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最後に咲く花  作者: 久遠 睦


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第5章 傷跡のこだま

優希の応援という大きな後押しを得て、二人の関係は確かなものになりつつあった。そんなある日、悠介は梨恵を喜ばせたい一心で、一つの行動に出た。

三人で食事をする機会が増えた。悠介は、優希に父親らしく振る舞おうとはしなかった。進路について聞く時も、「決めたのか」ではなく、「どんなことに興味があるの」と尋ねた。

優希は心理学を学びたいと話した。自分や母の経験を、すぐ将来の仕事へ結びつけたいわけではない。ただ、人がなぜ恐怖を抱え、どうすれば安心を取り戻せるのか知りたかった。

「いいと思う」

悠介が答えると、優希は警戒するように聞いた。

「就職に役立つか分からないよ」

「役立つかどうかは後から分かることもある。知りたいと思った気持ちは、君のものだから」

優希は梨恵と目を合わせた。父親からは、興味を話す前に「金になるのか」と聞かれていた。悠介は結果ではなく、選んだ理由を聞いた。

悠介自身も、三人で過ごすうちに役に立たなければ愛されないという考えから少しずつ離れていた。皿を洗おうとして梨恵に「今日は私がする」と言われても、拒絶されたとは思わなくなった。優希に荷物を持つと申し出て「自分で持てる」と断られても、必要とされていないとは感じなかった。

けれど、回復は真っ直ぐには進まない。二人が幸せそうに笑うほど、悠介の中には、この場所を失いたくないという焦りも生まれた。その焦りが、何か大きなことをして自分の価値を証明したいという衝動へ変わっていった。


彼は、梨恵との未来を真剣に考え、新しい住まいを探し始めていた。そして、日当たりが良く、三人で暮らすのに十分な広さのマンションを見つけたのだ。自分が「役立たず」ではない、頼れるパートナーであることを証明したい。その必死の思いが、彼を突き動かした。そして、梨恵に相談なく、不動産業者に連絡を取り、内見の予約を入れてしまった。

悠介は幼い頃から、役に立つことを褒められてきた。父親の工具を取ってくれば「気が利く」と言われ、家の修理ができれば認められた。反対に、疲れて何もしない日は「男がぼんやりするな」と叱られた。

元妻との関係では、その価値観がさらに強くなった。稼ぎ、決め、問題を先回りして解決することが男の役目だと思った。だが何をしても元妻から評価されず、悠介はより大きな成果で認めさせようとした。

梨恵と暮らす未来を考えた時も、同じ方法を選びかけた。良い家を見つければ、自分が必要な人間だと証明できる。二人が喜べば、過去の評価が覆る。

「僕は、家を探していたんじゃなくて、合格証を探していたのかもしれない」

後日、講座の相談員へ話すと、「役に立つこと自体が悪いわけではありません」と言われた。

「ただ、相手が求めている助けか確認することと、助けを断られても自分の価値がなくならないと知ることが大切です」

悠介は、梨恵と優希へ何かを提案する前に、「今、意見を言ってもいい?」と尋ねる練習を始めた。最初は不自然だったが、二人は笑わなかった。

ある日、優希が重い参考書を運んでいた。悠介は反射的に持とうとして、手を止めた。

「手伝おうか」

「大丈夫。これは自分で持つ」

「分かった」

断られても、胸は以前ほど痛まなかった。数分後、優希が別の箱を指して「こっちはお願い」と言った。必要とされる形を、自分で決めなくてよい。相手が教えてくれるのを待てるようになった。

不動産情報を見るようになったのは、優希の大学合格が決まった頃だった。梨恵の部屋は二人で暮らすには十分だが、悠介が加われば狭い。駅から近く、優希の通学にも便利で、梨恵の職場へも通いやすい場所。条件を入力すると、画面にいくつもの物件が並んだ。

悠介は最初、眺めるだけのつもりだった。だが日当たりのよい三LDKの写真を見つけた時、胸が高鳴った。南向きのリビング、広い台所、優希が使える個室。そこに三人の生活を重ねた。

