「お母さんじゃなくて、ごめん」

悠介が言うと、優希は枕から顔を上げた。「謝らなくていい。来てくれたんでしょ」

帰り道、悠介は原因を尋ねなかった。駅前のベンチで、優希が自分から話し始めるまで、温かいココアの缶を持って待った。

「男の子が怒っただけ。私に怒ったわけでもないのに、動けなくなった」

「身体が、前のことを思い出したのかもしれないね」

「こんなんじゃ、大学に行っても働いても、ずっと駄目じゃん」

悠介は少し考えた。「僕も会議で声が出なくなる。でも、出なかった日は失敗じゃなくて、次にどうするか考える日にしてる。うまくできないけど」

完璧に乗り越えた大人ではなく、今も困りながら生きる人の言葉だった。

梨恵が迎えに来ると、優希は初めて、学校で大声を聞くのが怖いと話した。母を心配させまいと隠してきたことも伝えた。

後日、担任と養護教諭を交え、苦しくなった時は保健室へ移動できることを確認した。優希は「特別扱いされたくない」と抵抗したが、逃げ道を用意することは弱さではないと少しずつ理解した。

文化祭当日、問題のあった男子生徒も優希へ謝った。彼自身も準備が間に合わず焦っていたという。優希は許すかどうかを急がず、「大声と机を叩くのはやめて」と伝えた。男子生徒は頷いた。

優希は、怖さを我慢する以外にも、自分を守る方法があることを知った。悠介は会場の隅から、その姿を見守った。


梨恵は、このまま悠介の存在を隠し続けるのは違うと感じ、優希に悠介と会ってほしいと切り出した。優希は予想通り、激しく嫌がったが、梨恵の真剣な眼差しに、渋々承諾した。

会わせる前に、梨恵は悠介との間でいくつか確認をした。優希の前で過去の家庭について詳しく話さないこと。父親を悪く言うよう求めないこと。優希が席を立ちたいと言ったら止めないこと。

「僕からも一つお願いがあります」

悠介は言った。「娘さんが僕を嫌っても、梨恵さんが間に入って謝らないでください。娘さんには嫌う理由があると思うから」

梨恵は胸を突かれた。元夫と優希の間で、何度も双方へ謝ってきた。家族の機嫌を保つことが自分の責任だと思っていた。

「でも、空気が悪くなったら」

「悪い空気のまま終わる日があってもいいと思います。すぐ仲良くなることを目標にしない方が、僕も無理をしなくて済みます」

悠介の言葉には、自分を立派に見せようとする強がりがなかった。緊張していることも、嫌われるのが怖いことも認めていた。

優希にも、会う場所を選んでもらった。人目があり、途中で帰りやすい店がいいと言い、駅前のレストランになった。個室は梨恵が予約したが、扉は完全に閉めないよう店員へ頼んだ。

当日の朝、優希は何度も「一時間で帰る」と確認した。梨恵は「分かった」と答えた。相手に悪いからと予定を延ばさない。その約束を守ることが、悠介を紹介すること以上に大切だった。

悠介は約束の二十分前に店へ着いた。手土産を持つべきか迷い、駅の売店を三周した末、何も買わなかった。高価な品は機嫌を取ろうとしているように見えるかもしれない。何も持たなければ気遣いがないと思われるかもしれない。考えるほど答えが遠のいた。

個室へ入ってきた優希は、写真で見るより幼さが残っていた。しかし目だけは、大人を値踏みするように鋭かった。

食事の間、優希は終始そっけない態度を崩さなかった。悠介からの質問にも「うん」「別に」と短く答えるだけだった。

「初めまして、石田悠介です」

「佐伯優希です」

優希は頭を下げたが、笑わなかった。梨恵が場を和ませようと料理の話をしても、短く答えるだけだった。

悠介は、好かれようとするのをやめた。質問を重ねれば尋問になる。自分の話ばかりすれば信用を押しつけることになる。食事を取り分ける時も、「これ、取っていいですか」と一度確認した。

優希は、そのたびに悠介の手元を見た。動作が急ではない。梨恵が水をこぼしても、眉をひそめず黙って布巾を渡した。店員が料理を間違えた時も、「大丈夫です」と穏やかに伝えた。

