有心論
「――許せない!絶対もっと怒るべきだよ!」
晴れた空の下、屋敷の園庭にて。
ファルス卿の一件があった次の日、私とフィーリアは変わらない朝を迎え、変わらない仕事を終え、昼食を取っていました。
「フィーリア…もう終わった話ですから」
「ファルス卿にまた見つかるような危険なことやらせるなんて!旦那様はひとでなしだよ!」
「聞こえますよ…」
応接間にはセリスさんとルベルさんしか入室を許可されていないため、フィーリアに昨晩のことを質問攻めされており、事の顛末を聞いた彼女は怒りの表情のままパンに食らいついています。
「セリスさんとルベルさんにもしこたま怒られていましたから。私もほら、何にも無かったですし」
両腕を広げてフィーリアに見せると、彼女の可愛らしい眉が段々と下がり、怒りから悲しみに近い表情に移っていきます。
「……絶対次は断ってよね」
『奴隷だから無理ですよ』
そう言いかけた口を閉じる。私の受け取り方が悪いだけで、そう言ってくれるのはきっと彼女の優しさだから。
フィーリアとは物心ついた時からこの屋敷で一緒にいます。友達というよりは、もはや姉妹に近い感覚です。
私たちは二人とも、ルベルさんがどこかで拾って屋敷に連れてきたと聞いています。
それ以上詳しいことは、聞けていないのです。
「それで、そのニホン…?の奴隷の人ってどんな人だったの?」
フィーリアに聞かれ、彼の目を思い出す。
「えっと、そうですね…」
ふと、何故かお姉ちゃんの顔が頭をよぎる。なぜ、私は昨晩まで姉のことを忘れてしまっていたんでしょう。
お姉ちゃんの目。おおきくて綺麗な、金色の瞳。
――今、お姉ちゃんは何処で何をしているのでしょう。無事なのでしょうか。
「ノクシー?どうしたの」
肩をゆさゆさと揺さぶられ、我に返る。固まってしまっていたようです。
「すみません、えっと、黒い髪で、黒い瞳で、優しい人で、片言で、異国の文字を知っていて、あと――」
――全裸で放尿。
頭に浮かんだ最後の言葉を、首を振って掻き消す。
「あと?」
「…優しい人でしたよ」
「相当優しいんだね」
「…そうですね」
「いいなあ、私も会いたかったなあ。屋敷の男の人って旦那様とナッシュさんくらいだし。それにしても黒い髪と黒い瞳って…なんか見たことあるような…」
ブツブツとぼやくフィーリアを横目に、誤魔化すようにチーズを口に放り込む。濃厚な香りが口いっぱいに広がります。
「あ、分かった!」
「何がですか?」
フィーリアにそう聞いて、彼女が口を開くその瞬間でした。
コケーーーーーーーーーー!!!!
農場に、信じられない大きさのニワトリの声が響き渡りました。
驚いた私とフィーリアは肩を上げて目を見開いたまま、ゆっくりと顔を合わせます。
プッ、と、お互いの口から空気が漏れる音が鳴り、それが決壊の合図かのように、私たちは声を上げて笑いました。
「な、何今の。ニワトリ?」
「フィーリア、凄い顔してましたよ」
「ノクシーだって」
こんな日々が、いつまでも続けばいいのに。
そう、思っていました。
――
「もー、午後の掃除もあるのにさあ」
昼食を終えた私とフィーリアが食器の返却のために厨房へ行くと、ナッシュさんはそこにはおらず、厨房の裏手にある井戸から呼ぶ声がしました。
裏手にはナッシュさんと、大量の食器が溜まった洗い桶があり、簡単に言えば私たちはそれを押し付けられてしまいました。
「ほんとうに、ルベルさんに怒られたら大変ですよ」
「それにしてはノクシー、嬉しそうだね」
本来は私は食器に触ってはいけないのですが、誰も見てないからとフィーリアに言われ、私は夢中で洗っていました。
「そんなことないですよ」
「ニヤニヤしてるよ。あと尻尾」
旦那様の食器に初めて触る緊張と、今まで出来なかった仕事が出来る嬉しさが胸に溢れて、顔に出ていたようです。
「そ、そんなことより、さっき言いかけてたことは何だったんですか」
「あ、そうそう!ノクシー、楽器の女の子、覚えてる?」
私が洗った食器を、フィーリアが拭いていく。
「ガッキの、女の子ですか?」
「そうそう。納屋の変な箱に入ってた、女の子の絵。覚えてる?」
「ええ、もちろん」
記憶を掘り起こそうと、無意識に空を見上げました。先程までの青空が嘘のように雲が広がりはじめています。
あの絵に描かれていたのは、たしか大きな向日葵を持った、黒髪の──
「あ、もしかして──」
「気づいた?そう、瞳の色は分からなかったけど」
「黒い、髪」
「だったよね」
フィーリアが一枚、一枚と拭き終わった食器を重ねていく。
「あの奴隷の人と関係あるんでしょうか」
「分かんないけどさ、その人文字も知ってたんでしょ?」
また記憶が呼び起こされる。たしか絵の裏には、私たちの知らない国の文字が描かれていました。
彼が書いていた文字がどんな物だったかは見えませんでしたが、同じ文字の可能性はあります。
「──あの楽器のことも、もしかしたら知ってるんじゃない?」
かちゃ、とフィーリアが最後の一枚を重ねました。
――その時です。
「あんたたち」
大きな影が、私たちを包みました。思い当たる人物は一人しかいません。
「掃除は」
赤い髪の婦長が、いつの間にか後ろに立っていました。
「ルルルルベルさん!」
急いで立ち上がりましたが、とっさに泡と水にまみれた手を見えないように後ろに隠しました。