「これなら二人を幸せにできる」

そう思った瞬間、話し合うという発想が抜け落ちた。自分が先に整え、驚かせ、頼れる人間だと示したかった。

内見予約の確認メールが届いた時、悠介は達成感を覚えた。元妻との生活では、何をしても足りないと言われた。今度こそ、正しいことを先回りしてできたと思った。

その日の夕方、梨恵は仕事で失敗していた。予約ケーキの受け渡し時刻を勘違いし、店長と同僚に助けてもらった。責められはしなかったが、自分を責める気持ちを抱えたまま悠介に会った。

そんな梨恵にとって、相談なく住まいを決める方向へ進められたことは、単なる行き違いではなかった。元夫が転居や仕事を勝手に決め、後から従わせた記憶と重なった。

悠介が物件写真を見せながら「ここなら優希ちゃんの部屋もある」と笑った時、梨恵には善意を受け取る余裕がなかった。自分の生活が、また誰かの計画の中へ閉じ込められる。そう感じ、指先から血の気が引いていった。


その夜、悠介は興奮気味に梨恵に切り出した。「梨恵さん、素晴らしいマンションを見つけたんだ。今週末、一緒に見に行かないか?」


その言葉を聞いた瞬間、梨恵の表情が凍りついた。血の気が引いていくのが分かった。


男が、自分に相談なく、一方的に物事を決める。

梨恵の記憶では、元夫が転職を決めてきた日の食卓が鮮明だった。勤務地が変わり、家族も引っ越す必要があると、契約後に告げられた。

「優希の学校はどうするの」と尋ねると、「子どもはどこでも慣れる」と一蹴された。梨恵の仕事については、「どうせたいした収入じゃない」と笑われた。

引っ越し先の家も、元夫が一人で決めた。日当たりの悪い一階で、優希の通学路には車の多い交差点があった。梨恵が不安を口にすると、「文句があるなら、お前が金を出せ」と怒鳴られた。

悠介のスマートフォンに映る明るいマンションの写真は、あの家とはまったく違う。それでも「決められた」という一点が、過去の恐怖を呼び戻した。

梨恵は悠介の前で冷たい声を出した後、自分を責めた。善意を踏みにじったのではないか。せっかく優しい人に出会えたのに、自分のせいで壊すのではないか。

帰宅してからも、悠介へ謝る文を何度も作った。しかし送れば、自分の怖さをなかったことにして、また相手の機嫌を優先することになる。

梨恵は相談員から教わった呼吸を繰り返し、紙へ事実と感情を書き分けた。

事実。悠介が相談なく内見予約をした。まだ契約はしていない。予約は取り消せる。

感情。怖い。悲しい。自分の希望が無視されたように感じる。悠介を失いたくない。

望むこと。大きな決定は事前に話してほしい。優希の希望も聞いてほしい。今すぐ答えを出さず、落ち着いて話したい。

書くうちに、怒りの奥にある言葉が見えた。翌朝、梨恵は悠介へ『昨日は話せなくてごめんなさい。今日、落ち着いて話したいです』と送った。それは謝罪だけではなく、自分の希望を伝えるための連絡だった。


その行為は、梨恵の心の最も深い傷跡――元夫による支配の記憶――を容赦なく抉った。コントロールされることへの恐怖が、強烈なフラッシュバックとなって彼女を襲う。


「どうして……私に一言も相談なく、そんなことをしたの?」


彼女の声は、氷のように冷たかった。


悠介は、梨恵の反応に打ちのめされた。善意からの行動だった。彼女を喜ばせたかった。それなのに、冷たい声を向けられた瞬間、彼にはすべてを拒絶されたように感じられた。かつて元妻に「また失敗したのね」と、行動も判断も貶され続けた日々の絶望が、鮮明に蘇った。


二人は、それぞれのトラウマの殻に閉じこもった。部屋には、重く、息苦しい沈黙だけが流れていた。


翌日、二人は喫茶店「茜」で向き合った。長い沈黙の後、先に口を開いたのは悠介だった。

前夜、梨恵はほとんど眠れなかった。悠介から謝罪のメッセージが届いたが、すぐに返事はできなかった。怒りの奥に恐怖があり、そのさらに奥には、悠介を失うかもしれない悲しさがあった。

