大丈夫
「...誰もいませんね」
玄関を抜け、廊下の角から顔を覗き込ませます。日が落ちた屋敷には闇が広がりつつありました。ここまでは呆気なく辿り着くことができましたが、問題はここからです。
浴室は応接間の奥に位置しています。回り込めるようなルートも無く、行くには応接間の前を必ず通らないといけません。
ドクン、とまた心臓が高鳴ります。見つかったらどうなるか分からない。でももう行くしかない。
振り向くと、純人が間抜け面で壁に飾られた絵を見ていました。
「ほら、行きますよ」
コクリと頷く。ここまで彼は一言も喋りませんでしたが、舌でも切られているのでしょうか。
廊下のランプの灯りを頼りに、物音を立てないよう慎重に進みます。
「そうですか、オスカーの農場が...」
「軍が着いた時には焼け跡しか無かった。周辺の死体は全て人間だったことに加え、全員が痛めつけられた痕跡があったわ」
応接間の会話が聞こえてくる。随分物騒な話をしているようです。
「あの農場は獣人奴隷が1匹登録されていたけど死体は無かった。規模的に単独犯も有り得ない」
「…獣人解放軍とやらですか」
獣人解放軍?初めて聞く言葉です。思わず、内容が気になってしまいます。
「ここ最近急増してるけど、この辺りじゃ初の被害ね」
「…わざわざ貴方が僻地に来たのも討伐が目的で?」
「南の戦線が落ち着いて暇なのよ。中央には戻りたくないし、害獣駆除で暇潰しってワケ」
――害獣。きっとこの人にとって私達を殺すことは、畑を荒らす獣を殺すことと何ら変わりはないんでしょう。
「このマーク、何だか分かる?」
ファルス卿が布のようなものを懐から出した音がします。
「これは…首輪…?」
「欠けた首輪。解放軍のトレードマークよ。昔のよしみで忠告してあげるけど、奴ら奴隷に紛れるから、しばらく獣人の奴隷は買わないことね」
「なんとも難しい忠告ですな。この農場はよく燃えそうだ。そういえば最近、獣人ではありませんが面白い奴隷を買いまして――」
そうだ、早くこの人を風呂に入れなければなりません。応接間の扉を通り過ぎます。浴室まではあと少しです。
「お姉さま」
そう、思った瞬間でした。聞き慣れない側近の声が扉を通して耳に飛び込む。
「何?ダレス」
「扉の前に誰かいますわ」
――
静寂が、屋敷を支配していました。
扉越しに、いくつもの視線が突き刺さる。
冷えた汗が身体中から湧いて出るのを感じます。私も後ろの彼も物音は立ててないのに、どうして気づいたのですか。
浴室はすぐそこです。急いで入る?いや、どうせ浴室まで調べられてしまう。どうしよう、どうしよう、どうしよう――
「屋敷の使用人でしょう。私が開けます」
ルベルさんの声だ。よかった。ルベルさんなら何とかしてくれる筈――
「ダメ。ミノーヴァ、貴方が開けなさい」
「はいお姉さま」
なんで。どうして。
恐怖で目から大粒の涙が零れる。
逃げなきゃ。でも身体が動かない。
殺される。
ドアノブがゆっくりと捻られた。
嫌だ、あの人の、あの目を見たくない。
開かれようとするその瞬間、忘れ去っていた記憶が頭に流れ込む。
そうか、そうだったんだ。
あの目。
同じなんだ。
お母さんを連れ去った人達と、同じ目なんだ。
「――ダイジョウブ」
あれ?
あの目じゃない。
黒くて、暖かくて、優しい目。
誰の目でしょう。
フィーリア?
それとも、ルベルさん?
――お姉、ちゃん?