「こ、これはナッシュさんに押し付けられて…行こうとしたんだよ!ほんとだよ!もう、ナッシュさんったらほんと困っちゃうなあ――」
「ノクシー」
フィーリアの口に蓋をするかのような重い声が響き、思わず肩が震えました。後ろに隠した手の先から、ぽたりと水滴が落ちるのを感じます。
「手を見せな」
とっさにスカートを握り、なんとか泡と水を染み込ませようとします。
「無駄だよ。いいから見せな」
しかし、そんな浅はかな考えはお見通しのようでした。
先程の胸中とは打って変わり、後悔と自責に頭を支配されながら、泡のついたままの両手を小さく差し出しました。
「違うのルベルさん、私が勝手に――」
焦るフィーリアの声が、立てられた人差し指一本で遮られる。
お前は黙ってな、という声が聞こえてくるかのようです。
「ノクシー」
顔を背けたまま、ゆっくりと視線を合わせる。
ルベルさんは、怒りでも、悲しみでも無い、冷たい水面のような表情でした。
「…あんたは賢い子だ。自分が何をしたのか、分かってるね」
冷たいようで、どこか優しいような声色でした。
「はい」
「自分がどういう立場かも、分かってるね」
「…はい」
「旦那様に報告して、罰を受けてもらう。いいね」
「……はい」
「よし、じゃあ行くよ」
俯いた私の背中を、ルベルさんに優しく叩かれる。
「フィーリア、あんたは食器を洗い直して。片付けたら洗濯物を入れな。ひと雨来そうだ」
ルベルさんが投げかけましたが、返事はありませんでした。
「フィーリア」
ルベルさんと共に振り向くと、俯いて肩を震わせる少女の姿がそこにありました。
「…ただけじゃん」
「…なんだって?」
フィーリアが顔を上げる。彼女の眼には、大粒の涙が浮かんでいました。
「洗い物してただけじゃん!ノクシーは何にも悪いことしてない!なんで私は良くて、ノクシーが罰を受けなきゃいけないの!」
「それは――」
「――獣人の奴隷だから、でしょ」
ルベルさんが口を閉じる。心なしか、驚いているように見えます。
フィーリアがルベルさんに対してこんなに声を荒らげるのは、私の知る限りでは初めてのことでした。
「みんなおかしいよ。ノクシーは普通の女の子だよ。掃除は私より丁寧だし、手先だって私より器用だよ。戦争にも行ってないし、誰も殺してなんかない。なんで獣人ってだけで、無茶なことさせるの。なんで獣人ってだけで、罰を受けなきゃいけないの」
浮かべていた涙が溢れ、ぽたぽたと地面に流れ落ちていく。
「フィーリア、私は――」
「大丈夫じゃ、ない」
彼女の涙を止めるつもりが、逆効果のようでした。
「大丈夫じゃないよ。絶対大丈夫じゃ、ない」
フィーリアが手で顔を覆う。
いつの間にか空は、完全に雲で覆われていました。
「…あれはもう十年以上前かね」
ルベルさんが、どうしたらいいのか分からない私を置いて、ゆっくりと洗い桶の元に向かいました。
「あんたたちが来る前にも、シャラっていう黒いヤギの獣人が屋敷にいたんだ」
積み重なった食器をひとつずつ手に取り、何かを確かめています。
「あれは料理が得意でね。厨房じゃ随分と働き者だった。私もよく可愛がってたもんさ」
ルベルさんが何かを見つけ、それをつまみ取り、振り返りました。
「見えるかい?」
そのつままれた指先には、長細い黒い毛が一本、揺らめいていました。
どう見ても、私の毛です。
細心の注意を払っていたつもりですが、紛れ込んでしまっていたようでした。
それを見たフィーリアは何か言おうとしましたが、悔しそうな顔で口を閉じます。
「ちょうどこんな毛がね、客人に提供したスープに入っていたんだ。運悪く、獣人嫌いの奴のね」
ルベルさんが指先をぴん、と弾き、毛がどこかへ飛んで行きます。
「シャラは用心深い子だった。絶対に自分の毛が料理に入らないように工夫していたし、私たちが配膳する直前に必ずチェックもしていた。もちろんその日も。より念入りに、ね」
ぽつりと、雨粒が当たるのを感じました。
「でも、入っていた」
それは次第に、大粒へと変わり。
「シャラは誰かが入れたと主張した。けどいくら獣人が喚いたところで、誰も信じてくれやしなかった」
雨音が段々と、大きくなっていきます。
「犯人は結局、見つかっていない」
雨に濡れた髪が、ルベルさんの表情を隠していました。
「…ごめんなさい、ルベルさん。ごめんなさい、ノクシー。私あなたのこと、全然考えられてなかった」
涙ぐみながら謝るフィーリアの頭を、大きな手が撫でる。
髪を手でかき上げたルベルさんの表情は、暖かみのあるものに戻っていました。
「私も旦那様も意地悪したい訳じゃないさ。全ての規則には理由がある。ノクシーが大切なら、同じくらい規則も大事にしな。ノクシー、あんたもだよ」
その大きな手が、私の頭にも伸びる。
わしわしという、安心感のある感覚が頭を包みました。
「シャラさんは結局、どうなったのですか」
撫でていた手が止まる。
「それは――」
その瞬間。
――ヒュッ、と。
突然、雨音を切り裂く小さな風切り音が、耳元を掠めました。
それを聞いたルベルさんの微笑みが瞬時に険しくなり、どん、と背中を押されました。
「ノクシー!フィーリア!屋敷に入りな!今すぐ!」
――ざしゅ。
それは、柔らかい果実を切ったような、そんな音。
鮮血が混じった雨の中、さっきまで私たちを撫でていた手が、宙を舞っていました。