優希は母の様子を見て、理由を聞いた。梨恵が事情を話すと、優希はしばらく黙った。

「勝手に決めたのは嫌。でも、前のお父さんと同じかどうかは、これから何をするかで決まるんじゃない」

娘の言葉は、悠介を庇うものではなかった。梨恵が恐怖だけで結論を出さないよう、選択肢を残す言葉だった。

一方、悠介は内見予約を取り消した後、村田へ初めて私生活の悩みを少し話した。「喜ばせようとして、逆に怖がらせた」と言うと、村田はコーヒーを飲みながら答えた。

「相手のためにしたことでも、相手が望んでるかは別ですからね。でも、聞き直せばいいんじゃないですか」

単純な言葉だった。失敗したら終わりではなく、聞き直す。悠介にはなかった発想だった。

「茜」で向かい合った二人の間には、いつもの倍ほどの距離があるように感じられた。悠介は言い訳を並べないよう、準備してきた言葉を手帳へ書いていたが、手帳は開かなかった。

「昨日のこと、本当にすみません。善意だったから許してほしい、とは言いません。梨恵さんの暮らしを、僕が勝手に進めていいはずがなかった」

梨恵は両手を膝の上で握った。「私は、あなたが怖いというより、あの頃に戻るのが怖かった。頭では違うと分かっていても、身体が同じだと判断してしまったの」

「僕も、怒られた瞬間に、また全部間違えたと思いました」

二人は、同じ出来事を別の過去から見ていた。悠介は価値を否定されたと感じ、梨恵は自由を奪われたと感じた。どちらかだけが正しいのではない。その日は、それ以上を話せなかった。分かり合えたはずなのに、梨恵の胸には、まだ小さな棘のようなものが残っていた。悠介も、許されたという安心より、また誰かを怖がらせてしまったという事実の重さの方が大きかった。「茜」を出た後、二人はいつものように手をつなげなかった。

数日後、ようやく落ち着いて話せるようになった二人は、約束を紙に書いた。大きな出費や住まいの変更は、三人で話す。相手が黙った時は、同意と決めつけない。すぐ答えられない時は、「考える時間がほしい」と伝える。過去を思い出した時は、目の前の相手を過去の人物と同一視していないか確認する。

数日後、優希も交えて食卓でその約束を話した。優希は「私の進学先もまだ決まってないから、場所はそれから」と言った。

「そのとおりだね」

悠介が素直に頷くと、優希は少し笑った。

最初の内見は三か月後になった。三人は玄関の狭さや台所の高さ、駅までの道をそれぞれの視点で確かめた。物件自体は見送ったが、帰りに寄ったラーメン店で、三人とも妙に晴れやかな顔をしていた。

家を決める前に、三人は家具店へ行った。悠介は丈夫で長く使える大きな食卓を選び、梨恵は台所を狭くしない小さなものを希望した。優希は友人を呼べるよう、広げられる天板がいいと言った。

店員の説明を聞き、実際に椅子へ座った。三人の希望を満たす伸長式の食卓は、悠介の予算より少し高かった。

「僕が差額を出す」と言う前に、悠介は二人を見た。

「長く使うなら、少し予算を増やしてもいいと思う。でも、どうかな」

梨恵は家計表を確認し、他の家具を中古にすれば無理がないと提案した。優希はアルバイト代から出すと言ったが、二人はそれを断った。

「今は学費と自分の生活のために貯めて」

悠介が言うと、優希は「じゃあ組み立ては私もやる」と答えた。

引っ越し後、その食卓は家族会議の場所になった。傷つけたことを謝る時も、誕生日を祝う時も、優希が就職の内定を報告する時も、同じ木目の上に手を置いた。

一つの家具を選ぶだけでも、三人は何度も意見を交わした。以前の悠介なら効率が悪いと思ったかもしれない。だが、その時間そのものが、誰にも決定権を奪われない家を作っていた。

家は見つからなかった。それでも、自分たちで決める方法を見つけた。そのことの方が、三人には大切だった。

家探しが長引く間、三人は今の部屋でできる工夫を始めた。優希の勉強机を窓際へ移し、梨恵の菓子道具を棚へまとめ、悠介が泊まる日は布団を敷く場所を決めた。

狭さは変わらない。それでも、物の位置を三人で決めるだけで、暮らしやすさが増した。

悠介は、自分の部屋にある物を少しずつ整理した。新居へ持っていく前提ではなく、自分に必要な物を選ぶためだった。元妻の好みで買った家具、使わない食器、誰にも見せないまま保管していた書類。

