会心の一撃
降り注ぐ雨に押し出された赤い液体が、その場にへたり込んだ私の足元まで広がっていました。
フィーリアの悲鳴が響く。声にならない音が喉から出る。抜けた腰に力が入らない。目の前の景色が、現実なのか判別出来ません。
「ったく…鈍ったかね」
ルベルさんがスカートを破り、左腕に強く巻きつけると、ぶしゅりと血が噴き出し、段々と勢いが弱まっていく。
その腕の先端にあるはずの、さっきまで私たちの頭を撫でていた"それ"は、数メートル先にごろんと転がっています。
転がった先には、血まみれの剣を握るフードを被った何者かがしゃがみ込んでいました。脇腹を抑えて、ゴホゴホと咳き込んでいる。
「ル、ルベルさん、手が…」
そうフィーリアが呟き、私はようやく目の前の人間が、手を失ったことを理解しました。
今すぐに手当てをしなければいけないはずです。
「フィーリア、その斧をよこしな」
しかしルベルさんは旦那様でも、医者でもなく、すぐ後ろの壁に立てかけてあった斧を要求しました。
目線はフードから一切逸らさずに。
「で、でも…」
フードが立ち上がり、こちらを振り向こうとしている。剣を構える姿勢からして、話し合う様子ではありませんでした。
「いいから早く!」
フィーリアが斧を取り投げる瞬間、そこに居たはずのフードが、視界から消えていました。
ルベルさんが斧をぱし、と受け取ったと同時に、足元の洗い桶を蹴り上げる。周囲に食器と石鹸水が散らばります。
そこから私が認識出来たのは、数回に渡って響いた、金属同士が弾き合う音。
――そして、手を失った方の腕で一撃を与えるルベルさんの背中だけでした。
―――
がしゃりと剣が落ち、フードが倒れ込む。
落ちた剣をルベルさんが蹴り飛ばしました。
「…さて、このまま首を落としたっていいが」
えずいて苦しんでいるフードの首に、斧をぴったりと這わせる。
まるでいつもの彼女が客人をもてなす時のように、一連の動きは淀みなく、慣れた手つきで行われました。
私とフィーリアは、その様子を怯えながら見ることしか出来ませんでした。
しかし、怯える対象はフードだったのか、それとも――
「最近物騒でね。あんたにはいくつか聞きたいことがある。けどまずは――」
首に当てていた斧を、彼(彼女?)のフードの先端に滑らせる。
「お顔を拝見といこうか」
はらりとフードが脱がされたその瞬間、時間が止まったかのように、私たちは目の前に映るそれを受け止めることが出来ませんでした。
その人は、獣人なのか、純人なのか、男性なのか、女性なのか。全く分からなかったのです。
顔と頭に巻かれた包帯の隙間からは、毛のない肌が露出しており、剥き出しの口には牙はありませんでしたが、純人の歯には見えません。
しかし、獣人ならば多くが持つ大きな耳も、純人が持つ小さな耳も、その人には無かったのです。
唯一ハッキリと分かるのは、私と同じ金色に輝く瞳が、私を見ていることでした。
「…して」
怒りと悲しみが溢れている口から、小さく、か細い声が発せられた。
「ノクシーを、返して」
それは悲しみにも、呪いにも聞こえる、そんな声でした。
――
「ご苦労だったルベル。すぐに医者を手配しよう」
「掠り傷ですよ。それよりも旦那様、地下牢と尋問の用意を」
「手当てが先だ。投獄はセリスに任せてある。しかし、確かにノクシーと言ったのか?」
「ええ。接敵してからノクシーの名は一度も出していませんが、確かに」
「…そうか。まずは休め。尋問は私がやろう」
「二人は?」
「自室で休ませているが、ひどく憔悴している。無理もないがな」
「醜い姿を見せてしまいました。私に怯えてなきゃいいですが…」
「セリスに様子を見させよう。手当てが終わったら顔を見せなさい」
「…ありがとうございます」
「フフ、あの"鉄血のルベル"が子供を守るために手を飛ばすとはな」
「…後ろにいるのが旦那様だったら手は飛ばずに済んだでしょうね」
「どういう意味だ」
――雨音に混じって、旦那様とルベルさんの会話が聞こえてくる。
私は自室兼物置部屋の暗く冷たい床の上で膝を抱えて座っていました。
スカートの裾に染み込んだ血が、これまでの出来事が夢ではないことを物語っています。
ぎゅう、と服を握りしめ、膝に顔をうずめる。
あの人は、私の名前を知っていた。
何度も、何度も、掠れた声で私の名前を呼んでいた。
あの人は、お姉ちゃんと同じ瞳だった。
でも私の記憶の、あの暖かい瞳じゃない。
憎悪と絶望に染まった、恐ろしい瞳だった。
怖い。
ルベルさんの腕が無くなったことも。
斧を首に当てていた時の、見たことない顔も。
フードの下の、恐ろしい姿も。
そして、あの人が、私のお姉ちゃんかもしれないことも。
全部、全部、わからなくて、怖い。
どうしたらいいのか、わからない。
床がいっそう冷たく感じる。
ここはひどく、寒い。
ふと、脳裏に、純人奴隷のあの人の瞳がよぎる。
あの時も、こんな恐怖を感じていた。
でもあの人の瞳は、記憶の中のお姉ちゃんと同じ、暖かい瞳だった。
あの人なら、こんな時どうするだろうか。
「ノクシー、ノクシー」
そんな時、古いドアの向こうから声がしました。
「大丈夫?開けてもいい?」
可愛らしい、花のような声。
「フィーリア」
私は立ち上がって、ドアの前に立ちます。
救われたような気持ちでした。彼女なら、この怖さも分かってくれるはず。
「ナッシュさんがね、お詫びにってチーズくれたの。一緒に食べよ」
チーズは私の大好物です。ドアの取手に手をかけました。
「ノクシー?」
しかし、私はそのドアを引くことが出来ませんでした。
「…すみませんフィーリア、私は後で貰います。今は少し、一人にさせてください」
自分でも、何故そう言ったのか分かりません。しかしこの扉を、開けることが出来なかったのです。
「…そっか、ごめんね。チーズ、ドアの前に置いておくから」
そう言って、足音が遠ざかっていく。
声色だけで、彼女がどのような顔をしていたのか、ドア越しでも分かる。
きっとそれは、悲しい顔。
ごめんなさいフィーリア。でもこれは、私とお姉ちゃんの問題だから。
きっと私は、あなたに迷惑をかけたくないんです。
私はドアを開け、チーズを室内に置いた後、それに一切手をつけず部屋を後にしました。
――
「いいだろう。そっちの件は任せたぞ、ヴェスペル」
「仰せのままに、旦那様」
目的地は、玄関ホール。
そこにはルベルさんを乗せた馬車を見送る、旦那様と、あれは...ハイエナの人?がいました。
ハイエナの人がニヤニヤと不気味な笑顔を浮かべながら離れていくのを見計らって、そそくさと旦那様の近くに足を運びます。
「旦那様」
「おお、ノクシー。ちょうどセリスに様子を見させるところだった。もう大丈夫なのか」
振り向く旦那様の目を、しっかりと見つめる。
「…どうしたんだ」
すう、と目を閉じて息を吸う。
不思議と緊張は無かった。
「尋問に、私も連れて行ってください」
きっとあの人も、こうするから。