違う。
その人は、私の前に立っていました。
私を隠すように。
純人にしては少しだけ、頼りない体格です。れでも、その影は私の黒い身体を隠すには十分でした。
扉が、ゆっくりと開かれる。
「……何よコイツ?」
低い声が聞こえます。その人は一歩も退きません。私を背中に隠したまま、目の前の人物を睨みつけています。
そして――
「クソッタレ、カカッテキヤガレ」
屋敷に、片言の悪態が響き渡りました。
――
「くっさいわね、コイツ…武器は持っていませんわ」
威勢は良かったものの、次の瞬間には応接間の床に叩きつけられている純人の姿がそこにありました。私はというと…その隙に物陰へと逃げた臆病者です。
「よく気取ったわダレス、帰ったら可愛がってあげる」
「有り難きお言葉」
「お姉さま!取り押さえたのはこのミノーヴァでしてよ!」
「それで?これ、殺していいの?」
「お姉さまァァァァ!」
まずいです。このままだと彼が殺されてしまう。私にとっては命の恩人です。何とかして助けないと。
でも、どうやって――
「お待ちください」
旦那様の声だ。そうだ、そもそも全部あなたのせいでしょ。
「非礼をお詫び致します。此奴はウチの奴隷です。面白い人種だったもので、ファルス殿にお見せ出来ればと思っていたんですが…」
「まさかコイツが"忘れ物"?きったならしいわねえ」
「洗ってから寄越すつもりだったのですが、手違いがあったもので」
ピキピキ、という音が聞こえる。おそらくセリスさんの血管の音でしょう。
「ふざけないで。視界にも入れたくないわ。とっとと出て行かせなさい」
よかった。何とか彼も殺されずに済みそうです。
「――黒い瞳の、持ち主なのです」
「…なんですって?」
黒い瞳。確かに彼の目は、吸い込まれそうなほど黒いです。農場の純人たちは皆、青や赤など、多彩な色の瞳を持っていますが、黒い人は一人もいません。
「ミノーヴァ、顔をこっちに向けて」
「はい!お姉さま!」
「アンタのゴツい顔じゃないわよ!その奴隷の顔よ」
「はぁい…すみません…」
「……コイツの奴隷区分は?」
「罪人奴隷です」
「罪状は」
「分かりません」
「…ふざけてるの?」
「奴隷商も分からんと言うのです。ただ、裏山の滝で全裸で放尿していたと」
「は?」
は?放尿?
「言語も通じないので奴隷で処理されたのだと思いますが」
「…それを買うあんたも大概な趣味ね」
全裸で放尿って言ってませんでしたか?
「珍しい物が好きなだけですよ。それよりどうでしょう、まさしく黒い瞳では?」
「…確かに黒い。顔もなんかこう…のっぺりしてるわね」
全裸で放尿ってなんですか?
「各地を転々とする貴方でも、やはり見知らぬ人種だと?」
「今の所はね。でもだとしたら…」
「そう。問題は此奴が何処から来たのか。海を知らぬ者がいるような内地に、公用語を知らぬ異国の者がどうやってここまで来たのか分からんのです」
「そういえばコイツ、さっき片言で生意気な事言ってなかったかしら」
「…!おい、言葉が分かるのか?」
さっきはあんなに格好良く見えたのに…全裸で…放尿…
「頷いてるわね。ミノーヴァ、放しておやり」
「おお…あのピヨが言葉を…」
「アンタ、何処から来たの」
「……ニホン」
「…聞いた事ない国ね。うっかり滅ぼしてるかしら。どうやってここまで来たの」
「ネテ、オキタ、ココニイタ」
「大丈夫なの?コイツ」
「ウソ、チガウ」
「分かった。書くものあるかしら?」
「ここに」
「アンタ、自分の国の文字書けたりしない?」
「ふむ...とても文字を学習しているようには見えませんが…」
「カク。デキル」
「なんと…しかし、異国の文字が読めるのですか?」
「読める訳ないでしょ。この手の解読が得意な物好きが知り合いにいんのよ。ほら、書いてみなさい」
――
「な…何よこの文字…象形文字…に近いような…でも複雑すぎるし何より要素が多すぎる…こっちの文字はなんかフニャフニャしてるし…と思ったらこっちの文字は角張ってるし…これ全部同じ言語…?気持ち悪…こっちは数字かしら…?ああ、1、2、3…これは線の数で分かりやすいわねって…これ4!?なんで急に線じゃないのよ!ああ気持ち悪い!」
ファルス卿の声で我に返ります。
あの人、文字を覚えているのですか。フィーリアから教えて貰ってはいますが、文字を覚えるのは一筋縄ではいきません。
「これほど難解な文字を習得しているとは…」
どんな文字なんでしょう。気になりますが、また見つかっては彼の苦労が台無しになってしまいます。
「…何にせよ得体が知れないわね」
「お姉さま、中央に連行してはいかが?」
「臭いしキモいし中央行きたくないしヤダ。もう帰るわよこんなキモい農場」
「もうすっかり夜です。先程の獣人解放軍の話もある。護衛を何人か付けましょうか」
「誰にモノ言ってんのよ。それじゃあ一週間後、また来るわ」
「…!承知しました、お気をつけて」
まずい、ファルス卿が出てくる。急いでその場を離れ、元いた庭園へと向かいました。
「ニホン……」
走る最中、私は小さく呟きました。彼のことは、私には何も分かりません。
ただ、一つだけ分かったことがあります。
あの人は、私の知らない場所から来た。
そして――
私を助けてくれた。
――
同時刻。
地面に臥したニワトリの獣人の傷跡を、老いた馬が慰めるように舐めている。
彼の傍には一本の折れた小さな旗が転がっている。
赤い旗には、欠けた首輪のマークが記されていた。
思ったよりめっちゃ屋敷編長くなっちゃった