食事の途中、優希は意を決したように聞いた。

「お母さんと、結婚するつもりですか」

梨恵が息を呑んだ。悠介は箸を置いた。

「今、僕一人が答えを決めることではないと思っています」

「逃げてるんですか」

「そう聞こえたなら、ごめんなさい。僕は梨恵さんを大切に思っています。でも、梨恵さんの暮らしには優希さんがいる。僕の希望だけで先のことを決めたくありません」

優希は目を細めた。「私が反対したら、やめるんですか」

「君に決定の責任を負わせるつもりはありません。ただ、君が不安だということを無視して進みたくないんです」

答えを聞いた優希は黙った。父親は、家族の決定をすべて自分のものにした。母は従い、優希は空気を読んだ。目の前の男性は、自分の望みを語りながら、他人の意思が存在することを当然のように認めていた。

優希が壁の時計へ目をやると、悠介はすぐに気づき、会計を頼んだ。「もう少し話したかったけど、今日はありがとう」その一言に、優希は、自分の希望が大人の都合より優先されたのだと感じた。約束どおり、食事はきっかり一時間十分で終わっていた。

帰り際、悠介は優希へ連絡先を渡そうとはしなかった。梨恵を通じてまた会えたら、とだけ言った。優希は小さく会釈し、駅までの道で母に尋ねた。

「あの人、いつもあんなにゆっくり話すの?」

「うん。言葉を大切に選ぶ人なの」

「考えすぎて疲れそう」

そう言いながら、優希の声からは、会う前ほどの硬さが消えていた。


悠介は無理に距離を縮めようとはしなかった。終始穏やかに、優希が話したいことだけに耳を傾けた。好きな音楽や学校での出来事を尋ねる時も、答えを急かさない。梨恵のことを語る言葉には、尊敬と愛情が滲んでいた。優希は、その誠実さに触れ、少しだけ彼への印象を変えた。

二度目の食事は、優希の希望で昼の喫茶店になった。前回より短い時間で、梨恵も途中から仕事へ向かう予定だった。

梨恵が席を外した時、優希は単刀直入に聞いた。

「お母さんのどこが好きなんですか」

悠介は驚き、答えを探した。

「優しいところ、というと簡単すぎますね。仕事の話をする時、自分で考えたことを大切にしているところ。怖いことがあっても、優希さんのためだけではなく、自分のためにも前へ進もうとしているところです」

「かわいそうだからじゃないんですか」

「違います。でも、傷ついた経験があることを知って、僕に似ていると思ったのは本当です」

「似てるから安心した?」

「最初は。今は、違うところも知りたいと思っています」

優希は答えを聞き、少しだけ頷いた。母を被害者としてだけ見ていないことが分かった。

「もしお母さんとけんかしたら、どうしますか」

「話せる時に話します。すぐ無理なら、いつ話すかを決めます」

「黙って帰らない?」

悠介は、元妻との衝突を避けるため、何日も口をきかなかった自分を思い出した。

「黙りたくなると思います。でも、黙りたいと伝えるようにします」

完璧な答えではなかった。だからこそ優希は信じられる気がした。自分は絶対に間違えないと約束する人より、間違えた時の方法を考える人の方が安心できた。

文化祭の準備が遅くなった夕方、優希は迎えを頼むか迷った。母へ電話すれば心配させる。悠介へ頼めば、借りを作るようで落ち着かない。

結局、三人の連絡用グループへ『駅まで迎えに来られる人いる?』と送った。悠介から『行けます。校門の外で待ちます』と返事が来た。教室まで来ないという一文に、優希は少し息をついた。

車内で悠介は文化祭の内容を尋ねたが、優希が短く答えると話題を変えた。沈黙が続いても、不機嫌にならなかった。家の前で優希が礼を言うと、「頼ってくれてありがとう」とだけ返した。

助けを求めれば相手の思いどおりにしなければならない、と優希は父親との生活で覚えていた。けれどこの迎えには、見返りも詮索もなかった。頼ることと支配されることは同じではない。その区別を、優希は小さな経験から学び始めた。


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