捨てるか迷った物は、すぐ決めず箱へ入れた。梨恵は判断を急かさなかった。

「新しい家に、過去の物を持ってきてもいいのかな」

「悠介さんの人生に必要なら、持ってくればいい。新しい家だからって、新しい人にならなくていいよ」

その言葉で、悠介は高木との写真と古いリールを残した。

梨恵も、優希が幼い頃に使った食器を整理した。傷のついた小さな茶碗は、逃げた家から持ち出した数少ない物だった。捨てられずにいたが、優希に聞くと「写真を撮って、もう手放していい」と言った。

話し合いの翌週、悠介は梨恵へ新しい喫茶店を提案した。予約はせず、「行ってみたいと思っているけど、どう?」と尋ねた。

梨恵は店の写真を見て、「人が多そうだから、今回は『茜』がいい」と答えた。悠介は残念だったが、その感情を隠して同意するのではなく、「少し残念だけど、茜にしよう。別の日に一人で行ってみます」と言った。

梨恵は、相手を断っても関係が壊れず、相手が残念だと伝えても自分を責めているわけではないことを学んだ。

二人は「茜」で、あの日書いた約束を読み返した。完璧に守る誓約ではなく、迷った時に戻るための目印として、手帳の最後の頁へ写した。

悠介はその後、一人で新しい店へ行き、梨恵へ感想を送った。梨恵は安心して「今度、空いている時間に行きたい」と返した。互いの違いを残したまま、次の機会を作る。その小さなやり取りが、住まいの話より先に、二人の暮らし方を変えていた。

次に家の話をするまで、二人は一か月空けた。悠介は住まいの情報を見ないようにし、梨恵も話題を避けた。だが避けるほど、家という言葉が二人の間で触れてはいけないものになった。

ある日、梨恵は「今週は家のことを話さない?」と自分から提案した。時間を三十分と決め、結論を出さないことも確認した。

三人は現在の暮らしで困っていることを書き出した。優希は勉強する場所が狭い。梨恵は収納が足りない。悠介は自分の部屋から二人の家へ通う交通費が増えている。

次に、変えたくないことを挙げた。優希は今の学校への通いやすさ。梨恵は職場と相談窓口へのアクセス。悠介は、それぞれが一人になれる場所。

「前は、広くて新しければいいと思ってた」

悠介は自分の見つけた物件資料を取り出さずに言った。「でも、三人の困りごとを何も聞いてなかった」

優希は「日当たりはいい方がいい」と付け加えた。梨恵も「台所から庭が見えたら嬉しい」と言った。希望が少しずつ出ると、家探しは支配の象徴ではなく、暮らしを想像する作業へ変わった。

最初に三人で見た物件は、写真より暗かった。悠介は気に入っていたが、梨恵が「ここは少し息が詰まる」と言うと、理由を問い詰めず見送った。

二軒目では優希が気に入ったが、夜道が暗かった。夕方にもう一度周辺を歩き、三人で危険だと判断した。

三軒目の後、意見が割れた。悠介は駅近を評価し、梨恵は台所の狭さが気になった。以前ならどちらかが譲って終わっただろう。その日は互いの理由を話し、候補として保留にした。

決めないという選択も、三人で決めた結果だった。梨恵は帰りの電車で、自分が意見を言っても悠介が不機嫌にならないことを何度も確かめた。悠介も、提案が採用されなくても三人の中から追い出されないことを学んだ。

話し合いを終えた後も、すぐ元どおりにはならなかった。梨恵は悠介の提案を聞くたび、また勝手に進められるのではないかと身構えた。悠介は梨恵の表情が曇ると、すべて自分が悪いと思い、発言を引っ込めそうになった。

二人は月に一度、地域の相談機関が開く家族関係の講座へ参加することにした。そこでは、相手を責めずに自分の感覚を伝える練習をした。

「あなたが勝手に決める」ではなく、「相談の前に予定が決まっていると、私は選べないと感じて怖くなる」。「君は何をしても怒る」ではなく、「強い声を聞くと、僕は自分の価値を否定されたと感じて話せなくなる」。

