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ぬば玉  作者: しんげつ
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六十二、拳

「それだと後ろを取られるぞ。」夕餉の後で、暗い中、

千明が前に足を蹴り出す導引の形をしていると

木の上から声がした。声のする方を見ると、枝がガサっと動いて、

目の前に天狗の面が現れた。

「おお。」近すぎて、のけぞると、背中に手をつけられた。

「ここが、がら空きだ。」

上手く腕を持たれて動けずに、身構える。

「で、みぞおちを蹴られて持ち物は奪われる。」

天狗はみぞおちに、手を当てると、左手で千明の腕を持ったまま、

面を外した。

「碧殿。」

先日、宰相の館で、藤見の不問と、凛と千明で葉の書庫に行く話をされた時に、

相生の横にいたのが碧だった。

唯の護衛かと思っていたが、天狗だったのか。と妙に納得した。

身のこなしが、訓練を受けたものでなければ出来ない様に感じていたからだ。


「出発までに鍛錬をしようと思いましたが、何せ鍛えたことなどないので。」

「一日二日で、身につくものじゃないしな。それにしても、

 力は強そうではないな。」本質を見抜かれて、

「あはは。はっきりと言われますね。」苦笑いするしかなさそうだと思う。

「何通りか、護身術を教えて良いか?」

「もちろんです。お願いします。」と言い終わらないうちに、右手を持たれる。

「これから逃れようとしてみろ。」と言われて、

腕を引いたり、押したりしてみる。碧の右手は千明の手首を捉えて離さない。

左右に降ったりしていると

力が尽きてくる。碧の手が食い込んでくる様だ。

「それだと、一生無理だ。手首を捻ってみろ。」

右回しに捻ってみたが変わらない。逆に捻ってみると

手妻の様に手が離れた。

「え。」碧の顔を見る。

「力を抜いたわけじゃないぞ。力を使う方向をそちらが変えただけだ。」


「そうか!作用する点だな!」

「察しがいい。頭は切れる様だな。」ニヤリとされて、少しムッとしたが、

戦術も頭脳が必要だと、原点を思い出す。後ろから枝が踏まれた音がして、

二人で振り返ると、凛がいた。


「千明様。え?碧?」

凛は天の観測の刻で、いつもの場所にやってきたら思いがけない人物がいて、

嬉しくなった。碧は最近、相生の用をしていることが多い。

「碧殿に護衛の術を教えてもらっております。」千明が真面目な顔で答える。

「え?私も教えて貰いたい。」

「まあ、凛は護身としてな。沢山は無理だけどな。

 すぐ使えそうなやつを何個か。力だけが技ではないから。

 勝つことはできなくても、負けなければいいからな。」


碧はいつもの飄々とした雰囲気ではなく、熱心に話しているように聞こえた。

「では、天の観察の後で、ひとまず今日はお願いしましょう。」

千明は、先ほどの動きで少しはだけだ胸元を直しながら言った。


「じゃあ、俺も見るかな。」と言うと碧が、どかっと、地面にあぐらをかく。

千明と凛はいつものとおり

頭は必ず帝と呼ばれる星に向けて寝転がった。

「寝転がるのか?」碧がいささか驚いたようで

「ずっと見ていると首が痛くなるよ。」と凛がいうと「そうだな。」と呟いて、

凛の横にするすると来ると、頭を同じにして寝転んだ。

虫の音が地を伝っても聞こえてきて、

こおろぎか、鈴虫の音が秋に向かっている。


「今日は月がよく見えますね。半月を少し越したくらいなのに。」

「望月が次にくる時は、季節がもっと変わっていますよ。

 秋分の日には虚宿の星が南中することになっている。」

凛は、千明のいる右手を向いた。

「千明様、今のもう一度良いですか?書き留めておきたいです。」

「もちろんですが、元の考えは佐奈田様からの聞き伝えですが。」

「さすが佐奈田様。すごいな。」

 つい、声が大きくなる。

「私は、その記録が書かれた時から、星がズレているのではないかと

 考えていますが。」千明が力を込めて言う。

「ズレている?」

「ええ、秋が来たと知るには、虚ではなくて、氐が正しいのではとね。」

天から視線を凛に向けて、天文官らしい意見述べて微笑んだ。

一瞬、千明と瞳がぶつかって、どきりとさせられる。凛は、彼の瞳は何色だったか

暗い中でふと考えた。


「水の里では御山の階段に陽の出がちょうど当たる時が秋の入り口だな。」


ばさっと、音を立てて起き上がった碧が二人を見下ろすと、

何故か凛も慌てて起き上がった。

「そうよね。その時から、収穫の例祭の準備があるから。」

「新嘗祭ですね。今年は、五穀が良く育っていると聞いております。」

千明もつられて起き上がる。

「はい。特に稲が。雨が上手く振ってくれてよかった。」


首を千明の方に向けて話す凛の髪を見ながら、

碧は、隣にいる凛が、ひどく遠くにいるような気がしていた。




虚宿の星(みずがめ座β星)

氐宿の星(てんびん座α星)


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