言い換えればすべて解決するわけではない。それでも、自分の感情を相手の人格への判決にしないための助けになった。

講座の帰り、二人は公園のベンチへ座った。

「こういうところに来るなんて、昔は考えられなかった」

悠介が言うと、梨恵も頷いた。「家のことを他人に話すのは恥だと思ってた」

「僕は、男が相談するのは弱いと思ってた」

「今は?」

「弱いところを見せたら終わりだと思ってた自分の方が、苦しかった」

梨恵は笑った。「私も。誰にも頼らず娘を守るのが強さだと思ってた」

三人での話し合いでは、優希にも希望を聞いた。優希は「二人がけんかした時、私を判定役にしないで」と言った。

次の衝突は、新居ではなく旅行の計画を巡って起きた。悠介は三人で一泊旅行へ行きたいと考え、候補を三つ用意した。今度は相談しているつもりだったが、日程を「この週末」とほぼ決めて提示した。

優希には友人との約束があり、梨恵には繁忙期の仕事があった。

「どうして先に空いてる日を聞かないの」

梨恵の声が強くなり、悠介の表情が固まった。

以前の二人なら、ここで過去の恐怖へ引き戻されていただろう。悠介は一度黙った後、「今、責められたと感じて話せなくなりそうです。十分だけ時間をください」と言った。

梨恵も呼吸を整え、「分かった。私は、また予定を決められたと感じて怖くなった」と伝えた。

優希は二人の間に入りそうになったが、約束を思い出し、自室へ戻った。三十分後、二人は結論を出した。だが、話し合いが終わっても、梨恵の胸の奥にはまだ小さな緊張が残っていた。頭では分かっていても、身体がすぐには追いつかない。その日の夕食は、いつもより会話が少なかった。

悠介は、候補を調べることに夢中になり、予定を確認しなかったと認めた。梨恵は、「どうして」という言葉が悠介を追い詰めることを知り、次から「先に予定を聞いてほしい」と希望を伝えることにした。

旅行は二か月後に延期した。優希は参加せず、友人と出かけることを選んだ。

「三人の旅行じゃなくなるけど、いいの?」

悠介が聞くと、優希は「二人で行ってきて」と答えた。「私が来ないと家族じゃないわけじゃないでしょ」

計画の失敗は、二人が以前決めた方法を実際に使えるか確かめる機会になった。回復とは、二度と同じ間違いをしないことではない。同じ場所へ戻りかけた時、別の道を選べることだった。

「前の家で、どっちが悪いか選ばされるのが嫌だった。二人の問題は二人で話して。私に関係することだけ教えて」

梨恵は、無意識に娘へ相談しすぎていたことに気づいた。優希を信頼することと、大人の感情を背負わせることは違う。

「分かった。昨日のことも、全部話しすぎたね。ごめん」

「謝ってほしいわけじゃないけど、次からそうして」

その夜から、梨恵は悠介との衝突を娘へそのまま流さず、必要なら友人や相談先へ話すようにした。優希は母の相談相手である前に、娘でいてよい。その約束も、新しい家族の土台になった。

梨恵は相談員の助言で、自分が緊張した時の合図を決めた。言葉が出なければ、テーブルに掌を置く。悠介はその合図を見たら説明を止め、梨恵が話せるまで待つ。

最初に合図を使ったのは、旅行の日程を話している時だった。悠介が候補を次々示すうち、梨恵は断れない感覚に襲われた。掌を置くと、悠介は資料を閉じた。

「嫌だった?」

「嫌かどうかも、まだ分からない。考える時間がほしい」

二人は翌日まで決めないことにした。優希は隣でそのやり取りを見ていた。意見が違っても声を荒らげず、結論を保留にできる。家庭の中で初めて見る光景だった。

翌夜、梨恵は旅行へ行きたいと答え、日程だけを変えた。悠介も頷いた。合意とは、どちらかが我慢して早く決めることではない。迷いを持ったまま考える時間まで含めて、三人は暮らしのルールを作っていった。


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